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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

聖女様は気付かない。

掲載日:2026/08/22

 

 薄暗い礼拝堂の冷たい床に膝をつき、聖女は心からの祈りを捧げていた。


「女神アイリス様の加護が皆の元に降り注がんことを……」


 真白な生地に、金糸で豊穣を意味する紋様が縫われた法衣を纏うその姿は、禁欲的で、けれど何処か背徳心も煽られる。その四肢は白く、ほっそりとしていて、女性らしい膨らみも秘めやかで。

 頭部から後ろにふわりと被せられたケープから覗く、柔らかな白色の髪と淡い金の瞳の色がそれらを助長させていた。

 その頭に降り注ぐステンドグラス越しの淡い朝の光が、彼女を神々しく、そして儚く照らし出す。


(――なんて。うーん、今日も完璧な聖女像!)


 内心ガッツポーズを決め込む私はそう、勤続三年目に突入した元現代人オタク、今はローラシア王国第240代目の現役聖女様である。えっへん。


 異世界召喚の際、名前を訊かれて「ユリです」と答えたら「リリィ様ですね!」と耳の悪い司教様に誤認され、そのまま定着した元日本人の私。まぁこちらの世界でも「百合」の花と意味は同じらしいので受け入れた。

 ついでになんとビックリ、異世界召喚されたら髪と目の色まで変わってしまった。元は何処にでも居る平凡な、黒にも見える焦げ茶だったというのに。

 そんな私は今日も今日とて、朝一番の静寂が満ちる大聖堂の壇上で、凛とした姿勢を崩さずに神への祈りを捧げている。

 毎朝四時起きでの冷水沐浴。朝食は硬い乾燥パンと、何回希釈したの?という水のような薄いスープ一杯。豪華な刺繍の裏側に隠された法衣の生地は、麻袋のようにゴワゴワで肌を容赦なく摩擦してくる。正直そこだけは敏感肌だったら耐えられなかった。本当に。


(でも大丈夫!聖女たるもの、禁欲と質素倹約こそが美徳って相場が決まってるし。厳しい修行に耐えてこそ真の聖女!)


 過酷な環境に一切嫌な顔を見せず、むしろ清々しい表情で祈り続ける私を、少し離れた柱の陰から痛々しそうな眼差しで見つめる人物がいた。私の専属護衛を務めて三年目になる聖騎士、シリウス様だ。

 銀髪に鋭い藍色の瞳を持つ彼は、若くして魔導騎士団の副隊長にまで登り詰めた凄腕の騎士である。チャームポイントは、綺麗な顔にそぐわずお持ちであらせる、中々ご立派な筋肉。


「おはようございます、聖女様」

「おはよう、シリウス様」

「また私が来る前にここへ来て……。何のための護衛とお思いですか」

「だって、最近忙しそうですし。神殿ではなく、実家から通ってるのでしょう?」

「私の事など気遣わなくて良いのです」


「はぁ……」と、憂いを帯びた溜息をつくその表情も麗しい。

 彼はなぜかいつも、朝の私を見るたびに苦虫を噛みつぶしたような、歯痒くてたまらないといった表情を浮かべているのだ。

 まぁそれも仕方の無いことだろう。彼は現在二十六歳、結婚適齢期どころか、こちらの世界では若干適齢期を過ぎているし、元々は王宮で魔導騎士団の副隊長を務めていた出世頭で、オマケに侯爵家の嫡男。

 本人が望んで志願し、聖女候補付きになったのだと聞いた時はなんて勿体ないことを、なんて思ったものだが、当時聖女候補だった他のご令嬢方から聞いた話によれば、王命で断れなかったのだとか。

 なんてお労しや、シリウス様。


「どうかしましたか。寒いのでしたら私の外套を……」

「ううん、なんでもないの」


 おっと、思わず哀れむ視線という不躾なものを送ってしまった。失敬失敬。

 これまた生地の良さそうな――実際、滅茶苦茶良いだろう聖騎士の真白い騎士服。肩掛けの青い外套を外そうとするのをやんわりと止め、礼拝堂を後にする。半歩後ろを歩く彼はこちらに真っ直ぐ視線を送ってきていた。


 こんな所で禁欲生活真っ只中の聖女様に四六時中くっついて回ってるだけの騎士なんて、名誉だ何だと彼や騎士の方々は言い張るが、出世街道の「し」の字もあったものじゃない。

 毎日実家に帰りたくなるのも分かる話だ。寧ろこれまでよく真面目に務め上げてくれていたと思う。

 その代の聖女一人につき一人、という、今の聖女の任期が終わったら、聖騎士も同じようにお役御免になるらしいので、私が任期を終えるまであと二年、彼は独身貴族ライフが約束されている。

 365日年中無休、労基が来たら問答無用で営業停止を食らうような職務なのだ。しかもそれは聖女の任期五年間続く。私が彼を指名した訳では無いけれど、感謝よりも申し訳なさがどうしても勝ってしまう。

 適度にプライベートで発散出来ていることを祈るしかない。


「リリィ様、朝食はどちらで摂りますか」

「今日も部屋で食べるわ。皆困ってしまうもの」

「……分かりました。部屋に送り次第、直ぐにお持ちします」

「ごめんね、ありがとう」

「いえ。あなたの為なら幾らでも」

「嫌なことは嫌って言っていいからね?」

「あなたに頼られて嫌な事など、一つもありませんので」


 中央の礼拝堂から長い回廊を歩き、日当たりの悪い神殿の北側にある自室へと戻る。食堂で食べると皆萎縮してしまうのか、散り散りに居なくなってしまうのだ。食事の時間くらいゆっくり過ごして欲しい。

 私が部屋へ入ったのを確認すると、シリウスは「大人しく部屋に居てくださいね」と、釘を刺して東側にある食堂や厨房のある区域へと向かった。

 本来なら侍女がすることも、彼は一手に引き受けてくれている。聖教会はちょっと資金難らしく、幾らか節約中という訳らしい。真っ先に人件費を削るというのは、この世界も同じようで。


 彼を見送った後、私は法衣を脱ぎ捨てて、簡素な白いワンピースに着替える。これは聖女になってから半年辺りでシリウスがくれた物だ。

 一度だけ、夏の暑さとごわつく法衣に肌が荒れてしまった事があって、その後すぐに彼がこのワンピースをくれたのだ。聖女の首や手首に汗疹や湿疹だなんて、見た目的にも外聞的にも良くないのだろう。

 自室で過ごす時には必ずこれに着替えるよう言い含められていて、私も着心地の良いこのワンピースは気に入って着させてもらっている。


「今日は、下町での治療活動と謁見の日だったっけな……」


 行儀が悪いが誰も見ていないので、寝台に仰向けで寝転んでやる。

 天井は素朴な打ち付けの木の板目だが、部屋の中心には豪奢なシャンデリアが吊り下げられている。法衣の内側と違って天蓋付きのクイーンサイズのベッドに、白と金で統一されたクローゼットと本棚、そしてテーブルセット。

 これらは歴代の聖女様に与えられる代々の物らしく、有り難く使わせて頂いている。

 聖女候補から聖女となった時には、その生活レベルの上がり具合に随分驚いたものだ。


「お食事をお持ちしました……」


 今日も今日とて、シリウス様は絞り出すような低い声で食事を持ってくる。

 そんな声と共にノックした彼を部屋に出迎えると、慣れた手つきでテーブルセットへと食事を並べていく。今日の朝食は、乾燥したフランスパンより硬い、毟らないと噛みちぎれない硬パンと、お湯を入れ過ぎたインスタントのコーンポタージュのようなもの。そして可愛らしいバスケットに入った甘い蜜林檎が二つ。


(あれ、今日はバスケット付きの日だっけか)


 週に一度くらいの頻度で、食事とは別に追加でバスケットが付いてくる。その中身は果実や甘い砂糖菓子からケーキ、それだけではなく、野菜や肉料理が入っていることもある。


「持って来てくれてありがとう、シリウス」

「……リリィ様。貴女は国の至宝たる聖女だというのに、奴らはまたしても……」

「いえいえシリウス様、これでいいのです。聖女たる者、身も心も清廉でなければなりませんから!」


 私が満面の笑みで答えると、シリウス様は言葉を詰まらせ、さらに顔を歪めた。


「……なぜ、そこまで健気になれるのですか。貴女が受け取っている仕打ちの理不尽さに、なぜ怒りを覚えないのですか」


 あまりにも切実な彼の訴えに、私は心の中で首をかしげる。シリウス様は嫌々この職務に就いている筈なのに本当に優しくて、いつも私の身を案じてくれる。けれど、聖女の務めとはこういう過酷な試練の連続なのだから、心配しすぎだと思うのだ。

 朝の祈りが終われば、次は貧困層が暮らす下町での治癒奉仕。その後は夕方まで、大聖堂にて週に一度の聖女様と握手会――実際には、謁見して軽く言葉を交わすだけ、が待っている。


(ふふ、今日も一日、聖女として気合を入れて頑張らなくっちゃ!)


「ねぇシリウス様」

「シリウスです」

「……シリウス?」

「はい、何でしょう」


 この男、外では許してくれるが、何かと他人の目が無い所では敬称を付けずに呼ぶよう強要してくる。自室に居る時は必ず、絶対敬称を外して呼ばないと返事もしてくれないのだ。

 しかも最近は、聖女様として丁寧な口調を心掛けていたというのに、もっと砕けた口調で喋るようにも要求してくる。だから、彼の前では殆ど素を出している状態だ。聖女としての猫被りなど一欠片も残っちゃいない。……まぁ、猫被りを知っていたら違和感とか不快感とかあるのかもしれない。シリウス様には世話になっているので、基本的に彼の要求には私も寛容なのだ。


「蜜林檎が二つあるの。シリウスも一つ食べない?」

「あなたに用意した物です。私には不要です」

「でも食べきれないよ……。ね?」

「蜜林檎は糖分も高く、保存も効く食糧です。 戦場でも重宝されるくらい持つので、腹が減った時用に取っておいては?」

「うーん……あんまり贅沢に口が慣れるとどんどん貪欲になりそうで……。まぁ、たまにはね。うん、シリウスの言う通りそうする」


 齧り付いた蜜林檎は、硬パンよりも、ポタージュよりも濃厚な味と旨みがして、語彙力が追いつかないほどに甘くて美味しいのだ。そういえば、前にもシリウスがそう教えてくれてたかもしれない。


「…………」

「シリウス、やっぱり食べる?」

「いいえ、大丈夫です」


 そんな彼の拳は固く握りしめられ、今にも大司教様の胸ぐらを掴みに行きそうなほどの憤怒を孕んでいることに気付かずに、私は暢気に味わうのだった。





 ◇



「聞いてますか、リリィ様」

「はい、もちろん」


 今日は午前中は王都にある数箇所の孤児院へ赴き、子供達と触れ合い、彼らに女神様の加護をお祈りした後、午後は聖教会について学ぶ時間だ。この国に喚ばれてから何度も学んできたので、今更何を学ぶのだと言われると本当に困るのだが、大体今まで教わったことの復習と、抜き打ちテストである。

 大体のことは縦に頷き従う私だけれど、昔からテストというものが嫌いな私は、この時間だけはどうしても好きじゃない。


 この国に喚ばれ、早くも四年が経とうとしている。

 現代人であった私は、華の金曜日二歩手前、水曜日という一番やる気も出なくてしんどい日の夜に、自宅へ帰る途中にキラキラ輝く魔法陣に囲まれて召喚された。

 この世界には魔法に魔物、そしてアイリス様という女神への信仰がある。この国――ローラシア王国はその女神信仰の発信地であり、女神様のお膝元と呼ばれていて、各国それぞれにある聖教会の本山であり、聖女様の住まう地と決められている、らしい。

 この辺りのことは、耳にタコができるほど聞かされているのでいやでも覚えた。


 どうもこうも、聖女様というのは世界中からの選抜式らしく、それも候補の一人は必ず異世界から召喚するのが掟だそうで、そこで選ばれたのが私で、しかも今期は数百年振りの異世界聖女様(私命名)となったのだとか。ううん、改めて聞いてもよく分からないルールだ。


「何故異世界から聖女候補を喚ばなければいけないのか、それは我々にも分かりません。女神様のお考えですから。あなたは清く正しく、聖女としての責務を全うすれば良いのです」

「はい」


 今の教育担当は、真っ黒な髪をきっちり結い纏め、細い銀縁の眼鏡を掛けた真面目で厳格そうな女性神官だ。毎月担当が変わる仕組みなようで、入れ替わりが激しいものだから名前が覚えられないとシリウス様に泣きついたら、「彼らの名前など一々覚えなくてよろしい。良いと思った人のみ覚えて置いてください」と一刀両断された。彼は割り切りが良く、合理的な一面もあるのだ。


 教育係の神官は男女関係なく配属されているようだが、ここ最近は女性が続いている。神殿には女性が少なく、男性が約八割近くを越えるのだが、大丈夫なのだろうかとは思いつつ、まぁ、それも過去にあった事件を思えば流石に仕方ない事だとも思う。


 聖女に選ばれて二年目の、ある冬のことだった。

 その時の教育担当の神官に、私は危うく身を暴かれそうになったのだ。

 顔はもうあまり良く覚えていないが、ねちっこい喋り方と口臭対策のなってない汚い口を耳元に近付けて囁いてくるおっさん神官だった事だけはよく覚えている。勿論、嫌悪的な意味で。


「聖女というのは女神の代行者とも呼ばれております。にしては、あなたが選ばれてそろそろ二年と経とうとしていますが、春は大嵐が訪れ、東の辺境は土砂災害に見舞われ、夏は北の国境沿いで魔物の大群が押し寄せ、果てにはこの冬の大寒波。何を言いたいかお分かりですね?」


 コツコツと、硬い靴底を鳴らして部屋を練り歩いた後、テーブルセットの椅子に行儀良く座っていた私の背後に立った男は、後ろから私の顔の横に掛かる髪を耳に掛け、臭い息を吹きかけながら囁いてきたのだ。


「皆、噂をしております。今代の聖女様はあの見目麗しい聖騎士にご懸想なさって、その身を彼に触れさせたのだと」


 そう言って、男が法衣に覆われた私の太腿を撫でてきた。

 要約すると、私がシリウスを誘惑して、または命令して、股を開いたのではないかと疑われているということだ。

 ……言い方が直接的過ぎる?ごめんね、聖女様の猫被ってないとこんな感じなの。


「やめてください。流石にそれはシリウス様へ失礼が過ぎます。そして私は彼と何も起こしてなどおりません」

「口ではそう言っても、誰も見てないのですから証明は出来かねます。……そう、誰も見ていないのですから」


 つう、と厭らしい手付きで太腿から腰へと撫で付けてくる感覚は、今でも悪夢として夢に見るほどだ。

 あの頃の私は、今のように聖女ロールプレイを楽しめるような精神状態では無かった。

 聖女が選ばれれば、平和と平穏、そして豊穣が訪れると言われているのにも関わらず、その年は立て続けに祈りも奉仕も虚しく、災い続きだったのだ。

 災害に見舞われた人々を癒しに東へ赴けば、不安や怒りを募らせた民達から口々に罵倒された。北の国境沿いへ赴けば、同じように罵倒され、滞在させて貰っていた領主の館では酷い嫌がらせを受け、魔物の討伐へ赴き亡くなった騎士の遺族と名乗る人々から殴られたりもした。


 聖騎士であるシリウスはどうしていたかって?

 彼は元々魔導騎士団の副団長だ。上からの命令で呼び戻され、現地で魔物の討伐に参加していたのだから仕方ない。

 それでも、今の聖騎士としての職務もこなそうとしてくれた彼は戦況が落ち着くや否や、直ぐに館に来てくれた。けれども、隠しきれなかった頬の腫れと切れた唇の端を見られてしまって。それはもう物凄い勢いで抱き抱えられて、気付いた時には神殿の自室に寝かされていたものだ。

 あの時私を抱き上げた彼のがっしりとした腕と、逞しい胸筋の暖かさといったら……。


 おっと失礼。聖女様の猫被りが脱げそうになってしまった。


 そんな訳で、メンタルボロボロ聖女様は傷口に塩を塗りたくられる毎日を送っていたのである。

 わりとな頻度でセクハラ発言やセクハラ行為をしてくる者は居て、うまーい感じに翻していたのだが、その時ばかりは感情的になってしまった。

 それがトリガーとなったのか、口臭おっさん神官は私の腕を取って無理やり立ち上がらせ、寝台へと放り投げ、あろう事か馬乗りになってきたのだ。


「なにをするつもりですか!やめてください!」

「見なければ分からないでしょう?私が証言して差し上げます。 あなたの名誉の為ですよ」


 聖騎士の職務は、聖女様の身を守ること。それが唯一にして無二の役目だ。

 しかし、大司教様という聖教会の最高権力者の命令が絶対である。聖女候補の時は、他のご令嬢方と共に教室のような場所で教育されていたが、聖女となってからは自室でマンツーマンの授業となっていた。聖女以外には耳に入れてはいけない教えもあるらしく、聖騎士は入れないのだとか。

 だから、この教育の時間は担当の神官と二人きり、という、貴族社会では御法度らしい環境で過ごさねばならないらしかった。

 当初のシリウス様は、流石にそれは許せないといった感じで怒っていたが、私は現代で普通に残業などで異性と二人きり取り残されるなんて慣れていたし、仕事として行っている聖女様ロールプレイの中では、あの時まではそんなのは些細な事だと思っていたのだ。


 こほん。兎にも角にも、今までのセクハラ神官と違って本気で私を害する覚悟があった彼は、あろうことか部屋に結界を張り、部屋の外で待機しているシリウス様が音で気付かないようにしていた。というのは、後からシリウス様本人から聞いた話。


 性犯罪、というのは何処の世界でも共通で、極悪非道な犯罪なのだが、この世界で、そして聖女に対しては特に厳しく極刑待ったなしの文字通り世界を敵に回す大犯罪だ。

 特に清らかな乙女である事が条件とされている聖女は、その身を誰かに暴かれた時点で聖女候補、及び聖女としての力も資格も失ってしまう。

 過去にその形で力を失ってしまった聖女と、その身に触れた者は、国と世界を裏切ったとして極刑に処されたのだとか。


(このままではシリウス様まで処刑されてしまう!!)


 自分の身の危険にも考えは及んでいたが、何よりも先行したのは彼の行く末だった。

 独り言や、寝相が悪くて昼寝中に寝台から転げ落ちた私に耳聡く気付くシリウス様が、私の抵抗する声に気付かない訳もないのに、声を荒らげても来てくれないので、神官に何か妨害されていると気付かない筈がなかった。

 枕元にあった、シリウス様が以前貸してくれた読みかけの分厚い本を渾身の力で扉に投げつけて、その衝撃に気付いてくれたシリウス様が慌てて飛び込んできてくれたのだ。


「貴様、リリィ様に……!!」


 あの時のシリウス様といったら、人を殺さんばかり――というか、多分止めなかったらやってそうな勢いだった。

 口臭おっさん神官の首根っこを掴み上げたと思ったら右ストレートのパンチを繰り出し、腰に提げている剣を抜き、床で転がり倒れる神官の首元に突き付けて、「首よりも前にその汚らしい両手を切り落としてやろう」などと、とんでもない物騒な言葉を吐き、剣を振り翳したのだ。

 後にも先にもあそこまで治安の悪い彼は見た事がない。


 ちなみにその後、口臭おっさん神官を見た事はない。まぁ、流石に未遂とはいえ、聖女様を襲ったのだ。懲戒免職は免れなかったのだろう。


 それ以降、数少ない女性神官が教育担当になったのでした。

 めでたしめでたし。


「……聖女様。具合が悪いのでしたら、今日は終わりにしますが」

「す、すみません。大丈夫ですわ」


 思い出話に花を咲かせすぎてしまったらしい。

 復習ばかりの話は大体聞き流していても、いつも相槌はちゃんと打っているので、具合が悪いと思われてしまったのだろう。


「いえ、聖騎士様から聖女様の体調を最優先するようにと言われてますので。今日はここまでにしましょう」

「すみません……」

「問題ありません。あなたはとても勤勉で、我々に心を砕いて下さっています。少しくらい休んでも女神様は怒りませんよ」


 な、なんて良い人なんだろう。

 神官様達は皆真面目で、自分にも他人にも厳しい方が多く、特に教育担当の女性神官様は、申し訳ないが本当に厳しい人が多かった。

 かつて聖女候補だった人も居るとは聞いていたので、大なり小なり嫉妬などもあるのだろうと受け入れていたし、そういう事は物語でも、あるあるネタなので受け入れていたのだけれど。

 女性神官――イレィナ様と言ったか、彼女のことは絶対に忘れないようにしよう。


「……とは言っても、私が担当するのは本日までなのです。次回からは、イザベラという女性神官が担当になりますわ」

「そうなの……。残念、というのもイザベラ様に失礼になってしまうけれど、名残惜しいわ」

「聖女様にそう言って頂けて光栄です。滅多に話す機会は設けられませんが、機会があれば是非お声掛け下さい。知ってるとは思いますが、職務外でお話するには、聖女様からでないといけないので」

「ええ。声を掛けさせて頂くわね」

「はい、お待ちしております」


 本当に今日の授業は終わりにするようで、彼女は部屋に備え付けてある茶器を手に取ると、手ずから茶を振舞ってくれた。今までにない展開だと、ウキウキが止まらない。何だかお友達が出来たようで嬉しい。

 私が向かいの席に座るよう促し――中々従ってくれなかったので、ほぼ命令という形で座らせると、残りの時間はちょっとした雑談タイムになった。


「そういえば、来月の今頃には花神祭が開かれますけれど、聖女様は何かご用意されるのですか?」

「何か……って?」

「てっきり、聖女様は聖騎士様に何かお渡しになるのかと思ってましたのですけれど……」


 春の花神祭は、人々が作り上げた祭りの一つだ。古くから伝わっているのは秋に行われる豊穣祭で、花神祭は神の名を取ってはいるものの、現代のバレンタインデーのように、人々が楽しむ為のものとして親しまれている。この日は、いつも世話になっている人や、意中の相手に花や装飾品を贈る行事だ。ちなみにホワイトデーのように、花神祭で貰った相手にお返しするのが夏の星望祭という行事である。


「……シリウス様には、断られてしまうの。自分には勿体ないと」

「まぁ……」

「あまり差し上げられる物も持っていないので、何か欲しいか聞くのだけれど、嫌がる方に渡すのもどうかと思って」

「差し上げたことは一度も無いのですか?」

「聖女候補の頃に、一度だけ。……とは言っても、神殿の庭に咲いている花を一輪だけ渡しただけだけれど」

「花は受け取ってくれたのでしたら、どうでしょう。今年こそ贈ってみては?今年はリリー(百合)の年。聖女様からその名を冠する花を頂けるなんて至上の喜びですわ」


 確かに、いつもは具体的な案も思い浮かばず、漠然と望みを聞いていたが、押し付けてしまえば断れないだろう。


(うーん……でも、あの時渡したのも、あまり喜んでくれていた気がしなかったしなぁ)


 元々シリウス様は表情豊かとは言えないタイプだ。よく怒りはするけれど、笑ったり、嬉しそうに微笑んだり、というのは中々お目にかかれない。

 初めて渡した時も、面食らったような顔をした後に小さな声で「有り難く頂戴致します……」と言ったきり、顔を背けられてしまったし。渡す側の自己満足を押し付けてしまってもどうなのだろうかとも思う。


「ふふ。聖女様は、聖騎士様のことをとても大切に思ってらっしゃるのですね」

「え?」


 彼女は見かけによらず恋バナというものが好きらしい。

 外見で人を判断するのは確かに良くないとは思うが、現代オタクの嗜んできた数々の創作物において、彼女のようなタイプはあまりそういう話に興味を寄せるイメージが無かったのだ。


「だって、受け取る相手の気持ちを考えられるのですもの。ただ好きなだけ、自分の想いだけを優先するのは自己愛の一つですわ。本当に好きな相手なら、その人の都合や気持ちを尊重し、大切にするものです」

「…………」

「あら」


 心の床下収納に、漬物石まで置いて隠していたものを掘り当てられてしまって、顔から火が出そうなほど暑さを感じてしまう。

 鏡を見ずとも分かる。きっと今、顔どころか首まで真っ赤になっているに違いない。


「ふふ。これ以上大切に秘めていたものを暴くのは不躾ですね。ただ、歴代の聖女様の中には聖騎士様と結ばれた方も多いのは、聖女様はもちろんご存知ですよね」

「シ、シリウス様は聖騎士である以前に侯爵家の跡継ぎでしょう。そういう話は、この世界で身寄りのない私に縁はないと思うから……」

「あら?貴族の元にだって聖女様は嫁げますわよ?それぐらい許されなければ、国も王家も聖教会も、聖女様の功績に報えませんもの」

「いやいや……相手は侯爵家ですし、それにシリウス様には……」


 その続きを言う前に、夕刻を知らせる鐘が鳴り響いた。ちょうど授業が終わりの時間だ。

 さて、と立ち上がったイレィナ様は優雅にカーテシーをして見せ、柔らかく微笑んでから部屋を後にした。


 そして、その入れ違いになる形で扉の前で待機していたシリウス様が入ってくる。

 慌てて私は顔を取り繕った。

 彼は私を見ると、「おや」と、なにか気付いた様子で片眉を上げる。


「今回の担当は当たりでしたか」

「……もう、これから話そうと思ったのにもう気付いちゃうなんて。そうなの、イレィナ様ね、見た目は厳しそうなお姉様だったけれど、私の体調を心配してくれて、良い人だったの」

「それは良かったですが……体調が宜しくないのでしたらお休みになられますか?」

「ううん、ちょっとぼんやりしてただけだから大丈夫。でも次は新しい担当に替わるらしいんだよね……」

「次の担当の名前は?」

「ええと、確かイザベラ様とかいう……」

「……彼女ですか、分かりました」

「何かあるの?」

「いえ……ただ、彼女は物事を大袈裟に表現する癖がありますので、鵜呑みにし過ぎないよう注意した方が宜しいかと」

「分かった。いつもアドバイスありがとう」


 雑談という名の報告話は定例となっていて、シリウス様はいつも「今日はどうでしたか」と、授業が終わると尋ねてくるのだ。

 今日の話の半分以上は殆ど話せない内容だったので、言葉濁しに答えたら、シリウス様の機嫌を少し悪くしてしまった。嘘は良くないのは分かってるのだけど、こればっかりは許して欲しいと思う。


「ほら、花神祭が近いですねってお話とかもしたの。それでちょっと女同士の会話に花が咲いてしまったというか」

「……花神祭、ですか。誰かに贈るつもりで?」

「え?!……い、いえ、今年も盛り上がりそうですねって話くらいで……私、この世界で知り合いも殆ど居ないし、渡す相手も居ないし」


 そう言うと、如何にも不服です、というような雰囲気を醸し出しながら、窓際のテーブルセットに居た私の元へ、部屋の中心に立っていたシリウス様が歩み寄ってきた。


「…………」

「な、なんでしょう」

「……ですか」

「は、はい?」

「私には、贈って下さらないのですか?」

「……え、えぇ?!」


 思わず素っ頓狂な驚き声を出してしまったが、そこは気にしていない様子で、距離を詰められる。気付けば、彼の横髪がさらりと頬に流れ落ちてきて掠めていた。


(ち、近いよシリウス様!近過ぎるって!!)


「いや……あの……っていうか、シリウス様、前に要らないって」

「そんな馬鹿なこと言った覚えはありませんが」

「えぇ……。聖女候補の頃、初めて渡した花神祭で、言ってましたよ?」

「……私が? なんて?」

「私には勿体ない、って。ほら、毎年何か欲しいものある?って聞いても同じように答えてたじゃない?」

「…………」

「ほ、ほら、身に覚えあるじゃん」


 断罪を待つ罪人かのように、固く瞼を閉じてしまったシリウス様。

 私は無罪である。あれらは確かに遠回しな断り文句だと思ったのだ。


「……その台詞は、あなたのような崇高なお方が、私などに贈るのは勿体ないと、言葉通りの意味で言ったのですが……」

「崇高……」


 ごめん、助けてチッピー。またはOKゴーグル!崇高というワードの意味を私知らないの!


 その後、「今年こそは」という謎の熱意に負けてしまって、二度目の花渡しが決まったのであった。

 うう、イケメンのお強請りに弱い私。

 最近、市井の間で『聖女様の手作り護符』とかいう、作った覚えのないグッズが出回っていると聞くし、いくら聖教会が資金難で、彼はやらないとは思うけど、転売するのだけはやめて欲しいなぁ……。





 ◇



「……え、シリウス様が?」

「ええ。婚約者様とのご婚約の話が進んだようでして、来年の春には挙式を行うらしいですわ」


 新たな教育担当の女性神官、イザベラ様が来るようになって半月程が経った。それはつまり花神祭までも半月を切ったという事で、本格的にシリウス様へどんな花を渡そうかと悩んでいたその矢先のコレだ。


 イザベラ様はイレィナ様とは真逆のタイプの方だった。天真爛漫で少女らしさを併せ持ちながらも、伯爵家のご令嬢としての立ち振る舞いも上手な方。そしてここはイレィナ様にも当て嵌るが、お話が上手だった。人を惹き込むのが上手いのである。


「お相手はどんな方なの?」

「名前は伏せられておりますの。ただ、やんごとなき高貴な方、とは言われてますわ。ですので、恐らくマーガレット第二王女殿下ではないかと言われています」

「……そうなのですね」


 シリウス様に婚約者が居る、というのは有名な話で、私も本人に直接聞いた訳では無いが知っている。

 マーガレット様といえば、桃色の髪に黄色の瞳を持つ儚げで可愛らしいお方だ。聖女としての務めの中では、王家の方々と話す機会もあった。

 確かに、シリウス様と並べば美しい花園のような絵面になる。


「マーガレット様とシリウス様は歳が離れているものの、ケフェウス様と交流がありましたから、幼馴染みのようなものでしたし。昔から社交の場でも、マーガレット様のお相手は大抵シリウス様がされていましたから」

「なるほど……」


 第一王子のケフェウス様は、妹を凄く大事にしている方だ。同い年で昔から付き合いのあるシリウス様になら、大事な妹を託せると思ったのだろうか。

 マーガレット様も、私の護衛として付き添うシリウス様に対して「シリウス!」と、気さくに声を掛けていらっしゃった。

 なるほど、確かに婚約者ならば呼び捨てもするだろう距離感だ。なんと今まで両手の指で数えられる位にはその光景を見てきたが、気付かなかった。

 ……あれ、それなら婚約者でもない私が呼び捨てにするのは良くないのでは?二人きりの時だけ、だから良いのだろうか?


(シリウス様の考えはよく分からないな……)


 来年の春に挙式、ということは、聖女の任期はまだ一年残ってる状態だ。まぁ、聖騎士が未婚でないといけないという決まりは無いらしいし、恐らく一年後に元の職務に戻り、そして家庭を築く、という流れになるのだろうか。


「あら、もうこんな時間。今日はここまでにしましょう、リリィ様」


「ご機嫌よう」と、カーテシーをして部屋を出て行くイザベラ様に、私は上手く言葉を返せていただろうか。


(もっと早く言ってくれれば良かったのに)


 それならば、不毛な恋心なんて抱かなかったというのに――いや、きっと早く知っていたとしても手遅れだっただろう。


 どうして、一番近くに居たのは私だったのに――


「どうかしましたか、リリィ様」


 ぐるぐる回る思考回路に、冷水を浴びせられたような感覚がして、そこでやっとシリウス様がすぐ傍にやって来ていたことに気付いた。いつも通り、入れ違いで入ってきていたのだろう。彼の眉間には皺が少し寄っている。何か嫌な事でもあったのだろうか。


「なんでもないの。……あ、それよりも、お願いしていた物、受け取ってきてくれた?」

「ええ。あの女性神官から渡されました」


 あの女性神官、とはイレィナ様の事だ。

 先日回廊でばったり会った時に、どんな花を選んだら良いか分からないと相談をした。そしたら花の図鑑を貸してくれるというので、シリウス様経由で届けてくれたのだ。


「彼女を頼る前に、私を頼って下さればいいものを」

「……それは、ちょっとナシかなぁ」

「何故?」


 ずい、と顰めた眉のまま、顔を近付けてくるシリウス様。

 最近よく距離を詰められる事が多い。一体何故。婚約者様が居るだろうに。

「近いから、ねっ?」と、後退り、距離を置いてから会話を続けるのが常な気がしてならない。


「だって、あげる本人にその為の物を用意させるなんて、情緒も何もあったもんじゃないでしょ?」


 そう返すと、何度か瞬きを繰り返した後、シリウス様の眉間の皺が霧散した。どうやら機嫌は治ったらしい。


「良かった、やっぱり辞めたなんて言われでもしたら、どうしようかと」

「約束したでしょ、ちゃんと用意するから」

「楽しみにお待ちしております」


 珍しく口角をほんのり上げて目を細めるシリウス様に、胸の奥がチクリと傷んだ。ここはときめく所だっただろうに、乙女心は複雑である。


「さて、そんな訳ですので、シリウス様はお茶でも飲んでゆっくりしていて下さい」

「私が見てしまわないか気になるのなら、部屋の外に出ますよ」

「大丈夫、まだ決めるところからだし。……それに、外だと座れないから疲れちゃうし」

「……ならば、お言葉に甘えるとしましょう」

「うん、そうして」


 向かいの椅子に腰掛けたシリウス様は、じっとこちらを見つめた後、表情を和らげて窓の外の景色を眺め始めた。


「……ねぇ、シリウス様」

「なんでしょう?」

「…………やっぱり、なんでもない」




 ◇



 シリウス様と初めて出会ったのは、私がこの世界に喚ばれた日――今からもう五年も前のことだ。


 異世界召喚され、この世界に降り立った瞬間。今ではもうすっかり慣れてしまっているが、自分とは全く違う顔立ちをしている大人数の大人に囲まれるわ、良くも悪くも平和ボケしている国から来た人間には刺激の強過ぎる騎士たちの腰に差さった剣に、極めつけは大司教様の底知れぬ、目の奥が笑っていないタイプの貼り付けた笑み。

 正直いい歳してチビりそうだった。

 あ、ここで今更初出しだが、私が召喚されたのは二十歳ちょうど。高卒社会人である。

 ……まぁ、この国では信じて貰えず、当時はまだ十五歳と認識されていて、今やっと二十歳として扱われているというのは、ちょっと笑えないジャパニーズ童顔エピソードだ。サバを読んだわけではない。本当に!!


 その時居合わせた騎士たちの中に、魔導騎士団副団長としてのシリウス様も居たのだ。

 ビビってチビりそうになっていた所に「聖女候補様……」と彼らに呼ばれまくったお陰で、瞬時にオタク魂の方が恐怖を勝り、猫被り聖女様ロールプレイのスイッチが入った。


 床にぺしゃりと座り込んでいた私に手を差し伸べてくれたのは、シリウス様――ではなく、近衛騎士団の団長さんで。

 実際のところ、彼とまともに知り合ったのは、聖女候補として神殿で名のある世界中のご令嬢達に混じって勉学や修練に励んでいた頃だ。

 ご令嬢の方々にはそれはもう、それこそ隣国の第四皇女様だとか、何処そこの国の公爵家、伯爵家、子爵家、言い出したらキリがないほど、身分持ちの方々が居た。人数としては約20名ほど。

 最初の頃は皆良くして下さっていて、右も左もマナーも口調も分からなかった私に対して、優しく教えてくれもしたし、アドバイスもくれたりと、絶対こんなん差別系イジメ勃発やん!なんて身構えてたのをアッサリと良い意味で裏切られて、期待外れな気持ち二割、安堵八割で過ごしていた。


 ……のだが。

 聖女選別には明確なラインがあった。魔力とは違う、聖魔力というものが聖女や神官は宿しているのだが、その力の強さで聖女を選ぶ仕組みだ。

 私はこの世界に来てから、メキメキとその力を伸ばしていた。

 だから、周りはどんどん焦り、嫉妬し、いつの間にか親しく話してくれる人も居なくなり、孤立していき、身分も何も持たない私は孤軍奮闘の身となってしまったのだ。

 結局些細な嫌がらせも始まったが、本当に些細なレベルだったのでそこは気にしていない。花瓶の水ぶち撒けられるとか、教材を隠されるとか、その程度可愛いもんである。


 そんな孤立生活を送っていた時に、シリウス様とエンカウントを果たした。


 身分ある方々は護衛の都合上、中々神殿から出すのは難しい。だから、その年に訪れた南での災害支援に赴いたのは私と先代の聖女様だけで。

 その護衛に就いていたのが、近衛騎士団の団長様と魔導騎士団の副団長様――シリウス様の両名だった。勿論、先代の聖騎士様も居たし、他の騎士様方も居たけれど。


 南では、治安があまり良くない地域であったこともあって、災害に乗じて犯罪を犯す者も居た。剣や斧、ナイフなどと人の身を簡単に傷つけられるものが身近に溢れ返っているこの世界で、そしてそんな世界で生きてきた他の人達にとっては見慣れているのかもしれないが、私にとって初めての光景だったのだ。


 人の死を何度も目の当たりにするのは。


 先代の聖女様だって元は貴族の娘で、震える彼女の手を、先代の騎士様が隣に寄り添いながら握って支えていた。


 私は独りぼっちだった。

 慰めてくれる人も、励ましてくれる人も、心配してくれる人も居ない。

 大切な人は皆、もう二度と会えない別の世界の住人だ。

 異世界召喚というのは、役目を全うしたら帰れるパターンと帰れないパターンが存在すると思うが、私の場合は帰り道のない片道切符だった。


 猫被り聖女様候補ロールプレイをしていた私も、この時ばかりは何度も、夜な夜な独りで肩を抱き、泣いてしまった。

 もう嫌だ、帰りたい、と何度思ったことか。

 それでも、やらなくちゃ、という思いが強くて、何度も立ち止まっては歩いて、を繰り返していた。


 あの日の月は綺麗な三日月だったのを覚えている。

 滞在用に宛てがわれていた館を抜け出して、裏庭の池の辺という人目につかない場所で隠れて泣いていた。すっかり私の夜泣きスポットと化していたその場所に、シリウス様は待ち構えるようにして立っていたのだ。


「――こんばんは、聖女候補様。こんな夜に一人で出歩くのは危険ですよ」


 どうも独りで館を抜け出していた事にシリウス様は気付いて、様子を見に来てくれたらしく。


「私で良ければ、手でも胸でもお貸ししますよ。少し硬めのぬいぐるみとでも思って頂いて構いません」


 そんな甘い言葉に釣られて、思い切りシリウス様の両手を抱き締めて泣いてしまったのだ。

 全くもって情けない初の会話――会話どころか泣いて終わったが。


(あー、思い返しても穴があったら入りたい……!)


 月明かりの下、顔をぐしゃぐしゃにして彼の両手を抱きしめ、子供みたいに嗚咽を漏らしたあの夜。それが私とシリウス様の、まともな「最初の会話」だった。会話になっていたかは不明である。

 20歳そこそこの社会人女性として、いくらなんでも情けなさすぎるだろ!と当時の自分を問い詰めたい。問い詰めたいけれど、あの時の私には、差し出されたその手のぬくもりだけが唯一の救いだったのだ。

 手をとられた瞬間、彼の指先から伝わる圧倒的な温もりが混ざり合って、冷え切っていた胸の奥にじわじわと熱が広がるのが分かった。


「……怖かったですね。お辛かったですね。よく、ここまで耐えられました」


 頭上から降ってきたのは、責める色など欠片もない、呆れるほどに優しい声。

 涙で視界がボヤボヤの中、必死で見上げたら、三日月の光を浴びたシリウス様の藍色の瞳が、痛々しそうに、けれど溢れんばかりの愛おしさを込めて私を見つめていた。


(あ、無理。カッコよすぎる……好きになっちゃうじゃん、こんなの)


 異世界に投げ出されてからずっと張り詰めていた心が、ガラガラと崩れ去った瞬間だった。

「猫被り聖女様」の頑丈な仮面が叩き割られ、ただの「百合」として彼の手の中でボロボロ泣いたあの夜。私は確信したのだ。この人が、私のこの世界でのヒーローなんだって。

 ……まあ、翌朝めちゃくちゃ気まずくて、目を腫らしたままシリウス様を全力で避けて回るという大失態を犯したわけだけどもさ!


 それから時が流れ、数々の試練を乗り越え、無事に第240代目の聖女の座に就いた私。そして、聖騎士となって私の隣に立ち続けてくれていたのがシリウス様、だったのだが。


 そんな日々にも、呆気なく終止符が打たれようとしていた。




 ――遡ること、五日前。


 急にシリウス様が古巣である魔導騎士団へと呼び出され、私の護衛から外れることになった。

 理由は、去年と同じように北の境界線に魔物の大群が押し寄せてきたからだ。


「良いですか、私の代わりには部下を二人つけます。ですが、彼以外が訪ねてきた時は、決して部屋から出てはいけません。女性神官だろうとダメです。就寝時には結界も張って下さい。……あと、アレは絶対に外さないように。分かりましたか?」

「う、うん、分かった……」


 シリウス様が戦地へ旅立って二日。

 花神祭でシリウス様に渡す花束は無事に出来上がったものの、不安で夜も上手く寝付けなかった。花束が上手く出来上がっても、渡す相手が居ないのでは完成しても意味がない。


「イザベラですわ、聖女様。至急シリウス様の事でお伝えしたい事がありまして、扉を開けてくださいませんか」


 人々が寝静まった夜に突然の来訪。

 気付くべきであった。今まで誰一人として、そんな時間に訪ねてくる者は居なかったことを。

 シリウス様に何かあったのかもしれない――、そんな思いが言い付けよりも先行して、視野が極端に狭くなってしまっていた。


 結界を解き、扉を開けた瞬間、湿った布に口を押さえつけられて。

 睡眠薬の類を吸わされたのだろう。朦朧とする意識の中、イザベラ様の嘲笑う声が聞こえた気がした。



 そして、目が覚めたら何処かの牢獄の中、というやつである。

 着ているのはシリウス様から頂いた、あのシンプルなワンピースのみ。足元は何も履いていないし、外套も毛布も何も無い。

 せめて聖女らしく肌触りが終わってるゴワゴワ法衣を着ているべきだったのに、いつもの癖で自室に戻るなりワンピースに着替えてしまっていて、それを忘れて迎え出てしまったのだ。愚か過ぎる。


「お目覚めですか、聖女様」

「えぇ……?」


 柵の外に居るのは――……誰だっけ。神官服を着ていないし、見覚えはあるけれど、私の脳内ライブラリーに引っ掛からない。つまりはシリウス様の言う通り、覚えなくていいタイプの人という事だ。


「良いザマですなぁ。どうです?ご気分は。冷たく、寂しく、惨めな気持ちになるでしょう?」


 如何にも、なみすぼらしい服を着たおっさんは、くっさい口臭を吹き掛けるような距離で話し掛けてきた。

 おいお前、あの時の神官だな?!

 両手は頭の上で金属の拘束具に固定され、鎖で天井から吊るされている。ちょっと、手に血が回らないじゃないか。壊死してしまう!せめて後ろ手にして!


 と、言いたいところだが、声帯が死んでるのか、魔法か何かで封じられているのか、口を塞がれている訳でもないのに声が出ない。足先も感覚はあるのに全然動かなかった。パクパクと口を開閉するのはシュール極まりないので、沈黙を選ぶしかないし、手も足も動かせないのではどうしようも出来ない。


「全く、何をしても響かない。粗末な家畜の餌のような食事も、牢獄のような日当たりの悪い部屋も、冷たい沐浴も、当然の事のように意に返さずこなしてゆく。その傲慢な程に高潔な精神を何度この手で叩き落としてやりたいと思ったか……」


 嫌がらせだったんだ……と、驚いてるなどと言ったら煽っていると見なされてしまうだろうか。

 だって、本当にそう思ってたんだもの。この世界に来て最初に説明を受けた時も、聖女となって幾度となく行われてきた教育の時間でも、「王家と違い、民からの寄付金で成り立っている私達は、それらを有難く頂きながらも慎ましく清廉に生活せねばならない」と、そう言われてきたのだ。

 聖教会の本山で聖女様が慎ましく生活していると知られるのは外聞が良くないからと、部屋は豪奢な家具に囲まれていたし、内側はどうであれ法衣は良い生地を使用されていたし、聖女として公の場に出る時は、慎ましやかに見えるよう、けれどさり気ない宝飾具も身に付けさせられていた。確かに私個人の私物として与えられたものでは無く、聖女という役職に貸し与えられた物だったけれど。


(レンタル衣装で生活するのは流石に違ったのか……)


 神殿内か孤児院、遠征先くらいしか行動範囲が無かったし、365日聖女様として生活していたので、私という個人のプライベート時間は夜のみで、丸一日何も無いという事は無かった。だから私服の必要性も感じていなかった訳で。


「あなたはここで聖女の資格を失い、無様に嬲られて死ぬのです。 聖教会を恨む難民達に襲われて――という、シナリオの元に」


 牢の扉を開けて入ってきた男は、舌なめずりをしながら跪き、左手で顎を掬い上げる。


(全くときめかない相手とシチュエーション……!)


「その前に、あの時の憂さを晴らさせて貰おうか」


 ぞっとするほどねっとりとした声が、耳元で鼓膜を揺らす。

 次の瞬間、もう片方の手が私の左足の指先を、這うような手つきで撫で上げた。


(やめて、気持ち悪い……!触らないで……!!)


 声を出して叫びたいのに、薬のせいで口唇すらまともに動かない。

 足先を撫でた蛇のような手は、ゆっくりと、私の肌の表面を滑りながら上へと辿っていく。

 シリウス様が『アレは絶対に外さないように』と、言っていたアレとは、銀色のアンクレットのことで。

 これは彼が、目の前の男に襲われたあの事件の後に用意してくれた御守りだ。


『いつだって、あなたの窮地に駆け付けてみせます』


 そう言って、跪いた彼が私の左足にアンクレットを嵌め、わざとらしく音を立てて足の甲へ口付けを落とした――あの日のことは一生忘れられないだろう。


 冷たい金属の感触を嫌らしくかすめ、その手は容赦なく、薄いワンピースの裾を捲り上げて直接太腿へと忍び寄る。


(大丈夫……大丈夫だ、もうすぐに……!)


 内腿へと忍ばされる下心に満ちた手のひら。

 汚らわしい感触に全身の毛穴が収縮し、今すぐ拒絶するように足を閉じたいのに、力が入らない体は微かな震えを返すことすら出来なかった。

 シリウス様がいないと、私はこんなにも無力なんだ。

 彼が隣で剣を振るい、私を護ってくれていたからこそ、私はあの過酷な修行(という名の嫌がらせ)にもヘラヘラと笑っていられたのだと、今更のように痛感させられる。

 冷気と恐怖で体温が奪われていく。

 嫌がらせ、誘拐、監禁と来たら、次に待っている悪党の目的の定番なんて――絶望に目を瞑りかけた、その時だった。


「貴様ァ!!!!!」


 腹の底から響くような、地獄の底から引きずり出された怒号。

 外界とを遮っていた分厚い鉄扉らしき物が、まるで紙屑のように豪快に吹き飛んだ。

 激しい衝撃波とともに飛び散る木片と鉄の破片。

 突如として室内になだれ込んできた埃と突風の中、真っ白な騎士服を纏った一筋の視認することすら不可能な速度で踏み込んできた。


「ぐはっ……!?」


 私を押し倒していた男の体が、叫ぶ間もなく真横から蹴り飛ばされ、石壁へと激突して深々と埋まる。

 舞い散る煙塵の向こう側。

 荒い息を吐きながらそこに立っていたのは、返り血で騎士服を赤く染め、瞳に怒りの青い炎を揺らめかせた、私の愛しいヒーローだった。


「……遅くなって、申し訳ありません、リリィ様」


 天井から吊り下げられていた手枷を魔法で壊すと、シリウス様は間髪入れずに私をその大きな腕の中へと抱き上げた。

 彼からは凄まじい鉄と血の臭いがしていたけれど、私を包み込む腕は恐ろしいほどに優しく、そして微かに震えていて。


(シリウス様……)


「大丈夫です。もう……二度と、誰にも貴女を触らせはしない」


 指示を破って扉を開けてしまった愚かな私を叱ることもせず、シリウス様はただただ私を抱きしめ、壁に吹き飛ばされた男に向けて、氷点下よりも冷酷な殺気を解き放ったのだった。


 ――そして、私は。



 情けなくも、その殺気にあてられて失神したのでした……。




 ◇



「えぇと……」

「リリィ様、食後にはどんなデザートが食べたいですか?」

「昨日も食べたから、無くても全然良いんだけど」

「分かりました。おまかせですね」

「いや言ってない……」


 情けなく失神した後、運ばれたのは神殿でも王宮でもなく、シリウス様のご実家だった。

 聖女様誘拐監禁事件から丸二日。ここで、シリウス様が付きっきりの中、三食デザートと昼寝に暖かい湯船付き、お姫様ライフを提供され続けている。


「私、そろそろ神殿に戻らないと……」

「神殿は今、上から下まで総入れ替え中なので、監査官ぐらいしか居ませんよ」

「何がどうしてそうなってるの……?」


 柔らかな掛布団とシーツに、肌触りの良いシルク素材で出来た、レース付きのネグリジェを着せられていた。

 湯浴みもこのお屋敷の侍女の方々が複数人体制で、頭の先から爪の先まで洗われ、磨かれ、そろそろ肌が光を反射しそうな勢いだ。


 そんな状況について行くのがやっとで、あの後どうなったのか、神殿は で何が起きているのか、分かっていることの方が少ない状態というのは、流石に聖女の立場としてどうなのだろうかと、こうして何度も聞いてるのにはぐらかされてしまう。


「ねぇ、シリウス」

「はい、なんでしょう」


 その返事をしながらも、彼の手はずっと私の手を握って離さない。

 ここに連れてきた張本人であらせるシリウス様は、ずっとこんな感じだ。


「私って、ずっと嫌がらせを受けていたの?」

「……まさかとは思っていましたが、本当に気付いていなかったのですか」

「内側がゴワゴワの法衣は……」

「地位で言えば、聖女というのは、ひとつの国の王か姫君と同じほどの権威を持っても可笑しくないのです。そんな方に肌の荒れるような衣服、着せるわけがないでしょう」

「そ、そうなんだ……。じゃあ、食事については?」

「言語道断。栄養も何もあったもんじゃない。アレならば、現地で獣を狩って作る野営での食事の方が何百倍もマシです」

「野営の食事……美味しそう」

「それよりももっと良いものを、これからは沢山食べさせて差し上げますよ」


 聞けば、バスケットは神殿からの週一ご褒美ではなく、シリウス様が用意してくれていた物だったとか。何それ、優し過ぎんか?


 他にも出てくる出てくる、嫌がらせの数々。

 毎朝の沐浴は、本来なら温水のある専用の部屋があるのだとか、週に一度訪れていた下町と貧困街への奉仕活動は、先代も多くて月に一度だったとか、聖女用の自室は日当たりの良い南東に本来ならあったのを、家具だけあの北の部屋に移していたとか、そもそも聖女様だって休息日はあるのだとか。


「教育担当に関しては、王家と監査官による調査の一環として利用させて頂いたのですが……」


 監査官というのは、国から独立した権力を持つ聖教会への介入を許されている唯一の団体で、その運営は女神信仰のある国々が同盟を組み、その代表者たちが動かしている。

 私という餌を置き、誰が聖教会を腐らせているのか、教育担当として配属し、その言動や振る舞いを見て、ふるいにかけていたらしい。そこに引っ掛かった者たちの過半数は寄付金に手を付けたり、多額の寄付金を納める貴族の領地を優遇したり、あの『聖女様の手作り護符』も、そのうちの一人の仕業だったのだとか。


「残りの二割程度は、聖女という立場にあらせるリリィ様への醜い嫉妬でしたよ。イザベラという女もそのうちの一人です。私の方が聖女に相応しいだとか、血迷った事を言ってましたがね」

「そうなんだ……」


 イザベラ様の名前を聞いて、そういえば、とあの噂を思い出す。


「そういえば、シリウス様のご婚約者様って――……」


 そう切り出した所で、ちょうどノックの音が鳴り、屋敷の侍従が来客の知らせを持って来た。


「マーガレット第二王女殿下が、聖女様に面会を求む、との事ですが」

「通さなくていい。今はまだ療養中だと」

「そうはさせないわよ、シリウス!!」


 部屋の両扉が豪快に開け放たれ、部屋に入ってきたのはマーガレット第二王女殿下その人だ。長い桃色の髪を翻し、腰に手をあてて仁王立ちになり、鋭い目つきでシリウス様を睨み付けるではないか。


「全く、貴方がついておきながら聖女様にこんな苦労をさせるなんてどういうこと?」

「……申し訳ございません」

「謝って済む問題?ああ、こんなに痩せ細ってしまわれて……聖女様、ご安心を。今すぐ王宮で保護しますわ。こんな甲斐性なしの男の元になんて、心配で置いておけませんもの」

「それは出来かねます、彼女は私の……」

「黙らっしゃい!」


 花が綻ぶように微笑みを浮かべ、儚げで可愛らしいお方――、そんな感じで交流した時には、庇護欲を掻き立てるお姫様だった筈なのだが……一体、この豹変ぶりは何なのだろう。

 というか、婚約者と言われているシリウス様と親しげ――というより、これは厳格な主と従者の図になっている。いや、確かに立場上は正しいのだろうけれど。


「マーガレット様は聖女様の熱狂的な信者なのです。ですので、あなた様を危険な状況にやってしまった彼に激怒してまして」

「ああ!こんなはしたない姿を聖女様にお見せしてしまうなんて恥ずかしい!」


 そんな私の困惑を察してくれたのか、マーガレット様と共に入室し、後ろに控えていた侍女の方が解説を挟んでくれた。ついでにもう取り繕っても遅い、マーガレット様の猫被りも添えて。

 どうやら私と同じ類の人間だったようである。ちょっと親近感が湧いた。


「再来年の春までに健康的な体型へ戻して差し上げないと、せっかくの晴れ姿が台無しになってしまうわ!」


(再来年……?来年の春に結婚式は行われるとイザベラ様が言っていたけれど……)


「分かっています。これでも早めにケリをつけたのです」

「三年もかかってこれで早め?どの口が言うのかしら」

「元々は、彼女の任期が終えるまでという予定だったでしょう。俺だって、そんなリリィ様が辛い目に遭うのを五年も見過ごせだなんて、耐えられません。こっちは聖騎士として聖教会には逆らえないよう誓約がされていて碌に助けることも出来なかったんです。何度あのハゲ爺(大司教)の首を切り落としてやろうと思った事か。文句ならあなたの父君に言っては如何です? 」

「言ったわよ!もう何度もね!!やっぱり貴方に聖女様を渡せないわ!」

「もう彼女は俺のものですので、文句は一切言わせません」


 私を置いてけぼりにして言い合いを始める二人。

 シリウス様の一人称は「俺」になってるし、「渡せない」とか「俺のもの」とか、一体何が何だか訳がわからない。


(お願いだから、誰か一から全部説明して欲しい)


「あの……結婚するのが……シリウス様と、マーガレット様ではなくて……?」

 助けを求めて声を上げたその瞬間、嵐のような怒号が飛び交っていた部屋の空気が、凍りついたようにピキリと固まった。

 腰に手を当ててシリウス様を責め立てていたマーガレット様が、信じられないものを見る目で私を二度見する。背後に控えていた侍女さんは顔を背けて肩を震わせ、そして当のシリウス様はといえば――まるで全世界の崩壊を目の当たりにしたかのように、藍色の瞳を大きく見開いて呆然と私を見つめていた。

 静寂。息が詰まるような、完全なる無音。


「……リリィ様?」


 絞り出すようなシリウス様の声は、微かに震えていた。


「今、なんとおっしゃいましたか……?俺と、マーガレット殿下が……?」

「あ、あの……イザベラ様が仰っていたのです!来年の春に、シリウス様と高貴なお方との結婚式が執り行われると……だから、私はてっきり、マーガレット様とシリウス様がご婚約されているのだとばかり……」


 必死に説明する私に対し、マーガレット様が扇子を開き、「おーほっほっほ!」と爆笑を破裂させた。あまりの崩れぶりに、今まで見てきた「可憐なお姫様」の影は形跡すら残っていない。


「まあ!まあまあまあ!何ということでしょう!イザベラめ、最期まで見事な嫌がらせを残していきましたわね!聖女様、来年の春の結婚式は『私と隣国の王太子殿下』の式ですわ!貴女様は聖女として、その式を祝福してくださる予定になっておりますの!」

「えっ……じゃあ、シリウス様のご婚約者様というのは……?」

「貴女ですわよ、聖女様!!!」


 マーガレット様の叫びと同時に、私は首をギギギと嫌な音を立ててシリウス様の方へと向けた。

 シリウス様は片手を額に当て、天を仰いで深く、深く溜め息を吐いていた。その耳たぶは、これ以上ないほど真っ赤に染まっている。


「……リリィ様。俺が今まで、どのような心地で貴女の護衛をしていたとお思いですか」

「えっ、あの……聖女と聖騎士の、尊い絆的な……?」

「違います。三年前、貴女を救い出すために陛下と極秘裏に交わした条件が『聖女の任期終了後に私の妻として娶る』ことだったのです。だからこそ俺は、教会の不祥事を暴き、貴女を安全に引き取るための既成事実と基盤を血反吐を吐く思いで整えてきたのですよ……?」

「へ……? えええぇぇぇーーーっ!?」


 頭の中で、これまでのあらゆる出来事が激しい音を立てて再構築されていく。

 歯痒そうな顔も、痛々しそうな視線も、執拗なまでの過保護も――全部「ただの護衛」としてではなく、「未来の妻を過酷な環境に置かれている夫の悶絶」だったというのか!?

 そして何より、私自身も彼に恋をしていたというのに、お互いに超ド級の勘違いとすれ違いを繰り広げていたなんて!


「その、不正調査の為に、嫌々魔導騎士団を抜けてたのではなく?」

「自ら志願しました。召喚され、この世界に降り立ったあなたを見た時から気になってましたし、聖女候補の頃、あなたの涙を見て決めたのです。あなたが聖女となった暁には、俺が聖騎士となってお傍でお守りすると決めていたので」

「わ、私、そんなの聞いてません!婚約指輪も、愛の告白もされてません!」

「愛の告白もしたし、指輪は見えてしまうからと、足に贈ったではないですか!」

「お、御守りじゃなくて?!」

「確かに追跡魔法は掛けてましたけど!誓いましたよ……俺はあなたに永遠を」


『いつだって、あなたの窮地に駆け付けてみせます』


 そう言って、跪いた彼が私の左足にアンクレットを嵌め、わざとらしく音を立てて足の甲へ口付けを落とした――アレが、愛の告白だって?!ちょっとシリウス様、台詞選びが遠回しすぎやしないか??


「だから言ったのに、聖女様にはもっと直接的な言葉が良いって」

「足の甲への口付けは騎士の最大級の求愛ですし、左足のアンクレットには『恋人』が居ると示す意味もあるのですから、分かりますでしょう」

「どれもこれも騎士たちの中での風習でしょう。本人に伝わってないなら意味ないじゃない」


 マーガレット様の至極ごもっともなツッコミが、シリウス様に突き刺さる。


(……うん、完全に「聖騎士として命をかけて護ります!」っていう激重忠誠だと思ってたよ!!!)


 まさか「命をかけて」じゃなくて「生涯をかけて愛します」の文脈だったなんて、オタクの私でも『騎士の専門求愛マナー講座』なんて履修してないからわかるわけがないでしょ!?


「……あの、シリウス様」

「はい、リリィ様」

「『追跡魔法をかけていた』っていうのも初耳なんですけど……?」

「聖教会の上層部が怪しい動きを見せておりましたので、万が一の事態に備えて、いつでも貴女の元へ転移できるようにと……」


 気まずそうに目を逸らす麗しの聖騎士様(現・説明不足の激重ストーカー疑惑男)。


「追跡魔法は百歩譲って私の安全のためだとして! 左足のアンクレットが『恋人がいる証』なんて、この国のマニアックな騎士道文化、異世界人の私が知るわけないじゃない!」

「だって貴女はいつも『ネット小説で見た!』と色々な知識をお持ちでしたから、てっきりそういった文化にも精通されているかと……!」

「それとこれとは話が別だってば!!」


 頭を抱えて叫ぶ私と、必死に弁明するシリウス様。

 さっきまで「国の至宝たる聖女を護る厳粛な騎士」だった男の見る影もない。


「はぁ……呆れた。本当に二千数百年の歴史の中で、一番面倒くさいカップルですわね」


 マーガレット様が深々と溜め息をつき、パチンと扇子を閉じた。


「いいわね、シリウス。再来年の春までは、手出しはもちろん、遠回しすぎる求愛も禁止です。次に聖女様に何か贈る時は、子供でもわかるくらいストレートな言葉と、ちゃんとした手の指輪にしなさい!」

「……善処します」


 ガックリと肩を落とすシリウス様を見て、私は怒りよりも何だか可笑しさがこみ上げてきてしまった。

 足首に追跡魔法付きのアンクレットを嵌められ、遠回しすぎる愛の言葉を囁かれ、それでも今日まで私のために命がけで裏から手を回してくれていた、私のヒーロー。


(まったく……かっこいいんだか、抜けてるんだか分からないんだから)


 呆れつつも、胸の奥がじんわりと甘く痺れるのを感じながら、私はネグリジェの裾からチラリと覗く左足首の銀の輝きを、そっと撫で下ろしたのだった。




 ◇



 祝福の鐘の音が、雲ひとつない春の青空へと朗々と響き渡っていた。


 あれから一年。

 新たな体制となった聖教会は、表向きこそ伝統ある佇まいを保ちつつも、内部は不祥事を犯した上層部が一掃され、清廉で誠実な神官たちによって見違えるほど穏やかな空気へと生まれ変わっていた。

 内側がゴワゴワだった法衣は肌触りの良い上質なシルクへ、薄いスープと硬いパンは色鮮やかで栄養豊かな食事へと変わり、私は今や「大切に守られる聖女様」として、本来あるべき大切にされた毎日を送っている。

 ……まあ、たまにあの質素すぎる生活が恋しくなって「たまには硬いパンも……」と呟いては、周囲を真っ青にさせているのだけれど。


 大聖堂の中央通路を、純白のドレスに身を包んだマーガレット様と隣国の王太子殿下が晴れやかに歩んでいく。


「――女神アイリスの御名において、お二人の未来に永遠なる光と幸福があらんことを」


 壇上に立つ私が静かに祈りを捧げると、手元から解き放たれた温かな金の光粒が、まるで祝福の花吹雪のように大聖堂全体を包み込んだ。


「素晴らしい祝福を感謝いたします、聖女リリィ様」

「ふふ、とっても素敵な式になりましたわ。……あちらの視線が、少々痛いですけれど?」


 王太子殿下のお礼に続いて、可憐に微笑むマーガレット様がチラリと視線を送った先――大聖堂の控えの間近くには、正装の甲冑を纏ったシリウス様が立っていた。

 その藍色の瞳は新郎新婦ではなく、壇上で光を纏う私だけを、甘く、そしてどこか待ちきれないといった様子でじっと見つめている。

 無事に式を終え、参列者たちが宴へと移動した後の静かな大聖堂。

 祭壇に残る私の元へ、存在を主張するように靴音を鳴らしながらシリウス様が歩み寄ってきた。


「……お見事な祝福でした、リリィ様」

「ありがとうございます、シリウス様。マーガレット様、本当にお綺麗でしたね」


 微笑む私に、シリウス様は真剣な眼差しを向けたまま、「シリウス、と」と、二人きりでの呼び方を促し、静かにその場に跪いた。

 今度は遠回しな詩的表現でも、足首へのアンクレットでもない。彼はポケットから小さな革箱を取り出し、それを静かに開けて私の前に掲げた。

 そこに収められていたのは、私の瞳と同じ淡い金の輝きを放つ、美しいダイヤモンドとトパーズの指輪。

 あの勘違い騒動の後、私が居た世界でのプロポーズの仕方の一例を教えたのだが、まさかこちらに合わせてくれるなんて。


「マーガレット殿下の式も終わり、貴女の聖女としての任期も……いよいよ来年の春で満了となります」


 まっすぐに見つめ返してくる彼の瞳に、かつてのような歯痒そうな影はもうない。


「もう二度と、遠回しな言葉で誤魔化したりはしません。……来年の春、俺の妻になっていただけますか、リリィ」


 その直球すぎる求愛に、私の顔が一気に熱くなるのを感じた。

 偏ったオタク知識で勘違いを重ね、過酷な修行だと信じて突き進んできたポンコツ主人公の私。だけど、最後にたどり着いたのは、ずっと憧れていた本物のヒーローからのプロポーズだった。


「……はい。喜んで、シリウスの妻になります」


 私が差し出した左手の薬指に、ひんやりとした指輪が滑り込む。

 立ち上がったシリウス様に抱き寄せられながら、私は彼の胸の中に顔を埋めた。

 二人が本当の意味で結ばれる春は、もうすぐそこまで来ている。



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