「夫になる人」の欄に俺の名前が記入済みの婚姻届が社内ビンゴの景品にされたら塩対応の後輩美女がビンゴした
「それはコンプラ的にNGだ」
水谷匡章は同期社員である新開剛に差し出された書類を見てそう言った。
婚姻届だった。
「コンプラって都合の良い言葉だよな。しかしなぁ、俺は絶対にひよらないぞ。なにせ婚姻届なんて超個人的なものであって、本人の判断がすべてだ。コンプラ関係ない」
剛は眉をひそめ、常識の体現者のような顔で諭してくる。しかし匡章としては、ここで簡単に引けない。
「超個人的なものだってわかっているなら余計にだめだろ。婚姻届を会社のビンゴの景品にするなんて」
だめすぎる。
「射的のほうが良いか? 運の要素を排除し、シンプルに実力だけで決める」
拒絶しているのに、わからないふりをされた。ここで逃げ切らせてはならない。
「そういう問題じゃない。夫になる人の欄に名前を書いた婚姻届を景品にするのはだめだって話をしている」
匡章は剛の目を見て言ったが剛はすうっと目を逸らし、憂いを帯びた表情で小さく笑う。
「いいよなお前は。婚姻届に名前を書くだけで立派な景品になるんだぞ?」
「なりたくないんだが?」
「ったく、うらやましいぜチクショウ! 俺も女性社員たちから『婚姻届に新開さんのサインが欲しい』って騒がれてみてえよ!」
「そんな不自然な会話この世にあるはずがない。どこの世界にアイドルのサイン感覚で同僚男性のサインを婚姻届に書いて欲しがる女性社員がいるんだ」
「うちの会社にはいる」
「……いやだ」
匡章は音を上げた。
「いやだって何だよ」
「そのままの意味だよ。本当にそんな会話が女性社員の間でされていても嫌だし、なんだったらこの人たちが言ってましたって連れてこられても嫌だ。ふつーにサインくださいって言われたほうがマシ」
「おっ、サイン書きたいのか? いいぜ」
そう言いながら剛がもう一度婚姻届を差し出してきたので、匡章は受け取るなりくしゃくしゃに丸めてから返却した。
「書かない」
「もっと可愛いのが良かったか。婚姻届なんて出してしまえば手元に残らないのに、探せばいろいろ出てくるからな。俺のイチオシはアニメ『ちぃさくてかわいい』の婚姻届だ。恋愛要素ゼロのゆるキャラ殺伐アニメ柄をどうして婚姻届にしようと思ったのか、そのセンスがわからないが通販サイトで手軽に買えるぞ。かなりかわいい。俺は欲しい」
話し続ける剛を無視して、匡章はパソコンに向き直った。駄弁につきあわされて中断された書類作成の続きに集中する。
匡章の勤め先であるキャンパー向けアウトドアグッズメーカー「さわらび」は、もともと木炭が主力だった家族経営の小さな会社から始まっており、徐々に板金加工まで手を広げ飯盒や直火用のエスプレッソメーカーなどを細々と作ってきた「物づくり」の会社である。現在はさらに手仕事で靴下や足袋などを作っていた手芸メーカーを吸収し、堅実な「国産品」を売り出すことで業界内では「静かなブーム」「知る人ぞ知る」と囁かれる存在だ。
つまり、国内外に商品が届き始めてはいるもののいつどんな理由で潰れるかもわからない、吹けば飛ぶ中小企業である。
本社所在地は電車を乗り継げば一時間程度で都心に出られる関東圏とはいえ、社屋の周辺を田畑に囲まれたのどかな田舎であり、地元生まれ地元育ちの社員が実に全社員の半分以上を占める。平均年齢もやや高い。
その中にあって、匡章の経歴はやや異色だった。
五年前まで歌って踊って演技もこなすアイドルをしていた。だが、辞めた。
理由は、この近所の古い一軒家住まいだった祖父が死に、残された祖母が一人暮らしになったことである。
中学生の頃事故で両親を亡くし、祖父母に引き取られて育てられた匡章にとっては唯一の肉親と呼べる存在なのだ。「元気な間はひとりでもここに住みたい」という祖母を施設にお願いしたり家を始末したりするのも忍びなく、アイドルを辞めて帰って来てしまったのであった。
(「もったいない」「辞めなくてもいいのに」「よりにもよって人気絶頂期のいま?」なんて当時は散々言われたけど、俺はよーくわかっていたよ。引退したアイドルなんて二、三ヶ月もすればすぐに忘れられるし思い出されることもなくなる。しがみつくようなものでもない)
高校生のとき、クラスメイトの薦めから冗談で応募したモデルオーディションに受かり、グランプリは逃したものの芸能事務所からスカウトされてアイドルとなった。
学生時代は仕事量をセーブするつもりでいたがあっという間に忙しくなり、なんとか現役で入っていた大学も卒業まで六年かかった。以降仕事漬けで、会社員になった同年代よりも稼げているとの実感はあったが、祖父母はいつも心配そうに表情をくもらせていた。
――お金は困ってないから、送ってくれなくていい。それより、休みはとれてるんかね。帰れない距離じゃないんだから、お正月くらいは顔見せて……。
過労を心配したまま祖父が亡くなったとき、匡章は決意したのだ。もうやめよう。
十年働く中で、自分には向いていないという気持ちがいよいよ高まっていた時期でもあった。
祖父の死を「良いきっかけ」とは言えないが、とにもかくにも匡章はその世界から離脱をはかった。そして帰ってきたのだ。中学から高校卒業までの数年間を過ごした田舎へと。
もっとも、高校は地元ではなく電車通学だったので中学時代の知り合いとはすぐに疎遠になってそれっきりである。ここは地元であって地元ではない。昔の知り合いは全然いないに等しく、新参者と変わらない。
匡章はアイドル以外の社会人経験もなければ、地元にコネもない状態だった。
そんな匡章が試用期間を経て社員としてもぐりこめた会社が「さわらび」である。社長夫人がアイドル時代の匡章を好きだったとのことで「広告塔になる!」と激推ししてくれたらしい。
当初は期待された以上はやらねばならないのか? と覚悟していたものの、そもそもCMを出すこともない会社なので特にその機会は巡ってこなかった。
ならば営業の場で役に立ったかと言えば、それほどでもない。営業先で「すごいイケメン営業マンだ。えっ? 元アイドル? だからか、なるほどー」と話題のとっかかりにはなるがそれ以上会話が深まることもない。
エンタメの多様化した令和ともなれば国民的アイドルと呼ばれる存在はもはやいないも同然。活動十年それなりに売れていたアイドルであっても、興味がない相手からすれば「そういうひともいたんだ。テレビ? 配信?」くらいのもので顔も名前もほぼ知られていないのだ。
入社から五年たち三十歳も過ぎたいま、話題にのぼることもない。
毎年数名新入社員が入ってくるが、気づかれることもなければ誰かに話題にされても「はは、そうなんですねー!」と知らない様子で愛想笑いされるだけだ。
こうしてすっかりアイドルの名残すら失った匡章をからかうのは同年代の剛と、主に手芸部門所属の親世代の女性たちくらいで、当の匡章自身も自分がアイドルであったことなど忘れかけていた。
(サインくださいなんて久しぶりに言われたなぁ……)
ちらっとは思ったものの、もちろん色紙ではなく婚姻届を渡されたところでサインなどするわけもない。
こうして匡章は会話そのものをすぐに忘れて仕事に没頭していたが、一通のメールに気づいて「あっ」と声を上げた。
すぐにディスプレイ上の時計を確認して立ち上がり、早足でデスクの間を横切って部屋を出た。
* * *
板金加工の工場で作業員が休憩に入るのを見計らって、匡章は「お疲れ様です」と声をかけながら足を踏み入れる。
おう、お疲れ、と三々五々ぱらぱらと返事がある中、匡章は目当ての相手である小柄な人影を目で探す。隅の方で、スマホを見ながら水筒に口をつけていた。
成瀬香澄。「さわらび」入社二年目の若手社員で、板金加工部門では唯一の女性である。
「成瀬さん」
いきなり近くで声をかけたら驚かせるかもしれないと、あらかじめ少し離れた位置から呼びかけてみる。
ぴしりと作業着を着こなした成瀬は黒髪ロングの髪を邪魔にならないように結んでおり、化粧っ気もないが、それだけに元々の顔立ちの可愛らしさが際立っていた。現役のアイドルに混ざっていてもまったく負けないと匡章は確信している。
「……なんですか」
成瀬は普段からそうであるようにこのときも匡章に対して睨みつけるようなまなざしを向けてきた。愛想がないを通り越して、誰に対しても喧嘩腰なのである。しかし、匡章はこの容貌であれば仕方ないと割り切っていた。
(周りが男だらけだからな。可愛げなんて見せようものなら、業務外人間関係の悩みであっという間に退職を余儀なくされそう。警戒心むき出しくらいでいいと思うよ)
三十歳過ぎの男性社員として、匡章は彼女の気持ちを尊重したいと考えている。そのため、足を止めた位置から近づくことなく用件を口にした。
「成瀬さんが発案で試作から商品化が決まった蒸し器だけど、ギフトショーで興味持ってくれた会社から問い合わせがあってまとまった発注が入ったよ」
「えっ本当ですか!?」
びっくりした様子で目を見開き、成瀬は詰め寄って来る。その手からスマホがするりと滑り落ちて、匡章はとっさに手を差し出して受け取った。
まったく他意の無い行為であったが、成瀬は信じられないくらいの反応速度で匡章の手からスマホを奪い返す。
指が触れ合ったせいか、殺意を思わせる鋭い目で匡章を見てきた。
「……べつに直接言ってくれなくていいですよ。営業サン忙しいと思うんで」
それはその通りなのであったが、成瀬が初めて開発から商品化にこぎつけた意欲作であることを知っていただけに、営業としても全力で推してきた匡章は同志のような思いがあって言わずにはいられなかったのである。
迷惑そうな顔をされてしまったことにより、余計な仲間意識であったと苦く自覚することになったものの、祝いたい気持ちが減退したわけではない。今日はひとりで祝杯をあげようと思いながら最後にひとことだけ告げた。
「おめでとう。休憩中に邪魔して悪かった。用件はそれだけだから」
そして、邪魔にならないようにさっさと立ち去ったのであった。
その背後で成瀬が拝んでいたことなど、知るよしもない。
* * *
「ということで、今年もやって参りましたさわらび名物納涼会! 皆様盛り上がってますか!」
会社の屋上に設置された祭り会場で、MC担当の剛の声がスピーカーから響き渡る。
畑に囲まれた「さわらび」は周囲では珍しい三階建てのビルで、しかも屋上がある。隣町で開催されている花火を見るのにはまさに絶好のロケーションであり、その日にあわせて例年屋上には屋台と盆踊り会場が設営されるのだ。会社関係者であれば家族連れての参加もOKで、子どもや孫連れも多く毎年大変盛り上がっていた。
屋台はわたあめ、チョコバナナ、りんご飴、かき氷、焼きもろこし、焼きそば、焼き鳥といった定番のメニューで、スタッフ側にまわった社員で切り盛りしている。
匡章の祖母は家でゆっくりしているというので、妻子も彼女もいない匡章は単身参加。ひたすら焼きそばを焼き、合間にビールを軽く飲んでいた。「おじちゃん、5パック」と子どもにオーダーされれば「ちょっと待ってね~!」とすぐさま笑顔で応じる。
屋台は盛況で会場をまわる暇もなく、ビンゴ大会が始まってもシートは受け取らないままひたすら切ったキャベツと肉とそばを鉄板に広げて焼き続けていた。
だから気づいていなかったのだ。
いつの間にか自分の名前が「夫になる人」に書かれた「ちぃさくてかわいい」柄の婚姻届がビンゴの景品になっていたことについて。
「はい、ビンゴ一抜けは工場部門のエース成瀬香澄さんだ! 一位のひとは二種類の景品から希望の品を選べます! まずは一等賞として商品券2万円分! そして本日の目玉、独身者限定・特等『夫になる人』の欄に記入済みの婚姻届! これは間違いがない、なにせ相手は営業の水谷匡章! さわらび名物、旦那にしたい社員ナンバーワン!」
じゅうううぅ……と焼きそばの焼ける音に、剛の声が重なって聞こえる。
「おじさん、焦げるよー」
焼きそばを気にする子どもに声をかけられ「おー……」と生返事はしたものの、匡章のコテを持つ手はうまく動かなくなっていた。
「おう、水谷。主役じゃねえか、行ってこい!」
バシッと隣に立っていた年配の男性社員に背中を叩かれて、コテを手から奪わる。匡章は納得いかない気持ちで首を傾げた。
「行かなきゃだめですかね? あれ、俺は名前を書いてないですよ」
婚姻届を偽造された。
当然無効であろうとは思うのだが、もしそのまま役所に出されてしまった場合はどうなるのだろう。
受理されたら既婚者になるのだろうか?
「行くに決まってるんだろう、なんたって今日の目玉なんだから! 色男は辛いな!」
「マジで辛いっすね」
すでに何杯もビールを飲んで出来上がっている男性社員は、うひゃひゃひゃひゃと笑って取り合ってくれない。会話にならないと判断した匡章は、エプロン姿のままビンゴの発表会をしているステージに向かって歩きながら呟く。
「どう考えても商品券二万円のほうが良い」
二万円あれば結構豪遊できるだろ、と妄想しているうちに何やら集まった人々に道を譲られていた。特設ステージまでの花道が出来上がっており、その先ではマイクを持った剛と今日も冷ややかな表情をした成瀬が並んで待っていた。
(いや~、しかし当たったのがその場のノリに流されない硬派な成瀬さんで良かった。俺は婚姻届だけ回収してこよう。事故で誰かが役所に出したらそれなりにやばそうだから)
ど ん な 事 故 だ。
セルフツッコミしないでもなかったが、この会社でもっとも自分に興味がなさそうな成瀬が権利を取ってくれたことに安堵しつつ進んでいると、道半ばで「イエ~イ!」とノリだけで奇声を上げて駆け寄ってきた剛に手首を掴まれて挙手するように持ち上げられた。
「本日の特賞の登場です! 持ち帰りも可です!」
「令和でそのノリはだめだろう」
アングラ人身売買オークションか、と喉元まで言葉が出かかったがコンプラ配慮で口をつぐむ。
「さあ、カスミンどうする!?」
香澄だからカスミン、おそらく名前が「かすみ」のひとがかなりの高確率で呼ばれそうなあだ名だ。
(剛っていままで彼女と接点あったのか? 年下女性のあだ名呼び大丈夫なのか)
マジで令和のコンプラわかってねえだろ……と冷えたまなざしになる匡章をよそに、剛は匡章を引きずったままステージへと戻る。
カスミンこと成瀬は緊張した面持ちであったが、匡章と目が合った瞬間大きな声で叫んだ。
「婚姻届にしまっしゅ!」
噛んでる。
匡章は目を見開いて「え?」と真顔になってしまった。
「どうしたんですか成瀬さん。べつに大丈夫ですよ、ここで俺を選ばなくても『ノリ悪いっすね!』なんて言わないから。というか言う奴いたら俺が許さないです。こんなの冗談でやっていいことじゃないんで」
なにしろ婚姻届ですからね? と言ったものの、なぜか成瀬は目に見えて落ち込んでしまった。
「婚姻届がほしくて……ビンゴがんばったのに」
「ビンゴ頑張る? 頑張るって、どう……えっ? 婚姻届が欲しかった? 俺ですよ?」
そこで剛にがしっと肩を組まれる。
「匡章、ここは逆転の発想でいこう。お前さえ了承すれば若くて可愛い嫁さんがくる。これほどうまい話がこの世にあるか?」
「うまい話過ぎてヤバさしか感じねぇよ」
「若くて可愛い嫁さん欲しくないのか!!」
あまりのしつこさに、匡章は逆の立場だったらどうだろうと一応考えてみた。
成瀬との結婚権とも言える記入済み婚姻届がビンゴの景品になっていたらどうか。欲しい……欲しくない……欲しい?「いやおかしいだろ」
「くっ……水谷さんは私では不満なのですか」
会話を耳にした成瀬に悔しそうに言われて、匡章は絶句した。
(なんだこれ。俺が成瀬さんの公開告白を袖にした悪い男になっていないか?)
祭りの余興のノリがわからない朴念仁、体当たりで盛り上げようとしている若手女性社員に対してひたすら塩対応。口を開けば苦言、コンプラ、否定……。
カスミンかわいそー! というヤジが飛んできて、いよいよ匡章は追い詰められた気分になり、聴衆に向かって叫んだ。
「かわいそうって……『俺と結婚させられるカスミン』がかわいそうだろ!? 相手俺だぞ!?」
なぜか一瞬、しんと静まり返る。
その次の瞬間、成瀬が高らかに叫んだ。
「水谷さんは、水谷さんは変わってしまったんです! アイドルだった頃の水谷さんは絶対そんなこと言わなかったですよね!? いつも自信満々で自分こそが世界で一番のイケメンみたいな顔していたじゃないですか!」
アイドル時代を引き合いにだされてしまった。
その頃とは違うからなーと思い、匡章は苦笑いをする。
「それはある程度作っていたキャラだから。引退したいま、そのノリで生きていたらさすがに怖いだろ。もう三十歳過ぎのオッサンで」
「三十歳過ぎのアイドルもいます!」
「俺はもう現役じゃない」
なのに会社関係者の前で大暴露されてしまったな、と遠い目をしたところで成瀬にたたみかけるように言われた。
「アイドルじゃないとしても、いまの水谷さんも仕事ですごく頑張っていて、私の商品も流通にのせるために色々してくれて、会社にも貢献していますよね!? それなのにすぐ『俺はいいから』みたいに一歩ひくのやめてほしいんですけど! さわらびにいることはそんなに水谷さんの自己肯定感を下げるんですか!?」
「なんだって」
それは考えもしなかったことだ。
呆然としてから、匡章はなんとか自分の思いを口にした。
「俺はアイドル辞めてから居場所をくれた『さわらび』に感謝しているし、僭越ながら愛している。大好きだ。自分にはできない物づくり部門の板金制作部も手芸部も尊敬している。会社に貢献できたら嬉しい、さわらびの製品を世に知らしめるのが自分の使命だと思っている!」
おお、と会場がざわめく。
「だったらそれでいいじゃないですか! ことあるごとに俺なんてみたいなこと言わないでくださいよ! 自分の婚姻届には二万円以上の価値があるって素直に認めたらいいじゃないですか!」
「それはもちろん!」
「景品としての価値がわかりましたね!? 私が欲しがっても変じゃないですよね!」
「そのとおりだ」
「はい、もらいます!」
そこで話を押し切られて、盛大に盛り上げる剛のナレーションとともに婚姻届は成瀬の手に握られることとなった。
これで良かったのか? と思うものの会場の盛り上がりに水を差してはならないと思い、匡章は笑顔で応えてから成瀬に向き合う。
「それじゃ、オッサンだけどよろしく」
成瀬は急にすんとした顔になり「いえ」ときっぱりと言った。
「私が欲しかったのは『ちぃさくてかわいい』の婚姻届なので」
すうっと視線を逸らす塩対応はいつもの成瀬だ。
「そうなんだ? 欲しいのは『ちぃさくてかわいい』か、そうだよね。第一それ俺サインしていないし、いまなら新品だよ。良かったね」
ほっと安堵しつつ、匡章は早口になる。
むすっとした顔のまま、成瀬がスマホを差し出してきた。ぱっと表示された画面には現役アイドル時代の匡章がいた。
「……私は生まれた頃から水谷さんのファンをしていました」
「さすがにその頃はアイドルしてなかったと思う。年齢差そこまではないよな?」
「他のひとに婚姻届とられるわけにはいかなかったんです。水谷さんの貞操は私が守ります!」
「もしかしてめちゃくちゃ俺のこと好きなんだ? えーと、アイドルのときの」
成瀬は視線を逸らして、その質問には答えずに「サイン欲しかったな」と呟く。
「いいよ、するよ。その景品を完成品にしよう」
思わず笑いながら匡章は婚姻届を受け取り「夫になる人」の欄に名前を書き込んだ。
やがてその婚姻届を実際に使うことになったとき、証人欄に名前を書き込みながら剛は手柄を主張し、匡章も茶化すことができずに「ありがとう」と言うことになるのだった。
※最後までお読みいただきありがとうございました。




