第一次モレイアン川夜戦 Ⅰ
その夜。
魔族の呼び名ではボルタ川であるモレイアン川からか一アケト、別の世界では十キロメートル以上離れた草原地帯に横に広がった魔族軍がまったく明かりがない状態で進軍していた。
その数は約八万。
しかも、彼らは自身が乗る船を十人一組で担ぎ上げていた。
それがひとつやふたつとなれば深夜に密漁をする怪しい集団にしか見えないが、さすがにこれだけの数ともなれば、壮観と言わざるを得ないだろう。
多くの困難に見舞われた悲しき事前準備。
だが、それもこれで終わり。
というより、今から本番が始まるのだから、もうこれ以上金を毟り取られることはない。
それが将軍たちの偽らざる心境だった。
「……今さら気づくのは少々遅い気がするが……」
十グループに分かれたその集団のひとつ。
部下たちとともに自らが乗る船を担ぎ上げて歩くこの部隊の指揮官クレメンテ・アルタミアが話しかけたのは副官のアペル・マラニャンだった。
「この軽い皮鎧でなかったら大変なことになっていたな」
彼ら魔族の戦士が身に着けているのはいつもの金属の鎧ではなく、大海賊ワイバーンから買い入れた革鎧だった。
中古品も大量に混ざっていることもあり、見栄えが悪く、当然兵士たちからは評判が悪かったその鎧であるが、アルタミアの言葉どおり、金属製のものに比べて圧倒的に軽い。
もちろん金属の鎧をまとっていても、魔族の圧倒的筋力であれば船を担いでの行軍は可能であったろう。
ただし、その代償として体力を大幅に消耗した結果、渡河が唯一の仕事となり、対岸に渡った瞬間から始まるフランベーニュ軍との戦闘ではいつもの力は発揮できなかったはずである。
そうなれば……。
「重い剣を下げ、重い甲冑を着込んで運んでいては、本番では何もできず、ただフランベーニュ人に斬られに行く図などということになりかねなかったのですから」
「ですが……」
「そうであってもやはり腕は相当きついですね。しかも、足場が悪いうえにその足元が照らせないというのも……ん?」
マラニャンの言葉が途切れたのは、馬車の集団のものと思われる大きな音が進行方向から聞こえ始めたからだ。
だが、それも一瞬のこと。
あっという間に後方に去っていく。
音が残る方向に目をやりながら、マラニャンが呟く。
「大剣や戦斧、それに食料などの運搬は終わったようですね」
「……ああ」
アドリアン・ポリティラがマンジューク防衛軍の司令官に就いていた頃は補給業務を押し付けられていたこともあり、その有用性については理解していたものの、諸事情によりそれを認めるわけにはいかなかったアルタミアの心情が十分に滲み出していたと言っていいだろう。
それに対し、アルタミアの後任として補給業務を担い、苦労することが多かったマラニャンにとってその大集団が使う舗装道路は大いに興味を引くものであった。
「……舗装された道と二頭立て馬車の組み合わせ。前日の雨などものともせず荷馬車が前線への物資運搬できるのは画期的です」
「しかも、あの道の幅。あれだけの広さがあれば一度に何台もの荷馬車が行き来でます。聞くところによれば、グワラニーは我々がミュランジ城攻略をおこなうことになってからあの道を完成させたとのことですが、どのような考えであれだけの道を整備したのか知りたいものです」
もちろん、相手と状況、その両方の理由からそれに対する回答は永遠に得られないだろうから、代わりにここで答えておけば、舗装はこの世界における魔法を使わぬ人員及び物資の主要輸送手段である馬車が、ぬかるんだ道では徒歩以上に時間がかかるという欠点があることを十分に認識し、その対策としておこなったものである。
そして、この道路の工事を請け負ったのはグワラニー軍所属の戦闘工兵たちであったのだが、彼らは最後の仕上げとしてせっかく舗装した道路の上に土を撒いていた。
多くの者にはその意味を理解できなかったが、むろんそれが何のためにおこなわれたのかをひと目で見破る者もいる。
そのひとりであるグワラニーは、視察中にその様子を見るとこう言って即座に褒美を出した。
「特別な指示をしなかったにものかかわらず、馬の負担軽減だけではなく、軍用道路という点においてもふさわしき配慮。感服した」
ちなみに、この世界で蹄鉄と呼ばれる馬の蹄を守る馬具の完成形が開発されたのはつい最近のことで、クアムートの荷馬車業者がその祖とされる。
そして、その発明にはコンクリート製の路面を馬が歩くことが多くなったかの地での実情が大きく影響しているのはあきらか。
「必要は発明の母」という格言を見事に証明しているものといえるだろう。
ついでにいっておけば、鞍や鐙は意外にもそれよりもずっと古くから導入されていた。
こちらは魔族の国、その十一代目の王の言葉がきっかけとされている。
さて、話を本題に戻そう。
マラニャンが指摘したもうひとつの事項である道幅である「荷下ろしに一車線。通行に二車線」という根拠でつくられた片道三車線に拡幅された理由。
それは、それによって以前なら悪路とともに交通渋滞の原因となっていた故障をした馬車の車線封鎖などもろともしないその広さによって、人や物の行き来が驚くほど活発になったクアムートを中心としたグワラニー領内の幹線道路の規格に準拠したものとなる。
「まあ、たしかに便利で早いことは認めるが他人に運搬を頼む分、金はかかるが……」
「ま、まあ、そうですね……」
嬉々としてその利点を語っていた自分の言葉がアルタミアの不機嫌さを増した原因であることに気がつき、大急ぎで上官のぼやきを肯定したマラニャンだったが、やはりついた勢いは簡単には止められない。
「それにしても、これまではあまり気にしていませんでしたが、本当に金がかかるものなのですね。大軍を動かしての戦いは」
それはあきらかに余計なひとことだった。
すぐにこの場の雰囲気には不似合いな、いわゆる失言であることに気づいたものの、後の祭り。
だが、なぜかこれが上官の心に響く。
「ああ」
小さく頷いてからアルタミアが言葉を口にする。
「将が大軍を率いて敵をなぎ倒すだけで済むのは吟遊詩人が語る夢物語のなかだけだ。実際はその前の準備こそが大変であり、重要なのだ。そして、そのためには大金が必要となる」
そう。
アルタミアは部下の言葉によって思い出したくないことを思い出していたのだ。
自軍兵士八千人の武具一式を運搬させたクアムートの荷馬車代金貨四百枚。
「夜間に、しかも前線近くまで運搬するだけではなく、各陣地に分別配置までしてひとり当たり銀貨五枚なのだから、これでも十分に値引きしたなどと奴らは言っているが、値引きではなくぼったくりの間違いだろう」
「……しかも、それが我々と同じ規模の集団がさらに九つ。つまり、奴らはこの仕事だけで金貨四千枚稼ぐということになる。しかも、それがクアムートの荷馬車業者たちだというのがさらに腹が立つところだ。まるでこうなることがわかっていたかのように売り込みに姿を現わすなどさすがグワラニーの薫陶を受けた者たちだ……」
「グワラニーの子分にはろくな奴はいない……」
「というより、奴らを呼び寄せたグワラニーがろくな奴ではないのだ」
むろんクアムートから出稼ぎにやってきた馬車業者たちにサイフの中身をそっくり巻き上げられたのはアルタミラだけではない。
各部隊を指揮する将軍たち。
そのすべて。
彼らの怨嗟の声とともにおこなわれた進軍によって横広がりになった軍は所定の位置に到着する。
そこは川岸まで別の世界での二キロメートルにあたる二十アクトとほどであり、ミュランジ城の明かりも確認できる場所。
だが、それはこちらも同じ。
ここで火を使えば相手に気づかれる。
これまで不便な思いをして火はおろか魔法も使用してこなかったのだ。
当然使用などできない。
だが、それによってある問題が起こる。
いや。
必然的に起こることにようやく気づいたと言ったほうがいいかもしれない。
暗闇のため、自分の武器がわからない。
確率八千分の一。
大剣と戦斧の違いはわかるが、それでもほぼ自分のものに辿りつく確率は非常に低い。
そうなればその解決策などひとつしかない。
とりあえず手にしたもので戦う。
それ以外の方法がないため、事前の取り決めがなかったにもかかわらず、すべての隊で採用されるその方法のおかげでとりあえず混乱は収拾すると、いよいよ川岸へと前進が始まる。
むろん防御魔法の加護はないため、ここで魔法攻撃を受ければ、当然無防備状態の彼らは大きな被害を受け、スタート前に彼らの意図は頓挫する。
やってくるかもしれないそれに全員が緊張しながら進む。
だが、ありがたいことにすべての部隊が渡河開始地点まで無事辿り着く。
「よし。所定の位置に到着した」
「伝令兵。総司令官に準備完了したことを伝えよ」
各部隊の将軍たちから、同一の命令が飛ぶと、伝令兵たちは次々に闇に消えていく。
そして……。
「ポリティラ様。全部隊の準備が整いました」
副官ドゥアルテ・ソアレスの言葉に頷いた総司令官ポリティラは頷き、大きく息を吐きだす。
「フリーアとシャプラーの伝令はここへ」
そう言って呼び出した左右両端に陣を敷くふたつの部隊に所属する伝令兵にポリティラが命じる。
「最終準備が整い次第。渡河を開始せよ。武運を祈る」
「そして、対岸で会おう」
「行け」
魔族軍による渡河作戦の始まりである。
ドゥアルテ・フリーアとフェルナン・シャプラー、両将が率いる部隊の伝令が消えてからしばらく経ったところで、ポリティラが再び声を上げる。
「……次。マテイロス、ケイマーダの伝令。ここへ」
以降、次々と命令を受けた伝令兵が自陣に戻っていき、最後に残ったゴイアスの伝令兵が姿を消したところで、ポリティラは胸を撫で下ろす。
「とりあえず、これで一段落」
時間差をつけての伝令。
これは夜間で、しかも魔法を使えない状況下での伝達手段として思いついた苦肉の策。
もちろんこれで完全な一斉渡河ができるわけではない。
だが、それでもその誤差は許容範囲であったのは、この渡河の肝である「一斉開始」を進めるためにどの程度の時間差をつければいいのかを入念なチェックしてきたポリティラの努力の賜物として評価すべきだろう。
と言っても、その功の大部分は副官ソアレスに帰すものであったのだが。
ここから魔族軍各部隊は川に船を出し渡河に挑むことになるわけなのだが、当然そこにはミュランジ城主リブルヌがせっせと設置していった川に沈む障害物が待っている。
本来であれば、事前に偵察をして、障害物の設置状況を確認するところであるのだが、そうなると当然それによっては渡河作戦に気づかれ、警戒態勢に入られてしまい奇襲と言う形でより安全に渡河したいという魔族軍の希望は叶えられないことになり、足場の悪い場所を夜間行軍してきた意味もなくなる。
その必要性に気づかなかったのでも、手を抜いてそれをおこなわなかったのでもなく、事情によりそれができなかった。
これが魔族軍の諸将の名誉のためにつけ加えておくべき言葉である。
だが、理由はどのようなものでも、それによって引き起こされることは変わらないのも事実。
もちろん自らの命に直結するのだから全員が細心の注意はするが、その障害物が水面に顔を出しているのならともかく、そうではない。
暗闇のなかでそれを見つけ出すのは至難の業といえるだろう。
しかも、湖や沼ならともかく、流れのある川。
そこにロシュフォール配下の熟練者たちとは程遠い技量しかない未熟な漕ぎ手。
そして、船の構造もその悪条件リストに加わる。
大海賊ワイバーンから調達した渡河用の小舟は海で使用する船の設計図のままでつくられたため必然的に底が深い。
当然障害物の餌食になりやすいのだ。
さらに、その障害物の配置も実に巧妙。
つまり、起こることは決まっている。
そして、魔族軍にとっては不本意なものであるそれは始まる。
魔族軍の大部分の部隊が船を出してしばらく経った頃。
最も川上を進んでいた八百艘を率いる指揮官シャプラーが乗り込んだ先頭集団の一艘。
一番に対岸に着こうと勢いよく進んでいた船の前部に何かが衝突したような音がした瞬間、水が噴き出す。
さらに前のめりに急停止した船に後方から追突、さらにその後ろにとまさに玉突き衝突状態。
それが方々で起こる。
まさに大混乱。
「穴を防げ」
「無理です。それよりもこのままでは沈没します。とりあえずすぐに後退を」
「馬鹿を言え。後方どころか左右だって味方の船だらけだ」
「では、どうしますか?」
「仕方がない。助かるためだ。まずそれを捨てろ。各船にも伝えろ。沈没を免れるために必要なら武具を捨てよと」
そう言って、尻込みする部下たちに見本を見せるように積み込んできた武具を投棄し始める。
これを簡単にやってのけるだけでもシャプラーの将として器が伺えるといえる。
ただし、それで沈没を免れることができるというわけでもないのだが。
だが、それでなんとかなりそうな正面から障害物に乗り上げた彼らは幸運の部類に属していた。
なぜなら左右どちらかに偏った形でそれが起こった場合には一瞬で転覆となり、武具はもちろん、兵も川に流されていたのだから。
悲鳴と怒号。
さらに、悲劇の連鎖はまだまだ続く。
溺れた仲間を助けようとしたところで転覆する船も続出したのだ。
収拾がつかない混乱の極みに陥ったシャプラー隊。
そこにあらたな、そして、この夜最大の災難がやってくる。
「魔族ども。こんな夜に仕事とは勤勉だな。やってきた褒美をやるからありがたく受け取れ」
「提督。褒美ではなく手向けではありませんか」
闇夜に響く聞き間違いようもない流暢なフランベーニュ語。
しかも、ふたり分。
「フランベーニュ語。敵襲だ。応戦しろ」
「残念」
「私はおまえたちほど暇ではない。それよりも船底に開いた穴を防ぐのに専念しろ。沈むぞ。魔族」
「うるさい。今すぐ首を叩き落としてやるから姿を現わせ。フランベーニュ人」
「御免被る」
「まあ、どうしても相手をしてもらいたければ対岸まで来い。待っていてやるから」
まったくかみ合わない言葉の応酬のあと、笑い声とともに遠ざかるその声を睨みつけ、いつものも大剣と比べればおもちゃのような細い剣を持ってどうにか立ち上がると、暗闇に向かって盛大に喚き散らすシャプラーの袖を引いたのは副官のアントン・ジャヴァリだった。
「シャプラー様。変な匂いが……」
「ん?そういえば……」
記憶にはある。
だが、極度の緊張と興奮状態のために脳が思うように働かない。
ただし、何かよからぬものであることだけはわかる。
そして、一瞬とは程遠い時間が過ぎたところでシャプラーはようやく気づく。
その異臭の正体を。
「……おのれ、フランベーニュ人。油を流したのか」
シャプラーは呻く。
このような場所で油が大量に撒かれたのだ。
次にやってくるものが何かなどあきらかだったのから。
だが、遅すぎた。
直後、対岸から火球の雨が降る。
油まみれの者や船はもれなく火に包まれる。
今は無事でもそのまま乗っていれば焼け死ぬのを待つのみ。
当然それを避けるための選択肢はひとつ。
好むと好まざるとそれを選ばざるを得ない。
だが、それで皆が救われたのかといえば違う。
そして、現実はそのとおりとなる。
焼死から溺死に原因が変わっただけで最終結果は変わらぬ者が続出する。
もちろんそれはシャプラー隊だけに起こったものではなかった。
川の東側半分があっという間に火に包まれる。
その火によってようやく戦闘が始まっていることに気づき、大慌てでやってきた魔族の魔術師団の応戦と、火球に対する対抗魔法がおこなわれたものの、炎の中には味方がいるため効果的な対策が打てず、混乱は簡単には収まらない。
その凄惨な宴が終わるのは長い時間が過ぎてからのこととなる。
そして、その被害がどれほどのものだったのか判明するのは陽が昇ってからとなるのだが、そこで全体像を把握した総司令官ポリティラは驚愕することになる。
「フリーア隊。死傷者三千五百。行方不明二千七百」
「マテイロス隊。死傷者二千五百。行方不明千五百」
「ケイマーダ隊。死傷者二千九百。行方不明二千八百」
「オリンダ隊。死傷者千九百。行方不明八百」
「アルタミア隊。死傷者四百。行方不明百」
「セリテナーリオ隊。死傷者千三百。行方不明五十」
「ウルアラー隊。死傷者三百。行方不明百」
「ゴイアス隊。死傷者百。行方不明五十」
副官ソアレスが手近な紙に急ぎ書き連ねただけの報告書を読み上げる各隊の損害状況を聞きながらポリティラは顔を顰める。
「行方不明を戦死と考えれば、二万を超える損害だ……ん?」
「ソアレス。シャプラーの部隊が抜けているようだ」
「奴の部隊はどうした?」
ポリティラの言葉は何気ないものだった。
だが、その言葉に返ってきたのは驚きのものだった。
悲痛。
その言葉を顔全体で表わした副官が口を開く。
「シャプラー殿の部隊の損害。確認された死傷者七千二百。行方不明二百。そして……」
「シャプラー将軍は戦死。副官のジャヴァリの死体も確認できました。ふたりとも火傷の跡もありますがおそらく溺死です」
溺死。
剣を振るうことを生業としている者にとって相手と剣を交えぬままというだけでも望まぬ形での死であるというのに、そこに加えてその死因はシャプラーにとっては不本意の極みであったであろう。
だが、これが船を使った揚陸戦の倣い。
このような者は必ず出るのだ。
そして、今回の戦いでの死者の多くはシャプラーたちと同じ死因。
身につけていたものが革鎧だったにもかかわらず、この損害だったということは、金属製の重い鎧だった場合、この時点で魔族軍は壊滅状態に陥っていたことも十分に考えられる。
示されたのはそのような数字だったといえるだろう。
「……詳細は後ほど改めて報告しますが、合計で死傷者約二万。行方不明約八千。合計二万八千となります。そして、死傷者の大部分は死者。それから行方不明者もそのほとんどが川に流されているため、おそらく……」
「わかった」
奇襲を仕掛けるはずが逆に奇襲を受けた時点で、少なくない被害があると覚悟していたものの、ここまでのものとは考えていなかったポリティラは呻く。
……部隊指揮官ひとりと三割の兵を失ったのだ。
……本来であれば、撤退するかどうかを考えるべきところだが……。
……今の我々にはそれが許されない。
……だが、さすがにもう一度夜間渡河というわけにはいかない。
……どうするべきか?
……とりあえず……。
「諸将を集めよ」
大損害を受けながら撤退できない魔族軍の指揮官アドリアン・ポリティラは指示を出した。




