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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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同居人

作者: 速水静香
掲載日:2026/01/21

 埃が積もる速度というのは、案外早いものだ。


 床の隅、壁紙の剥がれかけた継ぎ目、そして擦り切れた畳の目。そういった場所に、灰色の綿のような塊が静かに堆積していく様を、私は飽きもせず眺めて過ごしている。この部屋の空気は常に重く沈んでおり、古い紙と湿った木材が腐りかけたような、独特の臭気を孕んでいる。だが、私にとってはそれが安らぎだった。


 住めば都、という言葉があるが、この築四〇年を越える木造アパートの一室ほど、私の性に合った場所はない。日当たりが悪く、昼間でも薄暗いこの空間は、外の世界の喧騒を遮断してくれるシェルターのようなものだ。


 私は昔から、他人が感じ取れないものを感じ取る体質だった。

 いわゆる、霊感というやつだ。

 視界の端を過ぎる白い靄や、誰もいないはずの隣室から聞こえる足音。そういった怪異は、私の日常の片隅のどこかに存在し続けてきた。もはや、この部屋が持つ陰鬱な気配にも、恐怖ではなく親近感すら抱いている。


 ここには、私以外の何かがいる。あるいは、かつていた何かが残した爪痕のようなものが、空間そのものに染み付いている。

 不動産屋は口を濁していたが、家賃の相場から考えれば、ここがいわゆる「事故物件」であることは想像に難くない。だが、私のような人間にとっては、むしろ好都合だ。安価な物件に住める。それだけで十分だった。


 今日も私は、部屋の中央に座り込み、文庫本を読んでいた。活字を目で追っていると、時間は亀が進むがごとく、ゆっくりと流れていく。

 日が傾き、西日が擦りガラスの窓を茜色に染め始めた頃だった。


 ガチャリ、と金属が擦れ合う音がした。


 私は顔を上げる。視線は自然と玄関の方へ向く。

 ドアノブがゆっくりと回転していた。

 私は確かに鍵をかけたはずである。用心深い私が、施錠を忘れるはずがない。空き巣のピッキングだろうか。いや、入居者いるのに空き巣とはなんとも間抜けだ。


 軋んだ音を立てて、鉄製の扉が開く。


 そこに立っていたのは、一人の女だった。


 まあ、勝手に鍵を開けてこの部屋に入ってくるのは、おかしいが一万歩譲って許そう。


 だが、それ以上に異様なのは彼女の様子だった。

 腰まで届く長い黒髪は、手入れされていないのか重く湿ったように張り付き、顔の半分を覆っている。その隙間から覗く肌は、蝋細工のように蒼白だ。

 彼女はまばたき一つせず、焦点の合わない瞳で虚空を見つめていた。


「おい」


 私は本を閉じ、声をかけた。

 だが、女は反応しない。私の存在など最初からそこになかったかのように、あるいは認識することすら許されていないかのように、彼女は靴を脱いで、畳の上へと上がり込んできた。


 無視か。いや、違う。

 女には、生きた人間の雰囲気が感じられないのだろう。彼女の雰囲気は、あまりにも静かで、あまりにも暗い。


 彼女には、私が見えていないのだ。


 靴を脱ぎ終えた彼女は、そのまま私の身体をすり抜けるような軌道で部屋の奥へと進む。


「……暗い」


 その声は、墓底から響くような掠れた音だった。

 私は得心がいった。

 彼女は、人間ではない。

 この部屋に取り憑いた、かつての住人のなれの果て。地縛霊というやつだ。これほど鮮明な形を持って現れるとは、よほどの未練があるのだろう。


「やれやれ、陰気な同居人だ」


 私は再び本を開いた。彼女が私に危害を加えない限り、追い出す必要もない。私の広い度量で、しばらくこの迷える魂を観察してやることにした。



 幽霊との生活は、私の精神を静かに、しかし確実に逆撫でした。


 彼女の行動は不可解かつ不気味だった。

 夜になると、彼女はコンビニの袋からプラスチック容器を取り出し、クチャクチャと音を立てて食事を摂る。俯いたまま、長い髪を揺らしもせず、ただ咀嚼だけを繰り返す。

 それは生きるための食事というよりは、生前の習慣をなぞっているだけのようだ。餓鬼道に落ちた霊が、満たされない飢えを癒やすために食物を貪っているのだろう。


 ある夜、彼女はスマートフォンを耳に押し当て、誰かと話し始めた。


『……うん、そう……やっぱり変なの……視線を感じるの……』


 彼女は必死に訴えかけている。

 私は呆れてその様子を眺めていた。

 誰かと通話しているつもりになっているのだろう。だが、死者の声が電波に乗って生者に届くわけがない。

 あれは生前の習慣をなぞっているだけだ。あるいは、妄想の中に作り出した相手に助けを求めているのか。どちらにせよ、滑稽な茶番だ。


『……ここ、絶対におかしい。冷たいの……誰かいる……』


 被害妄想も甚だしい。

 私が部屋の主として監視しているのを「視線」と感じているのか。冷たいのは君自身が死体だからだ。体温を失った感覚をまだ引きずっているに過ぎない。

 なんと業の深い霊だろうか。自分が死んでいる自覚がないために、恐怖を外部の要因に転嫁している。


 翌日、彼女は部屋の四隅に白い粉を撒き始めた。

 塩だ。

 空気がいがらっぽくなり、皮膚がチリチリと焼けるような不快感が充満する。

 新参者の分際で、先住者である私を「清め」ようというのか。


「いい度胸だ」


 私は立ち上がり、彼女の背後に忍び寄った。

 彼女は床に座り込み、細かく身を縮めている。私はその耳元に顔を寄せ、腹の底から絞り出すような念を込めて囁いた。


「出て、行け」


 ビクッ、と彼女の肩が不自然に跳ね上がった。

 彼女は引きつった顔で周囲を見回し、自分の肩をさする。


「……重い……急に、肩が……」


 彼女は怯えたように布団へ潜り込んだ。

 ふん、ざまあみろ。私の霊力の方が、彼女の執着よりも勝っている証拠だ。

 その夜、彼女はうなされていた。地縛霊特有の、死の瞬間の再体験だろう。私はそれを冷ややかな目で見下ろしていた。



 それから数日が過ぎたある晴れた日の午後、事態は急変した。

 彼女は突然、狂ったように掃除を始めたのだ。

 マスクで顔を覆い、ゴム手袋をはめ、バケツに水を汲んでくる。そして、雑巾を絞り、畳の一点を執拗に擦り始めた。


 そこは、私がいつも読書のために座っている場所だった。


「何をしている」


 私は不快感を露わにした。私のテリトリーを汚すな。

 しかし、彼女の手は止まらない。

 キュッ、キュッ。

 何も汚れてなどいない綺麗な畳を、彼女は親の仇のように強く擦り続ける。

 長い髪が振り乱され、荒い息遣いが部屋に響く。その姿は、何かに取り憑かれたかのようだった。


「……消えない。なんで」


 彼女は涙声で呟いた。


「気持ち悪い……ここだけ、空気が重い……」


 淀んでいる?

 何を言っている。そこは私が最も落ち着く場所だ。私の居場所だ。

 彼女の行為は、私という存在そのものを否定し、削り取ろうとしているかのように見えた。


「やめろ!」


 私は激昂し、彼女の腕を掴んで止めようとした。

 

 ――スカッ。


 私の手は、彼女の腕をすり抜けた。

 空を掴む感触。

 バランスを崩した私は、彼女が必死に擦っているその「畳」に手をついた。


 その瞬間だった。

 畳から、強烈な冷気が私の掌を通して脳髄へ流れ込んできた。

 物理的な冷たさではない。記憶の奔流だ。


「あ……が……」


 私は床にうずくまった。

 この痛みを知っている。この感覚を、私は覚えている。

 いつだ? 昨日のことか? いや、もっと前だ。


 そうだ。あの日、私はここで本を読んでいた。

 予兆など、何もなかった。

 健康だけが取り柄で、あの日もいつもと変わらない午後を過ごしていたはずだった。

 それが唐突に、頭の中で何かが弾けるような音がして、激痛と共に世界が回転したのだ。


 助けを呼ぼうとした。けれど、身体は石のように重く、指一本動かせない。

 スマホは机の上で、あまりにも遠かった。

 薄れゆく意識の中、私はこの床に突っ伏して、誰かが来るのを待ち続けた。


 誰も来なかった。

 私はここで、何が起きたのかも理解できないまま、孤独に冷たくなっていったのだ。


 記憶が、濁流となって押し寄せた。

 そうだ。私はあの日、ここで倒れたのだ。

 誰にも助けを呼べず、孤独の中で息絶えた。

 そして、腐敗していく肉体から抜け出した私は、痛みが消えたことに安堵し、「治った」と勘違いして立ち上がった。

 そこから、私の「幽霊としての生活」が始まったのだ。


 その記憶が蘇ると同時に、私の視界を覆っていたフィルターが剥がれ落ちていく。


 好ましい薄暗さだと思っていた部屋は、ただのカビ臭い古アパートだった。

 そして、私の目の前にいる女。

 彼女の顔色は、決して青白くなどなかった。恐怖と心労でやつれてはいるが、その肌には確かな血の気が通い、生きた人間としての熱を帯びていた。


 彼女が虚空を見つめていたのは、霊だったからではない。

 見えない「何か」に怯えていただけだ。

 独り言だと思っていたのは、友人に助けを求める切実な通話だった。

 彼女の陰気な様子も、奇妙な行動も、すべては「事故物件かもしれない」という恐怖に晒された、か弱い女性の反応だったのだ。


「……う、うう……」


 女が雑巾を握りしめたまま、泣き崩れる。

 彼女は、何も汚れていない畳に向かって――いや、そこにある「私」という残留思念に向かって、必死に祈るように言葉を吐き出した。


「ごめんなさい……私、ここに来ちゃいけなかった……出て行ってほしかったんですよね……ごめんなさい……」


 彼女の涙が畳に落ちる。

 その雫が、私の透き通った手に触れた気がした。

 温かい。

 それは塩のような痛みではなく、強張った魂を解きほぐすような、優しい熱だった。


 ああ、そうか。

 化け物は、私の方だった。


 私の誇り高き霊感。それは単なる認知の歪み。

 私が「地縛霊」と決めつけ、見下していた彼女こそが、この部屋の正当な住人であり、被害者だったのだ。

 私は死してなお、自分が死んだことすら認められず、生者の生活に土足で踏み入り、怯えさせていた傲慢な悪霊だった。


 自分のみっともなさに、苦笑が漏れる。

 すべての謎が解けた今、私をこの部屋に繋ぎ止めていた因果が音を立てて砕け散っていくのを感じた。


 この部屋への執着。選ばれた人間だという自負。

 それらが急速に意味を失っていく。


 私は、自分が消えていくのを感じた。

 指先から、足元から、私が崩れ、本来あるべき場所へと還っていく。

 視界が白く霞む。


 私は目を閉じた。

 長い、長い勘違いの夜が、ようやく明ける。

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