第1話:ラジオからの風
イヤフォンの奥から、柔らかなイントロが流れてきた。
ちょうど電車が新宿駅に差しかかる頃だった。人の波に揉まれながらも、美咲はいつものようにスマホのラジオアプリを開いていた。仕事帰りの満員電車は息苦しく、唯一の逃げ場は耳元だけだった。
「この曲…」
ふとした瞬間に、過去へワープするような音がある。たとえば、この曲もそうだった。
言葉よりも先に胸が反応する。懐かしいような、切ないような。言葉にできない感情が、静かに心の水面を揺らしていく。
DJの声が、曲紹介をする。「1970年代の名曲から、今日は少しだけ懐かしい音をお届けしました」と。
いつもなら聞き流すような決まり文句が、その日はやけに心に残った。
美咲はホームに降り立ち、無意識に空を見上げた。夜風は、まだ秋の気配を残している。頭の片隅で、制服の自分がふと浮かんだ。
高校三年生のあの頃、放課後の図書室で、彼女は毎日ラジオを聴いていた。勉強をするフリをしながら、こっそりイヤフォンを耳に隠して。
「勉強なんてもういいや、音楽聴こうよ」と笑ってくれたのは、隣の席の香澄だった。
久しく思い出していなかった名前が、不意に浮かぶ。
香澄——あれ以来、一度も会っていない。
「なにしてるんだろう、今…」
呟いてから、美咲は我に返った。
仕事に追われ、やりたいことも見失い、ただ日々をこなすように生きている。それが大人になるってことだと、自分に言い聞かせていた。でも今、こんなふうに胸が疼くのは、何かが置き去りになっているからなのかもしれない。
スマホのプレイリストを開き、似たような曲を探して再生した。あの頃の空気をもう一度感じたくて。
——あの時の私たちには、未来がいくつも見えていた。
けれど今、目の前にあるのは、毎日繰り返される変わらない風景。
ラジオから流れてきた、たった数分の音楽が、胸の奥の引き出しを静かに開けていた。