【連載版開始しました】5年続いた男女の友情、辞めてもいいですか?
マデリンの初恋は実らずに終わった。
彼――アウルと出会ったのは、マデリンが十五のとき。
祖父に連れられて狩りに参加したときのことだ。祖父の狩り仲間であるルート侯爵家の当主と、その孫であるアウルと挨拶を交わした。
鳶色の短い髪を後ろでくくった彼は、マデリンよりも頭一つ分背が高い。
垂れ気味の目元がどこか気だるげだと思った。
「女が狩りなんて珍しいな」
アウルはマデリンの全身をジロジロと見たあと、少しマデリンを小馬鹿にするように笑った。
カチンと来たのを覚えている。
「失礼な男だわ。お祖父様、本当に彼がルート侯爵家の若様なのですか?」
「マデリン、そう言ってやるな。アウル君、うちの孫はまだ若いがとても狩りがうまいんだ」
祖父は目尻に皺を寄せて笑った。
マデリンは腕を組み、アウルを睨みつける。
「へえ……。じゃあ、せっかくだから勝負しよう」
「勝負?」
「ああ。どっちが多く大物を獲ってこれるか。どうだ?」
「いいわ」
私はすぐに馬に飛び乗った。
祖父に譲り受けた猟銃と、毎日一緒に走っている愛馬。これがあれば負ける気がしなかった。
アウルも小さく笑うと馬へ飛び乗る。
祖父とルート侯爵―─アウルの祖父は二人で顔を見合わせて笑ったが、反対はしなかった。
***
二人の勝負は引き分けだった。
しかも、そっくり同じ数の獲物を仕留めてきたのだ。
兎が三匹、狐が五匹。
祖父たちは私たちの獲物を見て再び顔を見合わせて笑った。
「これは引き分けだな」
「誰が見ても引き分けだ」
二人は楽しそうに頷く。
マデリンは悔しかった。彼よりも多く獲物を仕留め、勝つつもりだったのだ。
女だというだけで馬鹿にしたアウルをぎゃふんと言わせたかった。
「君が狩りが得意なのは認める」
「男のくせに私と同じ数しか獲れなかったことを恥じればいいわ」
用意していた言葉が言えなかった代わりに、マデリンは最大限の嫌味を言った。
アウルが腹を抱えて笑う。
「ああ、そうだな。本当にそうだ。面白かった。また勝負しよう」
アウルが右手を差し出す。
この手を取るのは癪に障る。しかし、ここで突っぱねたらかっこ悪いのはすぐにわかった。
祖父たちに見守られる中、マデリンは渋々彼の手を取ったのだ。
***
帰宅後、祖父はマデリンに尋ねた。
「マデリン、アウル君はどうだ? 気に入ったか?」
「お祖父様、気に入ったように見えました?」
「だが、楽しそうにしていたではないか」
「狩りが楽しかっただけですから」
「そうかそうか」
祖父は楽しそうに笑って自室へと消えて行った。
狩りは楽しい。
祖父は私に持てるだけの狩りの技術を教えてくれた。
家族の中でマデリンが唯一狩りにはまったからだ。どちらかというとインドア派の兄はでかけることを嫌う。
両親も嗜む程度で、社交でしか参加する気はないらしい。そんな中、マデリンだけが狩りを趣味として楽しんでいた。
なんなら毎日したいくらいだ。
お気に入りの猟銃を磨き、新しい猟銃を祖父とともに見に行くこともある。
「本当にむかつく!」
「お嬢様、どうされました?」
「それがね、今日一緒に狩りに行った男が本当にひどい男だったの」
「そうなのですね。お嬢様をこんなに怒らせるなんて」
「あいつ、『女なんて~』って言うのよ」
マデリンは部屋で侍女に愚痴をこぼした。
けれど、脳裏に浮かぶのは揺れる鳶色の髪。獲物を狙う彼の紫色の瞳。
彼の猟銃を構えている姿を見たとき、「負けた」と思った。
だから、必死に狩ったのだ。負けないように、全力だった。
本当のところ、引き分けでホッとしていた。負けるのだけは嫌だったのだ。
「次は勝つわ」
「そんなひどい方と次もお会いになるのですか!?」
侍女は驚きに目を丸くする。
「だって、今日引き分けだったの。もし、次に行かなかったら『逃げた』って笑われるわ。それに、相手はお祖父様のお友達の孫だから……」
マデリンは口早に言い訳を口にした。
わかっている。祖父に「次は彼抜きがいい」と言えば、彼を来なくさせることも可能だということは。しかし、勝負をしているときは楽しかった。
わくわくした。
祖父との狩りも楽しい。色んな技術を教えてくれる。
しかし、祖父はもう高齢だから、のんびりと狩りを楽しむ傾向がある。だから、ときどき退屈だと思っていたのだ。
そんな中、アウルと出会った。
「では次は勝てるといいですね」
侍女はにこにこと笑いながら私に言った。
「ええ、次は勝つわ」
次はいつだろうか。
祖父の狩りはいつも気ままだ。一ヶ月後のこともあれば三ヶ月待たされることもある。
しかし、祖父が一緒でないと両親は狩りを許してくれないため、それを待つしかなかった。
お茶会に参加して他の令嬢たちとつまらない話をするよりも、狩りをしているときのほうが楽しい。
アウルが現われて、さらに楽しくなった。
マデリンはお風呂に入って疲れを取りながら、彼の姿を思い出していた。
***
アウルとの再会は狩りから二ヶ月後に訪れた。
それは祖父と店に新しい猟銃を見に行ったときのことだ。
「こちらの猟銃でしたら、軽量で女性の方の負担も少ないかと思います」
「ふむ……。マデリン、どうだい?」
「確かに軽いわ。でも、軽すぎて手元が狂いそう」
マデリンは祖父のお下がりを使っている。
元々ある程度の重さには慣れていた。
「でしたら、こちらはいかがですか? 最新の猟銃です」
店主が新しい猟銃を出して来たとき、店の扉が開く。
店主が扉に目を向けたと同時に、マデリンと祖父も振り返った。
「おや、アウル君」
「トルバ侯爵。お久しぶりです」
アウルは祖父に頭を下げる。そして、顔を上げてマデリンを見た。
「なんだ、君もいたのか」
「君じゃないわ。マデリンよ。マデリン・トルバ」
「そうだった。そんな名前だった。だが、君だって私の名前なんて覚えていないだろう?」
「私はあなたみたいに鳥頭じゃないから忘れていないわよ。アウル・ルートさん」
「先にトルバ侯爵が呼んだから思い出しただけじゃないのか?」
アウルはからかうように笑った。
祖父も一緒になって笑っている。
「アウル君も猟銃を見に来たのかい?」
「はい。新しいのが入荷したという噂を耳にしまして」
「今、私が見せてもらっていたところよ。横入りしないで」
マデリンはアウルの前に立ち、行く手を阻む。
しかし彼はにやりと笑って言った。
「いいじゃないか。一緒に見よう」
マデリンの制止など気にせず、彼は猟銃にまっすぐ進んだ。マデリンも負けじと彼の隣に立つ。
彼は新作の猟銃を持って構える。その姿にマデリンの胸がわずかに跳ねた。
それがどういう感情なのかマデリンには理解ができなかった。新作の猟銃を奪われるという焦りからだろうか。
「いい猟銃ですね。だが、少し重いな」
「そんなことないと思うけど?」
マデリンはアウルから猟銃を奪う。そして、構えた。
肩と腕にずっしりとくる。
「女の君が持ったら馬の上でバランスを崩すぞ」
「やってみないとわからないわ」
「いや、やめたほうがいい」
アウルは力尽くでマデリンから猟銃を奪った。
「ちょっと!」
「絶対にだめだ。君が怪我をするのは誰も見たくない」
「私なら大丈夫よ!」
マデリンは頬を膨らませた。
しかし、祖父がマデリンのことを止める。
「アウル君が重いなら、マデリンには重すぎるんだろう。諦めなさい」
「本当に大丈夫なのに……」
祖父に言われてしまっては諦めるしかない。マデリンは祖父のおかげで狩りができているからだ。
「猟銃との出会いは運命だ。マデリン、焦ってはいけない。いつか、しっくりくる銃に出会ったら買ってあげよう」
「本当?」
「ああ、本当だとも」
祖父は深く頷いた。
アウルも祖父に同意したのかうんうんと何度も頷く。その姿はなんだか少しむかついた。
「トルバ侯爵、またうちの祖父と四人で狩りに行きませんか? うちの祖父が最近狩りの話ばかりしているんです」
「そうかそうか。なら誘わないといけないね。そろそろ身体にガタが来ているから、ほとんど座ってばかりだが」
祖父は目を細めて笑う。祖父の言うとおり、最近はほとんど猟銃に触れなくなった。
腰が痛い、足が痛いと言って。
半分以上マデリンのために付き合ってくれているのだろう。
両親はマデリンが狩りをすることを嫌う。「令嬢らしく」というのが口癖だ。
マデリンは胸が高鳴っていた。
久しぶりの狩りだ。家で猟銃を構えているだけでは、楽しくない。馬に乗って山を駆け回る。それが楽しいのだ。
***
それから幾度かの狩りを四人で楽しんだ。
祖父たちはほとんどお茶を飲みながら話し込み、狩るのはもっぱらマデリンとアウルだけだった。
「今日は私の勝ちよ」
「今回は譲ったんだ」
「本当は内心焦っているんでしょ?」
「そんなわけがない。最近勝ち続きだったから、君に譲るために手を抜いたんだ」
「それは失礼よ。本気になりなさい!」
マデリンとアウルが結果について言い合いをしていると、祖父たちはいつも目を細めて笑う。
「いやぁ。相変わらず二人は仲がいい」
「お祖父様、どこを見たら仲よく見えるのですか?」
口を開けば喧嘩ばかり。何を見ているのだろうか。
マデリンはアウルのことが嫌いだ。
いつも偉そうで、いつもマデリンの一歩先にいる。
「お似合いだと思うがねぇ」
アウルの祖父もにこにこと笑いながら言った。
「ぜんぜんお似合いじゃないわ!」
「ぜんぜんお似合いでもなんでもありませんよ」
マデリンとアウルが二人揃って言う。
「ほら、息ぴったりじゃないか」
祖父たちが声を上げて笑った。
マデリンはアウルを睨みつける。
(言葉を被せて来ないで! 仲よしだと思われちゃったじゃない)
と、いう気持ちを込めた。
すると、アウルは呆れたようにマデリンを見下ろす。
『君が被せて来たんだろう?』
そんな顔だ。
間違いなくそう書いてある。
しかし、二人で睨み合っていると、突然祖父が激しい咳をして倒れた。
「お祖父様っ!?」
「トルバ侯爵!?」
マデリンとアウルが慌てて駆け寄る。
三人は急いで祖父を医師の元へと連れて行ったが、祖父は結局帰らぬ人となった。
***
祖父の葬儀を終えて数日後、マデリンは両親に呼ばれた。
重苦しい空気の中、マデリンはスカートの裾を握り締める。
父がゆっくりと口を開く。
「お祖父様のことは気に病むな。医師が言うに、元々長く病気を患っていたそうだ」
「そんな話聞いたことないわ」
「私もだ。みんなに秘密にしていたようだ」
「そんな……身体がつらいのに私を狩りに連れて行ってくれていたの……?」
マデリンはこみ上げてくる感情を抑えることができなかった。
ポロポロと目から涙がこぼれる。
何度拭っても止まらない。
母はマデリンの隣に座ると、マデリンの肩を抱いた。
「お祖父様もあなたと最後まで一緒に遊べて幸せだったはずよ」
「でも、私が狩りに行きたいと言わなければ、もっと一緒にいられたかもしれないでしょう?」
祖父はマデリンにいろいろなことを教えてくれた。
マデリンは声を上げて泣いた。
マデリンが泣き止むと、父が小さく咳払いをする。まだ話は終わっていないという合図だ。
「マデリン、おまえはもうすぐ十六歳になる」
「……はい」
「そろそろ未来のことを考えなければならない」
未来のこと。
それが結婚を示すことは知っている。この国の貴族の令嬢である限り、避けては通れないことだからだ。
ふと、彼の顔が頭を過った。―─アウル・ルートの顔が。
「明日、おまえの婚約相手と会う約束をしている」
マデリンの胸は少しだけ高鳴っていた。
祖父たちは二人のことをよく「お似合いだ」と言っていた。だから、かげで話を進めていたのだろう。
「きちんと準備しなさい」
「わかったわ」
「聞き分けがいいなんて珍しいな」
「私だってトルバ家の娘よ」
「そうだったな。いいか。一番仕立てのいい上等なドレスを選びなさい。けっして乗馬服で来ようなんてしないように」
「わかってるわ」
マデリンももうすぐ十六。大人の仲間入りをするのだ。
それくらいわかっている。
乗馬服でお茶会に参加したことはない。それなのに、父はいつも大袈裟にいうのだ。
マデリンはその日の夜、眠れなかった。
何度もドレスを確認し、侍女と装飾品の相談もした。
侍女はマデリンに笑みを向ける。
「婚約者とお会いするなんてドキドキしますね」
「そんなことないわ」
「でも、こんなに念入りにドレスも選んでいるじゃありませんか」
「ただ、場違いだと笑われないようにするためよ」
「そうですね。一番素敵なお嬢様を見てもらわないといけませんから。明日は化粧もとびきり力を入れますね」
「そうしてちょうだい」
マデリンは力強く頷いた。
『乗馬服のほうが似合ってるな』と鼻で笑われないようにしなければ。
マデリンは先日会った彼の顔を思い出す。
いつも乗馬服で会っていたから、着飾ったマデリンを見たら驚くだろう。
彼が驚く姿を見たことがないから、楽しみだと思った。
***
マデリンは呆然とその場に立ち尽くした。
「こちらが婚約者のルイード・アレス様だ。ルイード様、わが娘のマデリンです」
「ああ、君が噂の。想像していたよりも美人だな」
「ほら、マデリン、挨拶しなさい!」
父が声を荒らげる。
マデリンはどうにか淑女の礼を取った。
「トルバ侯爵家の娘、マデリンです。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
ルイードはマデリンの手を取ると、指先に口づける真似をした。
(どういうこと? アウルじゃないの?)
呆然と金に揺れる髪を見つめる。
ルイード・アレス。アレス公爵家の長男だ。
アレス公爵家は王家に連なる由緒ある一族だった。
「いいか、マデリン。ルイード様がおまえのデビュタントのパートナーを務めてくれる」
父がマデリンに説明する。
マデリンはただたただ頷くことしかできなかった。
一番仕立てのいいドレスを着た。それに似合うイヤリングとネックレスを選んだ。
なぜ、彼はいないのか。
ベッドの中で何度も練習した。
『あなたなんて不本意だけど、お祖父様たちが決めたならしかたないわ』
せっかく用意した言葉は使う機会を失った。
ルイードはマデリンを隈なく観察したあと、笑みを浮かべる。
「僕の婚約者になった以上、もう野蛮な遊びは止めにしてもらう。いいね?」
「野蛮……。狩りのことですか?」
「ああ。僕は血生臭いのは嫌いなんだ」
ルイードはうねった前髪を神経質そうに直す。
(血生臭いって……)
狩りは王族だって嗜む。
社交として狩りの大会は毎年開かれている。
それを否定するとは思わなかった。
「とにかく、女はスイーツを食べてお喋りでもしていればいい。いいね?」
マデリンは震えるほど拳を握り締める。
しかし、それを振り上げる前に父がマデリンの拳を押さえた。
「ルイード様、もちろんです。私が娘をしっかりと躾けて参りますので」
父はルイードに愛想笑いを見せる。
「頼むよ。僕は野蛮な人間は嫌いなんだ。特に馬に跨がって猟銃を振り回すような人間はね」
「猟銃は振り回しません。構えるものです」
つい、マデリンは口を開いた。
ルイードの頬が引きつる。
「僕は口答えする女も嫌いだ」
「ルイード様、申し訳ございません! 次までにはきちんと躾け直しておきますので!」
父は何度も何度も頭を下げる。
無理やり父が頭をマデリンの下げさせようとしたが、マデリンは頑なに頭を下げなかった。
ただルイードを睨みつける。
(こんな男との結婚なんて、絶対にいや!)
ルイードはわずかに口角を上げた。
「次に会うまでにはもう少し従順に躾け直しておいてくれよ」
「もちろんです」
父は最後まで頭を下げ続けた。
***
屋敷に帰って早々、父は私の頬を叩いた。
パンッ。
大きな音が部屋中に響く。誰もが固唾をのんで見守る中、マデリンは父を睨み続けた。
「あんな男との婚約なんて絶対にいやです!」
「もう婚約は成立している! これを覆すことはできん!」
「私の結婚よ! 私なしで勝手に決めないで!」
「娘の結婚は親が決めるものだ! おまえに選択権などない! 誰か! 反省するまで部屋に閉じ込めておけ!」
父の言葉を受けて使用人たちがマデリンを押さえる。
「いいか! こいつの狩りの道具はすべて捨てろ! 今すぐにだ!」
「いやよっ! やめて! 全部お祖父様の形見なのよ!?」
「父上だって、孫の結婚のためならこれくらいゆるしてくれる」
父は冷たい目でマデリンを見た。
マデリンがいくら騒いでも誰も助けてはくれず、部屋から狩りの道具は乗馬服に至るまですべて持って行かれた。
外鍵がかけられ、マデリンは出ることは許されない。
扉が開くのは三度の食事のみだった。
窓から逃げることも考えたが、窓の下には二十四時間五人もの使用人を配置し、マデリンが脱走しないように監視する。
マデリンはベッドに突っ伏した。
食事を抜かれているわけではない。
折檻をされるわけでもない。
ただ、この婚約に納得するまでの謹慎。
趣味を止めることに納得するための謹慎。
(なんで? 私はあんな男と結婚しないといけないの?)
ルイードはいやな目をしていた。
直感が言っている。あの男はだめだと。いいや、違う。アウルじゃなきゃだめなのだ。
(なんでアウルじゃないの……? お祖父様たちだってお似合いだって言っていたじゃない)
今更自分の気持ちに気づいても遅い。
この屋敷には味方がいないのだ。
何日も何日もマデリンはただ部屋に閉じ込められた。ただそれだけ。けれど、心は疲弊していた。
(いっそのこと、家出をする? でも、私には何もないわ)
家を出て暮らすお金がない。
宝石類は持っていてもすぐに跡がつく。
十五歳のマデリンに稼ぐだけの知識も能力もなかった。頼る人もいない。
一瞬、アウルの顔が頭を過った。しかし、家の問題に巻き込めるわけがない。
アウルはマデリンと関係がないのだ。
婚約者でも、恋人でもない。狩りという趣味を奪われた今、唯一の繋がりも消えてしまった。
マデリンはベッドの上で膝を抱えた。
(お祖父様、私どうすればいいの?)
祖父はいつも「マデリンは好きなように生きなさい。そうできるように儂が頑張ろう」と言ってくれていた。しかし、その祖父ももういない。
マデリンは無力だった。
そして、マデリンは三十日の謹慎の末、婚約を承諾し、趣味を一つ手放したのだった。
***
社交デビューの当日。彼はマデリンの隣に立った。
アウルではない。ルイードだ。
「公爵家の婚約者らしく振る舞ってくれよ。野蛮な真似をしたらどうなるかわかるな?」
「猟銃でも振り回せばよろしいの?」
ルイードが小さく舌打ちをする。
婚約は了承した。しかし、だからと言って心まで捧げるつもりはない。
トルバ侯爵家の娘としてやらなければならないことだけをこなす。そう決めたのだ。
初恋はその存在に気づく前に終わってしまった。
だから、あのときに生まれた心は十五歳のマデリンの中に置いてくることにしたのだ。
「野蛮な女がお嫌ならもっと上品でお淑やかな女性と、婚約すればよかったではありませんか。今なら間に合いますよ」
「淑やかな女は繊細だから公爵家の女主人は務まらない」
ルイードはマデリンの頬をわしづかんだ。
「おとなしくしていれば、公爵夫人としての栄誉を与えてやる」
(そんなのいらないわ)
そんなものになんの魅力があるというのだろうか。
マデリンは小さくため息をついた。
ルイードのエスコートで会場に入ると、多くの人から挨拶を受けた。みんな、すでにマデリンのことをルイードの妻とでも言わんばかりの口ぶりだった。
「婚約発表を聞いたときは驚きました。しかし、これほど美しい女性なら納得です」
「トルバ侯爵家のお嬢様がこれほどだとは知りませんでしたわ。お茶会にはあまり参加されていないようでしたら。よろしければ、ぜひ招待させてくださいね」
マデリンはただほとんど笑わずに短い返事を繰り返した。
この男の横では笑顔すら惜しい。そう、思ったのだ。
ルイードは笑顔の仮面を張り付かせながら、紳士的に対応する。
「どうやらマデリンは初めての舞踏会で緊張しているようだ」
「しかたないわ。デビュタントはそういうものですもの」
「そうそう、私も十年前は彼女のように初々しかった」
「ルイード様だって、最初のころは緊張なさっていたでしょう?」
みんながマデリンのことを勝手に決めていく。
緊張している。
人見知り。
慣れていないだけ。
ぜんぶ違う。つまらないからだ。つまらないから、何もしない。マデリンのことを尊重しない男の隣だから笑うつもりもない。それだけ。
「疲れたので、少し失礼します」
マデリンはそれだけを言うと、人の輪から離れた。
彼らも目当てはルイードだ。マデリンがいるかどうかは重要ではない。
その証拠に誰も引き留めはしなかった。ルイードでさえも。
マデリンはすぐにバルコニーに出た。
誰もいない。冷たい風に吹かれると、馬に乗っていたときのことを思い出す。
マデリンの愛馬は、部屋に閉じ込められているあいだに売られてしまった。
もう、あの風を一緒に感じることはできないのだ。
すると、バルコニーの扉が開く。扉の向こう側から現れた人を見て、マデリンは目を見開いた。
「アウル」
思わず名前を呼ぶ。アウルは小さく笑うと、マデリンから人一人分離れて並んだ。
「婚約おめでとう」
「ありがとう」
「何も知らなかった。決まったなら教えてくれればよかったのに」
「私も知らなかったから」
マデリンは自嘲気味に笑う。
そう。紹介される直前まで、相手はアウルだと思っていた。そう言ったら、彼は驚くだろうか。
いや、それを言ったところで、何も変わらない。気まずさだけが残ることになる。
アウルへの気持ちは十五歳のマデリンの中に置いてきた。だから、それを今更見せるつもりはない。
「落ち着いたらまた狩りに行こう。祖父が思い出話をしたいと言っている」
「狩り……」
「君がいないと張り合いがなくてつまらない。それに、君が勝ち逃げなんてずるいだろう?」
いつもの彼だ。
まるで山の中に来たような気持ちになる。
「残念ね。私、狩りは止めたの」
「なぜ? 好きだろ?」
「もう飽きたのよ。血生臭いし、汚れるでしょう?」
マデリンはアウルから顔を背けた。
これ以上彼の顔を見れば、涙がこぼれ落ちそうだったからだ。
「助けて」と縋りそうだったからだ。そんな格好悪いところは見せたくない。最後までアウルの中のマデリンは強い女性でいてほしかった。
アウルはぽつりと呟いた。
「残念だな……」
「あなたもじゅうぶん遊んだでしょう?」
「そうだな。君がいないなら、社交くらいでいいかもしれない」
「なによ。私がいたから来ていたの?」
マデリンはからかうように言った。
「ああ、マデリンは仲のいい友達だからな」
「友達ねぇ……」
「たくさん競い合った仲だろ? 狩りをやめてもそれは続く。そうだろう?」
友達。
今、新しくできた二人の関係性だ。
今までの二人は狩りだけで繋がっていた。それがなくなったとき、二人の縁は完全に途絶えたと思ったのだ。
しかし、彼は新しい形で残そうとしてくれている。
マデリンは小さく笑った。
「男女の友情なんてあるわけないわ」
マデリンの口から出た言葉はとても素直ではない。
友達でもいい。彼との繋がりがほしい。そう、願っているというのに、素直ではない口は反対の言葉を口にする。
「そんなのわからない。じゃあ、賭けよう」
「賭け?」
「そう。死ぬまで私達が友情を育めたら私の勝ちだ」
「途中でだめになったら私の勝ちね。なら勝負あったようなものじゃない」
マデリンが一方的に友情を終わらせればいい。
「やってみるまでわからないだろ? やるか?」
「ええ、いいわ。勝ったら何をくれる?」
「君がほしいもの」
「そう。楽しみだわ」
「じゃあ、これからよろしく。マデリン」
アウルがマデリンに右手を差し出した。
マデリンはどう返すべきか悩んでその手をジッと見つめる。
「友達はこういうとき、手を握り返すと思うんだが」
「わかったわよ」
マデリンは言われるがままアウルの手を握った。
彼の手を握るのは初めてだ。
少しあたたかい。手から全身に温もりが伝わってくるようだった。
「困ったことがあったらいつでも相談してくれ」
「突然何?」
「いや、友達ってそういうものだろ? 私も何かあれば頼らせてもらう」
「もしかして、未来の公爵夫人との繋がりをつけたかっただけなんじゃないの?」
マデリンの口は思ってもいないことを言う。
嬉しいと素直に言えないのか。
しかし、アウルは怒りもせずに笑った。
「いいな。公爵夫人になったら頼むよ」
「その時まで友情が続いていたらね」
マデリンは素っ気ない態度で言うと、バルコニーから出た。
まだ右手に彼の感触が残っている。
あたたかい。このあたたかさをずっと求めていたのだと思う。
「こんなところにいたのか。心配したよ」
ルイードが笑顔の仮面をつけたままマデリンに言った。
(興ざめだわ)
せっかくいい気分に浸っていたのに。
すぐに彼によってだめにされた気分だ。
「さあ、ダンスを踊ろう。ファーストダンスは婚約者の特権だろう?」
そう言ってルイードはマデリンに手を差し出す。
マデリンは断りの文句を考えたが、残念ながらいいアイディアは出てこなかった。
デビュタントがダンスを一回も踊らないわけにはいかない。
マデリンはしかたなく彼の手に自分の右手を乗せた。
あたたかかった右手が瞬時に冷えていく。
(最悪)
心の中で悪態をつく以外に、マデリンに出来ることはなかった。
その数日後、アウル・ルートの婚約が発表された。
***
そして五年の時を経た今も、マデリンはルイードの婚約者をしている。
マデリンは猟銃店を訪れた。
「いらっしゃいませ」
店主はにこやかに迎えてくれる。
この五年、マデリンは一つも購入していない迷惑な客だというのに。
「今日も試しますか?」
「ええ、試すわ。端から」
店主は呆れ顔をしながらも、「かしこまりました」と答えてくれる。
だから、この店が好きだ。
マデリンは端から猟銃を構えていく。肩にずっしりと重い。
ひとりで一丁ずつ試していると、店主が尋ねた。
「お嬢様は何をお探しで?」
この五年、マデリンは愛馬を失った。
祖父から譲り受けた猟銃も売られてしまった。
足を折られ、手をもがれた。そんな状態だ。それでも唯一の抵抗として、月に一度マデリンはここに来る。
「運命を探しているの」
いつか出会えるかもしれないから。
マデリンの満たされない心を満たしてくれるそれに出会うために。
「運命に出会えたらどうするんです?」
「もちろん、買い取る。そして、次は誰にも奪わせない」
マデリンは最後の猟銃を構えて言った。マデリンはもうすぐ二十一歳になる。
もう、何もできないと嘆く年ではなくなった。
「今日も会えなかったみたい」
「そうですか。いつか、出会えますように」
「ありがとう。また、ひと月後」
マデリンは手をひらひらと振って、店を出た。
屋敷に戻ると、鬼の形相をした父がマデリンを待っている。
これも五年続いていることだ。
「おまえ、また猟銃を見に行ったそうだな!」
「はい。でも、狩りには行っていません。いいつけは守っています」
「口答えして……! 足を出しなさい!」
父が怒鳴る。
マデリンは小さく息を吐いて、ドレスのスカートを捲り上げた。
これもいつものこと。
マデリンは静かに瞼を落とす。
すぐに鋭い痛みがマデリンのふくらはぎを襲った。
パシンッ。
いやな音が耳に響く。――父が、マデリンの足に鞭打っている音だ。
猟銃店に行った帰り、彼はこうしてマデリンを鞭打つ。
五年もすると慣れるものだ。
こんなことをしても意味はない。
父は気が済むまでマデリンの足を鞭打つと、言った。
「来週、王族主催の狩猟大会が開催される。おまえは絶対に馬に乗るな」
「わかっています。今まで乗ったことなんてないじゃないですか」
すべてを奪われた日から、マデリンは一度だって馬に乗っていない。
父は何をおそれているというのだろうか。
マデリンが部屋に戻るとすぐに侍女が足の手当をはじめる。
。
「いつも準備がいいわね」
「毎月のことですから。もうすぐ公爵夫人になるというのに、旦那様はなんでこんなことをなさるのでしょうね……」
侍女はマデリンの足を手当てしながらため息をついた。
「鬱憤を晴らすためよ。きっとね」
理由なんてもうどうでもいいのだろう。
マデリンを鞭打つことで、毎月スッキリとした顔をするようなった。それが答えだ。
「本当におかわいそうに……」
「なに? 同情してくれるの?」
「それはもう。唯一の救いは我慢さえすれば公爵夫人になれることですよ」
「そうね」
マデリンは曖昧に笑った。
侍女に同情されるくらい、マデリンの現状は芳しくなかったからだ。
「ルイード様もルイード様です……」
「あの人はそういう人よ。昔からね」
「次は伯爵令嬢だそうですよ。いいのですか?」
「いいも何も、二人でベッドインしているところに殴り込みに行く?」
マデリンは肩を揺らして笑った。
(少しはすっきりするかしら?)
ルイードの浮気は今に始まったことではない。
始まりは婚約したひと月後だった。
当時、可愛いと噂だった子爵令嬢を妊娠させたのだ。結局子どもは流産してしまったのだが。
それ以降、彼は五年間マデリンに見せつけるようにいろんな女に手を出し続けている。
もちろんすべて本気ではない。もって一年。短ければ一度きり。
マデリンはルイードに興味を持ったことはない。彼が何人と浮気をしようがどうでもよかった。
どうせ、そんなことでこの婚約は白紙には戻らないのだ。
ならば怒るだけ無駄というもの。
***
狩猟大会は王都の貴族たちがこぞって参加した。
もちろんルイードもその中の一人だ。しかし、彼は狩りには参加しない。野蛮なことを嫌う彼の目的はただ一つ。
マデリンは噂の伯爵令嬢とともにテントに入っていくルイードの後ろ姿を横目で見て、小さく息を吐いた。
ひとりで佇んでいると、声をかけられたを――アウルだ。
「やあ、マデリン。元気か?」
「ごきげんようアウル」
アウルな笑顔は五年間何一つ変わらない。
「大会には出ないの? 優勝者には大きなエメラルドが与えられるらしいわよ?」
「そんなものには興味がないからな」
「あなたが興味なくても、婚約者さんが興味あるのではなくて?」
「さあ? どうだろうか」
「どうだろうかって……。そういえば、婚約者さんは? 今日は来ていないの?」
「来ているはずだ」
「大会に出ないなら、彼女の側にいてあげたほうがいいんじゃない?」
こんなところでほっつき歩いているくらいなら、側にいたほうがいいと思ったのだ。
婚約者というのはそういうものだろう。
「君の婚約者は?」
マデリンはその問に肩を竦めた。
「人の事情に口を出すのは野暮ね。それでなんの用?」
「用がないと話しかけちゃいけないか?」
「あなた、暇なの?」
「君ほどじゃない」
マデリンとアウルは顔を見合わせて笑った。
五年間、二人はこんなくだらない話しかしていない。けれど、この会話の応酬が楽しいと感じる。
「そうだ。新しい猟銃を手に入れたんだ。見に来ないか?」
「猟銃? 私、もう狩りはしないの」
「狩りはしなくても、持つくらいはいいだろう?」
「そうね」
マデリンは頷き、アウルについて行った。
アウルのテントにはいくつも猟銃が置いてある。ここまで用意して、大会に参加しないのは何か意味があるのだろうか。
マデリンは並べられた猟銃を順繰りに見ていった。
「これはコレクションの中でも気に入っている」
アウルはマデリンに一丁の猟銃を手渡した。ずっしりと重い。
しかし、装飾が施されていて高価だとわかる。
「こんな派手なの、狩りには向かないわ」
「でも、オジサンたちには人気がある」
「そう」
狩りよりも銃に興味がある人はそうなのだろう。
実用的かどうかよりも美しさを求める。
マデリンはアウルに薦められるがまま、次々に猟銃を構えた。
どれも軽すぎるか重すぎる。
それでも、楽しかった。こうやってアウルと猟銃について話すのはいつぶりだったか。
友人として、会えば普通に話す。しかし、男と女。互いに婚約者のある身だ。二人は節度を守っていた。
「これが最後だ。最近手に入れた」
もう終わりかと、がっかりしながら最後の一丁を構えた瞬間、身体中に衝撃が走った。
しっくりときたのだ。
まるで長年連れ添った夫婦のように。すべてがマデリンに合わせたかのようだった。
よくよく見れば、グリップの部分に傷がある。
この傷には見覚えがあった。まだ狩りを始めたばかりのころ、マデリンがつけてしまった傷によく似ている。
いや、マデリンがつけた傷だろう。
これは祖父から譲り受け、両親に捨てられた祖父の形見。
「アウル、これを売って」
「なんだ、気に入ったのか?」
「ええ、いくらでも出すわ」
「いや、いらない。やるよ。結婚祝いだ」
アウルは目を細めて笑う。
結婚祝い。
マデリンはその言葉に鼻で笑った。
「間違いよ」
「なぜだ? そろそろ結婚だろ?」
「いいえ。これから、婚約破棄祝いになるの」
アウルが呆然とマデリンを見つめた。
マデリンは銃に弾を込める。そして、アウルのテントを後にした。
***
テントの中から甘い声が響く。
「だめよ。みんな近くにいるのに……」
「だいじょうぶ。みんな山の中だ」
「あなたはいいの?」
「僕はここにいる可愛いウサギを狩らないと……」
マデリンはテントの前で小さく笑った。
マデリンはすべてを運命に委ねることにしていた。
浮気性の婚約者。小さなことでマデリンを鞭打つ父親。そして、ひとりで生きていく勇気のない自分自身。
どうせつまらない人生だ。
だから、運命に出会えたら。そう、決めていた。
「ルイード……」
甘い声がルイードの名を呼ぶ。
マデリンは勢いよくテントに入った。
「きゃっ!? 誰!?」
噂の伯爵令嬢が脱げかけのドレスをひっつかんで身体を隠す。
上半身裸のルイードは振り返った瞬間、目を細めた。
「どうした? マデリン。何か用かな?」
「私、ずっと考えていたのよ。このままでいいのかって」
「何が言いたい?」
「この五年、どれだけ私が目をつぶってきたと思う?」
「君には公爵夫人という栄誉を与えるんだ。これくらい我慢できなければ公爵夫人にはなれない」
「別にね、あなたがどこの女と寝てもいいの。あなたに興味がないから。でも……」
でも。
マデリンは猟銃を構えた。
「運命に出会ったから。いいえ、運命が私の元に戻ってきてくれたの」
「い、意味がわからない……! マデリン、やめろ!」
(お祖父様、私は思うの)
運命っていうのは案外すぐ近くにいるんだって。
近くにいすぎて、それがマデリンの運命だと気づかなかったのだ。
祖父とともに何度も店に猟銃を試しに行った日々。
あのとき、マデリンは自分だけの猟銃がほしかった。祖父のお下がりではなく、自分のために作られた自分だけの猟銃。
だから、初めて猟銃を構えたその日から寄り添っていてくれたこれが、マデリンの運命だと気づけなかったのだ。
しかし、五年の時を経て戻って来た。
「今日の大会は一番の大物を仕留めたら、大きなエメラルドが貰えるそうよ」
「そ、そうか……」
「私の婚約者は持って来てくれそうにないから、自分の力で手に入れようと思うの」
「ど、どういう意味だ?」
「人間一人で勝てるかしら?」
マデリンは冷静に声で呟いた。
「いやっ! やめて! 私はただ彼に誘われただけよ!」
「静かにして。久しぶりだから手元が狂うわ」
マデリンはためらいもなく引き金を引いた。
バンッ。
大きな音がテントを越え、外まで響く。
弾はルイードと令嬢のあいだを通り、大きなソファに穴を開けた。
狙いどおりの場所だ。
令嬢は泡を吹いて倒れた。豊満な胸を露わにして。
ルイードは失禁している。彼は足をガクガクと震わしながら、マデリンを見つめた。
一歩近づくと、身体がびくりと跳ねる。
「ごめんなさい。私、猟銃を振り回すほど野蛮なの。どう? 婚約破棄、したくなった?」
「な、なにをしたのか、わ、わかっているのか?」
「私が質問しているのよ。婚約破棄、するのしないの?」
「お、おまえのような野蛮な女、こちらから願い下げだ!」
「そう、よかった。すぐに手続きをお願いね」
ルイードが何度も頷く。
すると、銃声を聞きつけた人々がテントに集まって来た。
「何があった!?」
大勢の声が聞こえる。
マデリンは大切な猟銃を抱えて、座り込んだ。
何人もの人がテントの中に入ってくる。そして、全員がその光景を見て立ち尽くした。
豊満な胸をあられもなく出したまま倒れている伯爵令嬢と、その側にいる半裸のルイード。
そして、ルイードの婚約者であるマデリンは猟銃を抱えたまま涙を流す。
誰かが声を駆ける前にマデリンが口を開いた。
「ルイードに大会に参加したいと言おうと思ったら、二人が……。そしたら、驚いてしまって……」
マデリンはポロポロと涙をこぼし、声を震わせた。
その一言で誰もが状況を理解しただろう。
浮気現場を見たマデリンが驚いて起こした事故だと。
その後は大会どころではなくなった。
幸い怪我人がいなかったため、事故として処理されたのだ。
その後目を覚ました伯爵令嬢は、多くの者にあられもない姿を見られたことに気づき泣き叫んだ。
それを宥めるほうが大変だっただろう。
失禁していたこともあり、ルイードは笑いものだ。当分、新しい彼女はできないだろう。
ルイードはその場でマデリンの父に婚約破棄の旨を伝えた。そして、責任をとって伯爵令嬢と婚姻すると。
最後のパーティー会場で、マデリンは多くの同情の言葉をもらった。
「元気を出して」
「あんなところ見せられたら、私だって引き金を引いてしまうわ」
「ありがとうございます。ルイード様があんな人だったなんて……」
マデリンは終始、かわいそうな令嬢を演じ続けた。
五年間、彼の浮気に耐え続けた。健気な婚約者として。
ある程度、被害者という立場を印象づけられてから、マデリンは会場から離れた。
小さく息をつく。
すると、声をかけられた。――アウルだ。こういうときにマデリンに声をかけるのはアウルしかいないのだが。
「まさか、本当に婚約破棄になるとはな」
アウルが笑う。笑ってすぐ、「笑うのは失礼か」と口を閉じた。
「祝ってよ。最悪な婚約者と決別できたんだから。あなただって聞いたことがあるでしょう? ルイードの噂くらい」
「まあ、それなりに。おめでとう。自由に乾杯しよう」
マデリンとアウルはワイングラスを鳴らす。
「あなたが私の運命を連れてきてくれたから、立ち向かうことができたわ。ありがとう」
「どういう意味だ?」
「あの猟銃」
「ああ、元は君のだろ? 売られているのを見つけて買い取った。それだけだ」
「結婚するまでに、私の身体にしっくりくる猟銃に出会えたら、このつまらない人生を変えるって決めていたの」
マデリンは小さく笑った。
結婚まであと少し。それまでに見つからなければ、諦めて公爵夫人として生きるつもりだった。
そういう運命なのだと。
「よかったと言うべきか?」
「よかったって言ってよ。友達でしょう?」
「そうだな。おめでとう」
「ありがとう。あなたは婚約者さんを大切にして、ちゃんと幸せになりなさいよ」
アウルの婚約もマデリンと同じ時期に決まった。
しかし、まだ結婚の時期は決まっていない。もうアウルも二十三歳。相手はマデリンよりも一つ年上だ。
だから、そろそろ結婚してもおかしくはない。
「あー……。多分、結婚はないよ」
「え?」
「今ごろ、遠くに行ってるんじゃないかな」
アウルは困ったように頭をかいた。
鳶色の髪が揺れる。
「どういうこと?」
「彼女とは約束していたんだ。当分のあいだ婚約者をしてくれていたら好きな男との駆け落ちを手伝うって」
「駆け落ちって……。じゃあ、婚約者さんは……」
「無事、抜け出せたんじゃないか。それも君が騒動を起こしてくれたおかげだな」
アウルはニカッと笑った。数歩歩き出す。
彼の背中はどこか誇らしげだった。
ここはパーティー会場よりも少し高台にある。みんなの姿がよく見えた。
彼はそれよりも遠くを見つめる。婚約者が逃げた先を見ているのだろうか。
「あなたって……」
(とんだお人よしね)
五年間。同年代の令嬢たちは婚約が決まっている。すでに結婚した令嬢も多くいた。
今から結婚相手を探すとなると、うんと年下の令嬢の成長を待つか、訳ありを探すしかない。
(それに関しては私も同じね)
マデリンはアウルの背中を見ながら肩を揺らした。
「ねえ、アウル。五年続いた友情、辞めてもいいかしら?」
マデリンはアウルの背中に問う。
五年前。まだ十五歳だった自分自身の中に置いてきた恋心。それをもう一度、拾ってもいいだろうか。
「どうした?」
アウルは首を傾げた。
マデリンの声など聞こえていなかったのだろう。
タイミングの悪い男だ。マデリンは小さく笑った。
「ねえ、私たち結婚しない?」
何の気なしに言った言葉に、アウルが驚きに目を見開く。
「このままじゃ私はお父様に怒られて、誰と結婚させられるかわかったもんじゃないわ。でも、あなたなら、次期侯爵だし、公爵には劣るけどお父様も文句は言わないと思うの。婚約者も逃げちゃったみたいだしちょうどいいわ」
「……そういうことか」
「友達なら助けてよ」
「そんな簡単に決めていいのか? 結婚だぞ?」
「狩りは月に一度がいいわ」
マデリンは言った。
もう、遠慮する必要はない。
父がどう言おうと、マデリンは婚約がだめになった訳ありだ。
アウルが結婚するとなれば、喜んで受け入れるだろう。父はそういう男だ。
「それとも、結婚したくないわけでもあるの?」
「いや……」
アウルは言葉を濁す。
婚約者に五年も付き合ってもらったくらいだ。お人よしなのではなく、何か事情があるのかもしれない。
「あ、もしかして、結婚できない相手を好きになっちゃったとか?」
「ずけずけ聞くな」
アウルは肩を落とした。
図星だろうか。
「だったら、その人がフリーになったら離婚してあげる。それならどう?」
「あのな……結婚とか離婚はそんな簡単にするもんじゃない」
「私だって簡単には決めていないわよ。あなただからいいと思ったの」
彼は虚を衝かれたような顔をした。
マデリンはにんまりと笑う。
「結婚しても男女の友情が続くのか、賭けをしましょう?」
マデリンはもう少しだけ男女の友情とやらを続けることにした。
そのほうが、彼の隣にいられるから。
アウルが小さくため息をつく。
「どう?」
「君がそう望むなら。私と結婚しよう。マデリン」
彼は跪いてマデリンに手を差し出す。
憧れのシチュエーションだ。
「喜んで」
マデリンは目を細め笑った。
FIN
最後までお読みいただきありがとうございました^^
最後に★で応援していただけると作者の活力になります。
感想もお待ちしております。
【追記6/23】
ありがたいことに総合日間ランキング1位になりました( ॑˘ ॑* )!!
ブクマや★、感想などなど嬉しいです。
長編化してガッツリ書くか、アウル視点の短編を書くかで揺れ動いております。
気になる二人のこの先や、父親の話を何かしらの形でお届けできればと思っております。
【6/24追記】
たくさんの感想ありがとうございます。
本日よりピッコマ様でたちばな立花が原作小説を書いている『穴うめ結婚〜期限つき公爵夫人はくじけない〜』のSMARTOON(タテヨミ漫画)の連載が開始しました!
下にリンクを貼ったので、ぜひ読みに来てください。
原作小説もピッコマ様で読めます( ॑˘ ॑* )
【6/28追記】
週間総合ランキング1位になりました。たくさんの方に読んでいただけて光栄です。
今日から連載版開始しました。
リンクを下に貼っておきます。
よろしくお願いします。