ウチの魔法使いサマは気が弱い!
「僕には君がいないともう生きていけないんだ。だから僕の側にいてよ。お願いだから」
またいつものが始まった。このやりとりをもう何回繰り返したことだろうか。
「だから何で私が離れていく前提なのよ。私はずっと一緒にいるって言っているはずよ」
「世の中には僕なんかよりもっと良い男がいるんだよ。それに君は世間知らずなところがあるから。こんな僕のことを好きになるなんて……」
彼は顔を覆うようにして嘆いている。これに内心うんざりしていることもあるが彼に言ったら泣いてしまうので絶対に言えない。
まずそもそもとしてルセリアには彼のそばを離れる選択肢など存在していないというのにどうしてこの男はわかってくれないのだろうか。
「私のどこが箱入り娘だって言うのよ。私は誰よりも世の中に対して知識を持っていると思うわ」
ルセリアは彼の散々な言いようにツンと唇を尖らす。もう少し彼に卑屈過ぎることは直してもらいたいが、きっと彼はこのまま変わらないままなのだろう。
それも含めて彼なのだから仕方がない。ルセリアにはもう彼のいない日々など想像もできないのだから。
■
王都のとある街の一角の小さな間取りにある骨董屋。
あまり手入れされていない店内では僅かに窓から入る光が舞い散るホコリに当たって硝子のようにきらきらと光り、年季の入った多種多様な品々は不思議な魅力を放っていた。
木製の気高い鷲の像に使い道のわからない奇妙な形をした壺。
雑多に置かれた品々の中には価値のないガラクタも一攫千金を狙える貴重な品も眠っているのかもしれない。
そんな中の一つ奇妙な紋様の描かれた赤い石に穴を開けて紐に通した簡素な首飾りがあった。
いつ頃からあるかわからないその首飾りを人々はその暗く濁った赤をまるで血のようだ不気味がった。
そして呪いの石と呼ばれるようになっていた。
曰く付きの石として骨董屋の店主は大変その石を忌んでいたが、なにせそれは年代物。
先代の古の物には魂の宿るという文句を信じていた彼は処分することもできずその石は部屋の忘れ去られた奥の隅に小さく鎮座していた。
普通ならば眉唾な話を信じる愚かな男となるところだが彼の言うことはあながち間違っていない。
それはただの首飾りではなかった。
それも当然だ。
その首飾りには女が閉じ込められていたのだから。
「今日はつまらない日だわ。いつも訪れる物腰が柔らかで素敵な老紳士も、偉そうな態度で怒るくせしてガラクタを掴まされていることにも気づけない可哀想なおじさんも、店主にちょっかいを出していつも怒られる子も誰も訪れやしないんだから」
今日も一人ぼっちな少女は頬を膨らませてブラブラと足を揺らす。
首飾りの中は真っ黒な壁で殺風景に彼女の身一つ、娯楽道具も存在しない閉鎖空間。
ただ少女はそのことを意に介することもなく今日のくだらない愚痴を呟く。
なぜなら彼女はこの何も無い部屋で悠久とも思える長い期間を過ごしてきたから感覚が麻痺しているのだった。
少女の名前はルセリア・ナーヴェ。
かつてルセリアは貴族令嬢として温かな寝床や豪勢な食事を享受していた。だがある日そんな日常が崩れる大きな転機が訪れた。それは親に勧められ付き合いとして参加したパーティーでのことだった。人混みで酔ってしまったルセリアは庭園を探索していた。その時何やら揉めている令嬢達の声に好奇心を出してしまったのが間違いだった。その結果、知りもしない女達の痴情のもつれに巻き込まれてこの石の中の魔法による空間に閉じ込められてしまったのだ。
ルセリアが閉じ込められている長い年月の間で歴史は激動を生み出した。
家臣として仕えていた王族たちも時代とともに敗戦によってとうに首を落とされ、そして新たな支配者に移り変わっても治世は変わらず争いは何度も繰り返された。
どうしてそんなことを知っているかというと何も無い首飾りの中でも外の声だけは聞くことができたのだ。
暇で暇で仕方なかったルセリアは周りの声にひたすら耳を傾けた。
人目のない場所で口から漏らす秘密の話や身内だけだから言える国家への誹謗や訴え、男女間のくだらないゴシップ。
多分間違った相手を閉じ込めてしまった女は自身より高位で合った貴族であったルセリアを攻撃した罪に問われることを恐れた。そして首飾りを誰にも見つからないところに置こうとした。そんな経緯でこの首飾りは市井に流れ今は骨董店にまでたどり着いた。
その間、首飾りの中から世間というものを学んだ少女は気づいた。
以前まで貴族として暮らしてきた自身が如何に考え足らずで物知らずであったということに。
普通ならこの状況に絶望してしまうところなのだが彼女は違った。
この状況を心から楽しんだ。貴族の子女として生きていた世界はなんて狭く世の中はもっと広かったということを知ってしまったからだ。
貴族としての人生なんて送りたくない。
この空間にいればお腹もすかないし喉も渇かない、身体に疲れはたまらないし眠気も来ない。
令嬢として腰をコルセットで絞って苦しい社交に出る必要もない。
ルセリアはなんて素晴らしいのだろうと思っていた。
しかし彼女はいつまで立っても出られないこの石を次第にわずわらしく感じるようになった。
永遠に外に出る事も出来ず死ぬこともできないなんて並大抵の精神ではやっていけない。
そんな狂ってもおかしくない状態で彼女の唯一の心の支えは外から聞こえる楽しそうな声だった。
世界観が美しいと話題の演劇に、美味しいと噂のスイーツ店、とても綺麗なひまわりが一面に広がる花畑。
想像でしか堪能することができないそれらは彼女の心を鷲掴んだ。話でしか聞くことのできないなんてなんてつまらないのだろうと彼女は思った。
彼女はその空間で年を取ることはなかった。そして彼女はいつまでも年若い少女のままであった。
このまま楽しい世界をずっと体験できないなんて勿体ない。
もう貴族としての身分はないのだし、外に出てもこれだけの知識があれば平民としてやっていける自負がルセリアにはあった。
――ここから出たい
彼女はそう思ったがただルセリアはこの中から出ることはできなかった。
なぜなら誰も彼女のことに気づかなかったからだ。
ただルセリアは諦めることがなかった。
今もその時を待っている。
ここから出してくれる人を。
そして今日、少年が数枚の紙幣を持って骨董屋の目の前に立った。
■
カランコロンと鳴ったベルの音を聞いて店主は最近手に入った掘り出し物のオルゴールを拭いていた止め顔を上げた。
「いらっしゃい」
愛想よく声をかけた店主は彼を見た瞬間眉をひそめた。
そこには土埃の被ったボロボロのローブで目深にフードを被って顔を隠した少年が立っていたからだ。
「はぁ、君そんな格好で入ってもらっちゃ困るよ。君に売れるものなんてないからね」
物乞いか盗人か、そう結論付けた店主は追い払うように手を払った。
少年は俯いたまま黙りこくっているので薄気味悪い子どもだと彼は思った。
「あら、今日は初めてのお客さんかしら」
一方そのころルセリアは新たな客に胸を踊らしていた。
ベルの音、それは面白い出来事との出会いの瞬間。
どんな人が来たのだろう。
そんな格好ってどんな服装なのかしら。見えないルセリアにはわからない。想像でしか判断することができないのだ。奇抜な格好だったのか、それとも浮浪人のような見てくれなのかもしれない。
言葉だけじゃすべての状況がわかるわけではない、これはここに閉じ込められてルセリアが初めて知ったことだった。言葉というのは様々な意味を含んでいて一端を切り取ってもその概要が理解できるわけじゃないのだ。
「ちょっとお客さん困るよ」
「あら?」
店主の彼を静止するような声が聞こえたと思ったら彼の足音が真っ直ぐ私の方に近づいてくる事に気がついた。部屋の隅に置かれたルシアナの首飾りはなかなか人の目に着くところにおいていないはずなのにだ。変わった客もいたものだなとルセリアはそう結論づけた。
「これ」
そして店主がぶっきらぼうに差し出した彼の手元を見やると彼が手に取ったのは色の濁った赤い石の首飾り。
不吉な謂れのあるあの石だった。
初めて訪れた客がその石の在処を知っているかのように迷いなく進んでその首飾りを選びとったことを店主ひどく不気味に思った。
「そんな不吉なものが欲しいのか?そんなのならタダであげるからだからほらもう出ていきなさい」
彼は若干顔を顰めてその石を深く握りしめたその少年を急かしながら肩を押して店内から追い出した。
バタンと扉が閉まる音を聞いてようやくルセリアは自身が少年に買われたことに気づいた。
「誰かに買われるのも久しぶりね」
ルセリアは腕をぐっと伸ばした。そして先程聞いた少年らしい少し高めの声を思い出してこれからどんなことが待ち受けているのだろうかと思案する。
街のざわざわとした喧騒のなかに威勢良く物を売る声や客を呼び込む女性の声が聞こえてくる。
そして石畳を歩く多種多様の靴音が鳴っていた。
彼女にとっては久しぶりの外だ。
賑わいのある街の様子がルセリアは大好きだった。
「どこに行くのかしら」
その騒がしい雑踏を抜けた後、ぬかるんだ道を通っているのだろうかぬちゃぬちゃとたっぷり水を含んだ土の音が聞こえた。
しばらくして彼の靴音と衣擦れの音が止まった。
家についたのだろうか彼はガチャリと扉を開き彼はズンズンと部屋の中に入る。
一人暮らしなのだろうか。他に生活音が聞こえてくることはなかった。
「ねぇ」
どんな家でどんな場所なのだろうか。
整備されてない道と到着までに掛かった時間を鑑みるに都心から離れたところであることは間違いないだろう。
「ちょっと」
この持ち主はなぜこんな石を買おうとしたのだろうか。不吉な石など持っていても意味ないだろうに。
オカルト好きなただの収集家かそれとも誰かを呪うために使おうとしているのか。
どちらにしてもこの首飾りにそんな効果はない。
姿の見えない人間がいつも側にいて話を聞いているという点では一番の恐怖なのかもしれないが。
「ねぇ、聞こえてる……よね?」
「わぁっ」
急にまるで耳元で話しかけられたように近くで問いかける声が聞こえてルセリアは思わず飛び上がった。
「び、びっくりした」
「それはこちらのセリフ……って貴方、私の声が聞こえるの?」
ルセリアは今までそんな人間に会ったことがなかった。
「えっと……多分そうだと思う……君の声がボクの幻聴でない限り」
彼は非常に自信なさげにおどおどとした様子であった。確かにこんな摩訶不思議なものを受け入れることができるほうが難しいだろう。
私の声を聞ける人がやっと現れた。初めての出来事に興奮したルセリアにはちょっとしたイタズラ心が芽生える。
「私は貴方の妄想なんかじゃないわ。私は長らく石の中にいるのよ。それ証拠に貴方が知らないであろう血で血を洗うような恐ろしい政変や権力者によって消された歴史の裏側だって話せるんだから」
「そ、その、それは聞かなかったことにしていいかな……」
少し脅かすようにわざとおどろおどろしい声で話すと怖気づいた彼は恐る恐る伺ってくる。
「駄目よ。そうしないと貴方は信じてくれないんでしょう?」
「いや、信じる。信じるからっ。もっと穏便にいこうよ。ね?」
彼のワタワタと慌てる様子が容易に想像できた。きっと情けない顔をしているに違いない。
私の声を聞いてくれたのが純朴そうな青年でよかった。
唇は思わず角度を上がる。
「ふふ、冗談、冗談よ。人と話すのなんて久しぶりだから、つい。貴方の反応があまりにも素直で面白くて」
「からかわないでよ」
「悪かったわよ。私だって寂しかったの。反応をもらえたことなんて一度もなかったから」
ルセリアは慌てて弁明するように口を開く。
会話なんていつぶりだろうか。彼女はまだ人との適切な距離感がわからなかった。
だからどこまで相手に踏み込んでいっていいのか掴めなかった。
こんなことで長年待ち望んできた唯一の希望とも言える人の機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだ。
「なんかごめん」
「いいの。これからも返事をしてくれるんでしょ?貴方がこの石の所有者になったからにはね」
寂しげな色を声に乗せると彼はすぐに謝った。
この子はとてもいい子なのだろう。もう二度と現れるかもわからない対話のできる人。
そしてうまくいけばこの中から出られるヒントがあるかも知れない。
彼女としてはこのチャンスを逃す気はなかった。
「君って石に宿った妖精か何かなの?」
彼はおとぎ話に出てくるような精霊か何かの類だと思っているらしい。そう勘違いしても仕方がないだろう。だって今の私の状況は人というよりも人外のような生活に近いからだ。
「違うわ。わたしはれっきとした人間」
特に隠す理由もないのでルセリアはすぐ真実を告げた。それに事情を教えたらここから出る手助けをしてくれるかも知れないという打算があった。
「えっ、じゃあなんで……」
「よく覚えていないけれど確か何かの争いに巻き込まれてこの石の中に閉じ込められる魔法をかけられたの。それっきり真っ暗な空間に閉じ込められたままよ」
「それじゃあ外の様子は……」
「なんにも見えないわ。私には声しか届かないの」
「お腹空かないの?」
当然の疑問だろう。人間は飲食をしなければ生きてはいけないものだ。ただ自然に反しているルセリアが異常なのだ。
「全くよ。この空間は不思議なことが多くて私も知らないの」
不思議なことといえば彼もそうだ。なぜ彼だけが私の声に気づけたのか。
それに前提として彼はどうして私の存在を知っていたのかだ。
「そういえばどうやって私の存在を気付けたの?あの店に訪れるのは初めてだったはずよね」
「僕が前にあの骨董屋のそばを通ったとき君の声がしたんだ。窓から少し中を覗いてみても女の子の声の正体がわからなくてそれから毎日あそこに通っていたんだ。そして今日やっと勇気を出して店に入ってみたんだ」
他の人間には声なんて届かなかったから好き放題に話していた気がする。
今までの独り言を聞かれていたことを知って頬は赤く羞恥に染まった。
人に聞かれているとは考えてもいなかったら随分恥ずかしい事を口に出していたかも知れない。
「立ち聞きなんて趣味が悪いわよ」
「でも僕は君の言葉を聞けてよかったよ。君の言葉選びというか語彙のレパートリーが面白かったから」
思わず咎めるような口調で話しても彼には全く響いていないようだ。君の言葉が聞けてよかっただなんて歯の浮くようなセリフを実際に言う人がいるとは思わなかった。
「それはどうもありがとう。でも全く嬉しくないわ」
「ごめん、どこがダメだったかな?改善するよ」
照れ隠しを真に受けたのか彼はしょんぼりとした様子になる。想していた反応と違ってルセリアは焦った。
こんな素直な反応をされてはこちらのほうが困ってしまう。
「違う、違うわ。軽い冗談よ。気にしないで」
慣れていない会話というのもあるが、彼との会話はペースを乱されてばかりだ。
気まずい空気を払拭するためになにかいい話題はないかと急いで頭を回転させると出会ってから一度も彼の名前を尋ねていないことに気がついた。
「そういえば今更だけど私はルセリア。貴方の名前を聞いてもいいかしら」
■
その少年の名前はノアというらしい。
年は15才で家族はおらず幼い頃に両親をなくして天涯孤独の身であるそうだ。
そして話を聞くには普段は王立魔術学校というものに通っているそうだ。
魔力を持つ平民は珍しいので殆どの生徒が貴族である。
身分差があるというのに入学を許可されたということは相当な魔力を持っているはず。
このことから導き出せることは魔法に造詣のある人のみが石の中にいるルセリアの声が聞き取れるのかも知れない。
魔術学校には蔵書がたくさんある図書館が存在するということなので彼の魔法の力を見込んで彼女はノアにここから出るための方法を探す協力を頼んだ。
それを軽く了承してくれた彼に私が学校について行きたいと話すとノアは最初は気が進まないようだったがら懇願すると渋々頷いてくれた。何故ルセリアが学校について行くことを躊躇ったのだろう?
流石にプライベートを侵害されるのは嫌だよねと己を納得させていたルセリアはその本当の理由を数日後に知ることになる。
そうしてノアが首飾りを制服の下に隠してルセリアは学校の敷地内へ初めて入る。すると周りが囁くように誰かの陰口を叩いていることに気づいた。聞き取れたことはそれがノアに対する悪口であるということであった。平民という身分に難癖をつける声や容姿に関する罵声などそれはひどいものだった。
身分や姿は誰にも選べやしないのにそんなのを貶すなんて酷すぎる。
「何なのあの人達。なんて感じの悪いのかしら」
ルセリアは大変それが不満であったがノアは宥めるような言葉を発するだけで彼の心には全く響いていないようだった。ルセリアの時代でもそうだが貴族というのは傲慢で性根は誰よりも醜悪な集まりだ。
平民の間でも差別は存在しているがここまで陰湿なものではない。貴族としての理想である高貴なる者の義務を体現できている人なんて存在しているのだろうかと頭をよぎる。
そしてこれはこの石に刻まれた文様に関する情報を見つけるため図書館に向かったときも続いた。
「封印に関する本を探している?そんな知識をつけて何をするつもりなの。この卑しい平民の分際で何かを企んでるなら承知しないからね」
ノアが司書の女性に封印に関する本を探してると伝えただけだというのになんてひどい暴言を吐くんだろうか。結局その女性は場所については全く教えてくれずノアは一人で本棚から数冊関連性のありそうな物を地道に探してくれた。
それから日が暮れるまで本を探しても収穫がなかったのでまた後日調べることにして一旦家に帰ることになった。
まぁ長い年月掛かっても出られなかったこの石の情報がそう簡単に見つかるはずもないだろう。
それに今彼女の頭を占めているのはそれではなかった。
「もう許せないわ。私が直々にビンタというものをお見舞いしてやりたいくらいよ」
「まぁまぁ、落ち着いて」
そう今まで会った人たちの失礼な態度に彼女はとても怒っていたのだ。
「彼女、ここから出たら覚えておきなさいよ」
いくらなんでもあの対応は司書の職務としてありえない。差別的発言をするような者が学校に在中しているなんては恥ずかしくはないのだろうか。
「でも僕の見た目は人から嫌われても仕方ないものだから」
控えめに彼女をかばうノアはひたすらに優しい。もっと自分の権利を主張しても良いはずなのに。
このノアの自信なさげな様子は今まで虐げられてきた弊害なのかも知れない。
ここで彼に苛立ちをぶつけるのはお門違いなことはわかっているが彼にどこか怒りのような感情が湧いてしまうのは私の心が狭いからなのだろうか。
「わたしは人を見た目で決めつけるなんて嫌いよ。そんな風に弱気になって。ノアはとても魅力的な人よ。だって貴方は私の唯一の友達なのよ。私の見る目がないって言いたいのかしら」
「嬉しいなぁ、そんな事言われたの初めてだ。」
照れ隠しのように付け加えた素直じゃない言葉もノアは全肯定してしまう。
彼の声音はとても幸せでふわふわとしていて温かい。そんな優しい彼の感情を悟ったルセリアは今までの激情が急速にしぼんでいくのを感じた。
「……わかったわよ。ただ大切な人を傷つける言葉が許せなかっただけ。いいわ。貴方がこの魔法を解いてくれたら私が貴方を守ってあげる。ノアはが自分自身のことを大切にできないのなら私がやるわ」
「……うん……そうだね」
ルセリアは彼が返事をしたのに満足してそこで会話を打ち切る。
だがその言葉を聞いて彼のトーンが少し下がったことにルセリアはそのときは気がついていなかった。
それからノアとルセリアは毎日のように図書館を訪れ魔法を解く方法を探し続けた。
魔術学校の課題と同時並行で進めるのは非常に大変な作業であるというのに彼は文句一つ言わず封印について調べてくれていた。あまりにも無理をさせすぎていると思って心配すると彼は笑って大丈夫だと言った。
彼を利用していることの罪悪感と申し訳無さがルセリアには合ったがそれは彼の献身に対してあまりにも失礼だったのでルセリアはここから出たらノアに一生分の恩返しをすることを決意した。
そんな状況下で魔術学校の成績を常にトップを維持しているノアはやはり優秀な魔法使いに違いない。
その間ノアに対する誹謗や中傷は止むことがなかったが魔術の実力差は誰しも感じていたので実力行使に出てくるものはいなかった。魔術学校が建前上学校内での身分の平等を謳っていたおかげでもあるかもしれない。
ただノアはルセリアがいてくれればそれでいいと全く意に介していないようだった。
「ノアはちょっとぐらいは気にしなさいよ」
「僕にはルセリアがいるだろう?」
この頃はなるとお互いに遠慮はなくなり、何でも気の許せる唯一無二の存在になっていった。
「それはそうだけど……」
ただ彼の自己肯定感の低さは変わらないようだった。
そうした日々を過ごして3年、ノアが17才になった頃だった。やっと手がかりとなる書籍を見つけることができたのだ。
「この石の模様には昔に使われていた魔法陣が書かれているらしい。二つ解除しないといけないのがあって、時を止める魔法と対象を閉じ込める魔法がこの石に込められているらしい」
「っそれで解く方法はなにか書かれてるの?」
ルセリアは出られることへの希望がやっと見えてきたことに胸を躍らせていた。以前の構想にあったこの石の中から出れたらしてみたいこと。
彼女の中ではノアと出会ったことでその夢は大きく変わっていた。
まずノアの顔を見てみたかった。
どんなに醜いと言われる容姿だとしても、好きな人の顔を知りたいと思うのは当たり前のことだろう。
それに彼の顔なら愛せる自信がルセリアにはあった。
そう、ルセリアはノアに恋をしていたのだ。
親身になって助けてくれる彼の優しさはルセリアの長年止まっていた心を動かしたのだ。
思いを打ち明けてしまおうとも思ったが彼だって顔も知らない女からの告白なんて困ってしまうに違いない。
そして心の奥底にある――――もし私が出られなかったらどうしようという思いがその言葉を出すのを踏みとどまらせていた。
「ここに魔術展開の構成が書かれているからそれを解ければうまくいく……と思う」
「すごいわ。ノア、こんなに早く方法が見つかるなんて。」
「うん……。そうだね……」
称賛の言葉をかけると歯切れの悪い返事が聞こえた。もう少し喜んでくれてもいいはずなのに彼の様子は何処か腑に落ちない。問題でもあるのかと聞いても大丈夫だとしか彼は言わなかった。違和感はあるものの重大な問題ならすぐに伝えてくれるはずだと特に問い詰めることはしなかった。
ただその予想に反してその日以来ノアの様子がおかしくなっていった。
ため息を付く量が増えたりぼーっとする時間が増えたりなど明らかにいつもと違っていた。
体調が悪いのではないかと心配になって聞いてみても大丈夫と繰り返すばかり。
とうとう限界が来たルセリアは思いっきってノアに直接言うことにした。
「最近本当に大丈夫?ノア、最近貴方どこか変よ」
「い、いや気にしないで」
慌てたように取り繕おうとするノアの様子がやはりなにかがあったことを物語っていた。
いつも一緒に過ごしてきたルセリアが彼の違和感を見抜けないはずがない。
「だからそういうところよ。挙動不審というか。貴方何か私に隠しているでしょう。もしかして魔法を解くのができないくらい複雑だったとか……?」
「そういうわけじゃないんだ」
恐る恐る訪ねてみても否定するばかりで要領を得ない。
「なら理由を教えて。私のためにノアがたくさんのことを抱えてるのはわかってる。私がお願いしている立場なのに貴方に頼りっきりだから迷惑をかけていることも……」
封印を解く作業はノアの良心の上に成り立っているもので当たり前に享受できて良いものではないことはわかっていた。
「違う。そうじゃないんだ。僕はそんな大した人間じゃない。」
彼が大したことがないというのなら世界に立派な人なんていない。彼自身恵まれた環境にいるわけではないのに擦れることもなくこんなにも親切な人間に会ったことがない。
「じゃあ何が理由なの?」
静かに問いかけると暫く沈黙が流れた。そんなにも深刻なことが起こってしまったのかとルセリアは思わず手を強く握りしめ身構える。
「……ただ僕が君を手放してしまうことに耐えられないと思ってしまったんだ」
罪悪感を含んだような暗い声でノアは口に出す。
「……ん?」
なにか思っていたのと違うような気がする。突然の展開に頭が追いつかず、ルセリアの思考は停止した。手放すことが嫌?それってどういう意味かしら。予想もしていなかった答えに頭の中で思考がぐるぐると回る。
「え、えっと、ちょっと待って、それはどういう意味かしら……」
「こんな状況で言うなんてひどいだろう?僕は君のことが好きなんだ。曲がったことが嫌いな真っ直ぐな君に僕は君に救われたんだ」
「待って、私を一人置いていかないでちゃんと説明しなさい」
混乱している脳に新たな情報を叩きつけないでほしい。ノアが私のことを好きだと思っているのは初耳だと言うのに勝手にフラれた体で話すのを一旦やめてほしい。
彼の様子を思い返してみるが特にきっかけもなかったし今まで態度も一貫して変わらなかった。
「気づいたときには好きになってたんだ」
ルセリアの思考を読んだかのようにそう彼は言った。
そうして自嘲するようにつらつらとルセリアへの思いを語り始める声を聞いてようやく我に返る。私も好きだとはっきりと伝えなければ。そうしないと自己肯定感の低い彼は一生この思いに気づかないままだろう。
ここで勇気を出さなければ永遠にこじれてしまうかもしれない。
「あの、実は私もノアのことが好きなの」
息を呑む音がはっきり聞こえた。彼に悪役はやっぱり似合わない。いつまでも私を閉じ込めていたってどうせ彼の良心はいつか耐えきれなくなるだろう。
「……う、嘘だ。外に出るために嘘をつく必要はないんだよ」
よっぽど驚いたのだろうかノアの声がかすかに震えていた。
愛されることに慣れていないのだろう。愛されて来た経験がない彼には愛情の扱い方がわからなくて持て余してしまったのだ。こんなことになるんだったら私から愛を伝えればよかった。
「私の好きなところに真っ直ぐで曲がったことが嫌いって言ってたの嘘つき扱いするの?」
意地悪な質問をすると彼は面白いくらいに動揺した。
「ええと……じゃあ君が優しいから僕の想いに応えてくれただけじゃ……」
「それってとても不誠実で私の嫌う曲がったことよ」
「そ、それに仮に君が僕のことを好きだったとしても僕の姿を実際に見てないから言えることであって……」
間髪を入れずに言い返すとノアは数秒押し黙って後次なる言い訳を並べ始めるのでルセリアは思わず呆れる。
「それは貴方にも言えることでしょう?ノアは私の顔を一度だった見たことないんだから私が見るに耐えない顔だったら貴方も私を嫌いになるのかしら」
「そんなことはないっ。君の見た目なんて僕は気にしないよ」
なぜそんなにはっきりと言い切ってしまえるのか。彼にだって気に入らない顔ぐらいあるだろう。ルセリアだけを決めつけて判断することは出来ないはずだ。
ノアの言っていることは矛盾だらけで支離滅裂でまるで迷子の子供のようだった。
「ノア、貴方は結局逃げる理由を探しているだけよ。愛を怖がったいたら何も始まらないわ。誰しも初めてはあるわよ。ただ必要なのは一歩踏み出す勇気じゃない?」
「だって、信じたら……信じてしまったら……もともと存在しないのと一度知ってしまってから失くしてしまうのはぜんぜん違うんだよ」
「でもずっとそうしているわけにはいかないでしょう?」
もしこのままだったら彼との身体的な年齢差は広がっていき彼だけが歳を重ねて私を置いていってしまう。
そうしたらルセリアはまた一人ぼっち。
それこそ一度ノアという存在を知ってしまった彼女はきっと孤独感に耐えきることはできないだろう。
「僕が自信を持てるまで待ってくれないかな?あと数ヶ月、いや数年すればなんとか……」
ノアの性格を踏まえるとルセリアが彼の姿を見て肯定しない限り彼は何を言っても自信を持つことなんてできないだろう。
「ちょっと、そんな悠長なことを言っていたらいつの間にか貴方だけがおじいちゃんになってしまうわ。わたしはそんなの絶対に嫌よ」
「でも……」
言い訳がましい彼の言葉はルセリア容赦なく否定する。さっさとこの石から開放されて彼の姿を早く目に収めたかった。
「わかったわ。そんなに言うなら封印を解いた後で魔法でもなんでも使って貴方が私を捕らえていたら良いじゃない。私をずっとそばにおいておけるわよ。優秀な魔法使いさん」
■
「やっぱ無理だよ。君が魔術学校に行くなんて反対だ」
「貴方をいじめた奴らを懲らしめてあげるって話したでしょ。今こそ約束を守るときよ」
意気込んで拳を握るとやめなさいとでもいうかのように彼は私の手を降ろさせた。ジト目で彼を見つめても彼は何処吹く風で全く相手にしてくれない。
「可愛らしい君の攻撃なんて誰にも効かないよ」
私は本気で言っているというのにこれではまるでお子様扱いだ。ルセリアは抗議するように頬を膨らませる。
「まずなんで貴方が差別されているのよ。貴方、全然不細工でもなんでもないじゃない。詐欺よ」
「でもそんな事を言ってくれるのはルセリアだけだよ。こんな黒髪忌み嫌われて当然だと思うんだけど」
ノアは自身の髪を適当に指先で摘んだ。その顔は様々な感情がごちゃまぜになったように複雑で何を考えているかは読み取れない。濡烏色の彼の髪はルセリアの目にはとても綺麗に映っているというのに。
「それは私の時代の王族の象徴の髪色よ。数百年前だったら尊ばれて然るべき色なんだからね」
後世には黒髪で生まれた子どもは忌み子と呼ばれて嫌われているなんて信じられない。
悪政を敷いた王族の色だからなのだろうか、そうだとしてもそんな色だけで人を判断するだなんてありえない話だ。
「でも……、君に行かないでほしいんだ」
「そんな顔しても無駄よ。私が一度決めたことは取り消さないんだから」
縋るような視線から逃れるように目線をそらす。
ルセリアはノアに大概甘く、特に困りきった犬のような目をされると無条件で従ってしまいたくなるのだ。
「そう、そっか、なら僕とのもうひとつの約束も覚えてるよね」
「ちょっと、貴方は一体何をするつもりなのかしら」
不穏な空気を感じ取って恐る恐る彼に目をやるとそこには魔法の杖を持ったノアの姿があった。
「ごめん、でも学園で僕よりもっと素敵な男を見つけて君が他の誰かを好きになるところを見るなんて耐えられないんだ」
入学のために密かに魔法の勉強していたからわかる。彼が唱えているのは束縛の呪文だ。
ルセリアが言ったあのセリフはノアの側を離れることがないことを念押しのつもりだったというのに言葉通りに捉えてしまうとは思ってもみなかった。
「貴方、一体いつまで私の思いを疑い続けるつもりよ!」
なんて厄介で難儀な人なんだろう。
愛をどんなに伝えても全く聞いてくれやしない。これは惚れた弱みなのかもしれないがどんな彼でも愛おしくて仕方がない。
だって彼を愛しているから。