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短編

音のある場所

作者: 紫苑朧

 古びたレンガ造りの校舎が立ち並び、敷地には桜の大樹がいくつも植えられている。春の風が舞い上がり、桜の花びらが空中を漂っている。全寮制の名門学校「桜崎学園」。


 新学年が始まり一週間がたった。

 私は朝のホームルームが始まる前の静けさに包まれた教室に座っている。窓から差し込む光が優しく教室を照らし、風に揺れるカーテンの影が壁に踊る。


 教室の隅にいるのは、仲良しグループの塊。

 少し離れたところでは、クラスの人気者が友達と楽しそうに話している。彼の周りはいつも人だかりが出来ている。


 その時、教室のドアが突然開く。

 入ってきたのは、風変わりな転校生、黒髪でクールな雰囲気を漂わせる「椎名透」だ。彼の登場に一瞬教室が静まり返るが、彼は他人の目を気にせず、静かに空いている席に座った。


 私は、隣に座った椎名に一瞬目を向けたが、すぐに興味を失ったように視線を外し、机に腕を枕にして顔を伏せる。寝たふりを始めると、クラスのざわめきが遠のいていくように感じられる。風が窓から入ってきて、心地よい涼しさが肌を撫でる。


 しばらくして、椎名が小さく息をつくのが聞こえる。かすかに本のページをめくる音がするが、彼は何も話さず静かに過ごしているようだ。寝たふりをしながらも、彼の存在感がなんとなく気になる。普段とは違う空気が漂っているのがわかるが、彼からは一切声をかけられない。


 クラスメイトの数人が椎名についてひそひそ話しているが、内容までは聞き取れない。彼がどんな人間なのか、少し気になり始めるが、私は目を閉じたままそのまま様子を見ることにした。


 そして、ふと誰かが軽く机を叩く感触が。薄く目を開けてみると、隣の椎名が何かを言いたげにこちらを見つめている。


「……寝てるのか?」


 彼の声は低く、静かだ。


 私は少し気だるそうに顔を伏せたまま、彼に向かって「寝てるよ」と返事をする。彼はその言葉に少し眉をひそめたが、それ以上突っ込んでくることはなかった。


「……そうか」


 椎名はそれだけを言うと、また静かに座り直し、手元にある本に目を戻したようだ。ページをめくる音が再び聞こえてくる。周囲のクラスメイトも、私たち二人のやり取りを特に気にすることなく、また各自の会話や準備に戻った。


 しばらくして、教室のドアが開き、担任の先生が入ってきた。朝のホームルームが始まる。先生の声が響き渡り、授業開始の合図がされるが、私はまだ顔を伏せている。


 しかし、微かに感じる椎名の視線が気になって仕方がない。彼は何かを企んでいるのか、ただ興味を持っただけなのか、今はまだわからない。


「もしかして、私に惚れたのか?」


 そう思った瞬間、内心で自分に苦笑いする。そんなこと、あり得ないだろう。まだ彼とはまともに話したことすらないし、彼は転校生でこの学園に来たばかり。冷静に考えれば、ただ隣の席だから気になっただけだろうと思う。


 しかし、椎名の視線が何度かこちらに向けられていることは確かだ。私は顔を伏せたまま、彼が本当に自分に興味を持っているのか、それともただ偶然なのかを考えている。彼の動きや表情は何を意味しているのか、少しだけ気になり始めた。


 彼の方を見るかどうか迷っていると、授業が始まり、先生の声が響く。授業に集中しなければいけないが、どうしても彼の存在が頭から離れない。


 その時、ふいに椎名が小さく呟いた。


「……君、名前は?」


 聞こえるか聞こえないかの小さな声だったが、はっきりとこちらに向けられている。


「宮原...宮原 雫...」


 私は少し気だるそうに答える。


 彼は、私の答えに一瞬考えるように小さくうなずいた。


「シズクか、覚えておくよ」


 椎名の声は落ち着いていて、何を考えているのかはわからないが、その短い言葉に、何か意味深なものを感じる。


 椎名はそれ以上は何も言わず、再び静かに本に視線を戻した。教室の雰囲気は相変わらず穏やかで、窓からの風が心地よく吹き込む。しかし、私の中では少しざわついた感覚が残る。「椎名透」という存在が、どうやらただの転校生ではないことを感じさせる何かがあった。


 授業は淡々と進んでいくが、彼の一言が私の心の片隅に引っかかっている。彼は何を考えているのか、何を求めているのか、まったく読めない。もしかすると、この先の学園生活で彼と関わる機会が増えていくのかもしれない。


 昼休みが近づき、授業が一段落したころ、椎名が再び口を開いた。


「昼休み、一緒に食べないか?」


 彼の視線が真っ直ぐに私に向けられている。


「ナンパはお断りなんだけど」


 と、私は椎名を少し冷ややかに見ながら冗談を言う。


 椎名はその言葉を聞いて、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに軽く笑みを浮かべた。


「そういうつもりじゃないさ。ただ……クラスに馴染むきっかけが欲しかっただけだ」


 彼はそのまま教科書を閉じ、手を膝の上に置くと少し視線を外した。


「転校生ってのは、どこに行っても浮いた存在だからな。無理に誘ったわけじゃないから、気にしなくていい」


 椎名の表情は相変わらずクールだが、どこかほんの少し寂しげにも見える。その姿を見て、私の心の中にほんの少しの罪悪感が湧いてくる。しかし、彼の本心がどこにあるのかはまだ見えない。


 教室はざわめき始め、昼休みの時間が近づいている。椎名はそのまま静かに立ち上がり、教室を出ようとした。


「はぁ...。わかった。パンでいい?」


 私は立ち上がりながら、軽く彼に声をかけた。


 椎名は一瞬、驚いたようにこちらを見つめたが、すぐに小さくうなずき、私の後をついてきた。私たちはざわめく教室を後にして、廊下を並んで歩き始める。廊下は昼休みを迎えた生徒たちで混雑し始め、活気に満ちている。窓から差し込む昼の日差しが、温かく体に当たる。


 桜崎学園の売店はいつも昼休みになると大盛況だ。人気のパンやおにぎりはすぐに売り切れてしまうため、急がなければならない。私は先を急ぎ、階段を降りて売店に向かう。椎名は無言のまま、私の後ろをしっかりとついてきている。


 売店に到着すると、案の定、多くの生徒が集まり、パンを手に取ろうとする列ができていた。私は慣れた動きで、狙っていたクリームパンを素早く手に取る。彼は少し戸惑いながらも、カレーパンを手にした。


 レジの列に並びながら、彼がぽつりと話しかけてきた。


「こういうの、慣れてるんだな。シズクはクリームパン取るときだけやけに動きが俊敏だな」


 彼の軽口に、私は少し笑いがこみ上げる。


 レジを通過し、二人で学園の裏庭にある桜の木の下へ。ここは昼休みでも比較的静かで、自然に囲まれた落ち着ける場所だ。風に揺れる桜の花びらが舞い散り、ベンチに座ってパンを頬張るには最適の場所だ。


「ありがとう」


 椎名がそう言って、買ったばかりのカレーパンを一口かじる。クールな彼からは、少し意外な言葉だった。


「もっと愛想のよさそうな同性に、声をかけようと思わなかったの?」


 と、私はパンをかじりながら、彼に問いかけた。


 椎名は一瞬目を細めて考えるような表情を浮かべたが、すぐに肩をすくめて軽く笑った。


「そうだな、普通はそうするかもしれない。でも、君は他の誰とも違う雰囲気があるから、気になったんだ」


 彼の答えは予想外で、少し驚きを覚える。椎名は、そのまま続ける。


「愛想がいいとか悪いとかじゃなくて、ただ君が自然体でいるのが面白かったんだよ。無理に話しかけたり、誰かに合わせたりしないし、興味があるなら聞けばいいと思ったんだ」


 彼は淡々とした調子で話しながらも、真剣な表情をしている。


「それに、転校してきて質問ばかりで、誰とでも話す気にはなれない。だから、一人でいる君がちょうどよかったんだ」


 桜の木の下で、風が二人の間を吹き抜け、桜の花びらが再び舞う。彼の言葉に裏表は感じられず、ただ率直なものだった。


 しばらくの沈黙が流れる。椎名は何事もなかったかのようにパンを食べ続けているが、その言葉の余韻が私の中に残る。


「私がボッチで悪かったわね」


 私は、少し拗ねた感じで口を尖らせながら言い返す。

 彼はその言葉に少し驚いたようだが、すぐに苦笑を浮かべた。


「そんなつもりで言ったんじゃないよ。むしろ、君が一人でいることに、何か理由があるのかなって思っただけだ」


 椎名は、少し気まずそうに視線を逸らしながら続ける。


「俺も、今は一人だから……同じような境遇の人が気になったってだけさ」


 私は、彼の言葉に少しだけほっとした気持ちになる。彼が自分と同じように孤独を感じていることがわかり、少し親近感を覚える。


 桜の木の下、風が再び吹き抜け、二人の間に一瞬の静寂が訪れる。椎名はゆっくりとパンを食べ続けながら、どこか遠くを見るような目をしている。


 私は、彼と何を話していいのかわからず、少し迷いながらも結局何も言わずに黙って過ごすことにした。桜の木の下で、二人は静かにパンを食べ続ける。言葉がなくても、桜の花びらが風に舞い、鳥のさえずりが聞こえる穏やかな時間が、どこか心地よい。


 椎名も無理に話しかけてくることはなく、私に合わせるように静かにしている。彼は、ただ一緒に過ごすことが心地よいと感じているのかもしれない。その静かな時間が、二人の間に新たな距離感を作り出しているようにも思える。


 やがて昼休みも終わりに近づき、教室に戻らなければならない時間が来る。椎名が立ち上がり、ゆっくりと服についた砂を落とした。


「ありがとうな、シズク。話さなくても、悪くなかったよ」


 椎名は、穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、私を待つように一歩下がって立っている。

 少し驚きつつも、私も立ち上がり、教室へと歩き出す。


 この静かなやり取りが、今後、彼との関係にどんな影響を与えるのかは、まだわからない。だが、確かに何かが始まったような気がする。



 午後の授業が終わり、教室を出た私は、静かに校舎の奥にある軽音部の部室へと向かう。先輩たちが卒業して以来、軽音部は実質、私一人の部活動となり、ついに廃部が決定した。何度も抵抗しようとしたけれど、結局、私は部員を集めることが出来なかった。


 部室のドアを開けると、懐かしい匂いが鼻をつく。古びたギターやドラムセット、ポスターが貼られた壁――数えきれない練習や思い出が詰まったこの部屋だ。午後の日差しが窓から差し込み、楽器の表面を静かに照らしている。部屋には誰もおらず、私一人だけがその場に立っている。


 ギターがスタンドに立てかけられたままで、少し埃をかぶっている。それを手に取り、しばらく弦を弾いてみる。音が部屋に響き渡り、静かな空間に余韻を残す。その音に、先輩たちとの楽しかった日々が自然と蘇ってくる。


 椅子に座り、ギターを抱えたままふと考える。このまま軽音部をなくしてしまって本当によかったのだろうか?

 だが、廃部は決定事項。もう後戻りはできない。


 そんな時、背後で静かな足音が聞こえた。振り返ると、そこには椎名が立っていた。彼はいつものクールな表情のまま、部屋の中を見渡している。


「ここが君の場所だったのか?」


 彼がそう言って、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。



「入部希望者?」


 私は彼に向かって、少し笑いながら言う。


「残念ながら、ここは廃部が決定していてね。今は、私の休憩場所って感じ」


 椎名はその言葉に軽くうなずき、ギターやドラムセットに目をやった。


「そうか。君が一人でここにいる理由がわかったよ」


 椎名は部屋の中央に進み、ギターを見つめながら続ける。


「ここに思い出がたくさん詰まってるんだな」


 私はギターの弦を軽く弾きながら、彼の言葉に静かに頷く。


「そうだね。先輩たちと過ごした時間とか、たくさんの思い出が詰まってる。だから、この場所がなくなるのは、やっぱり寂しいよ」


 椎名はそれを聞き、しばらく沈黙していたが、やがて少し微笑んで言った。


「廃部だとしても、君がここで音を鳴らし続ける限り、この部室は生きているんじゃないか?」


 彼の言葉に、私は少し考え込んでしまう。確かに、部員がいなくても、自分がこの場所にいて音楽を続ければ、軽音部は心の中で生き続けるのかもしれない。


 部屋に漂う静寂の中で、私は自分のギターを再び弾くかどうかを迷っている。彼は静かに待ちながら、部屋の片隅で私の動きを見守っていた。


 私は、ギターを抱え直し、少しだけ深呼吸をした。心の中で先輩たちと過ごした時間が再びよみがえり、自然と指が弦の上を滑り始める。懐かしいメロディが部屋に響き渡り、私の声がそれに乗って穏やかに広がっていく。


 それは、先輩たちと一緒に作ったオリジナル曲―― 部活最後の文化祭で披露した曲だ。歌詞には、青春の苦悩と希望、そして仲間たちとの絆が込められている。胸に込み上げる感情を押し込めるように、私は心を込めて歌い続けた。


 椎名は、静かに聞き入っていた。目を閉じて、私の歌声とギターの音に耳を傾け、口を挟むことなくただその場に立ち尽くしている。彼の表情はいつも通りクールだが、その目には少しだけ感情が垣間見えるような気がする。


 歌い終わると、部屋は再び静寂に包まれた。ギターの余韻が、まだ空気の中に漂っている。私は、少し照れくさそうに彼の方を見た。


 椎名はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「……すごいな。これが、君たちの思い出の音なんだな。聞いていて、心に響くものがあったよ」


 椎名の言葉は簡潔だったが、その中には真剣さが感じられる。彼は、本当に私の音楽を受け取ってくれたのだ。


「聞かせてくれて、ありがとう」


 椎名が小さく言うと、再び部屋の静けさが戻ってくる。



「で、なにしにきたの?」


 私は椎名に問いかける。声には少しだけ好奇心と警戒心が混じっている。

 椎名はその質問に少し考え込んだ様子で、しばらく黙っていた。しかし、やがて口を開いた。


「君が一人で歩いていくのが見えて気になったんだ。あの桜の木の下で一緒に過ごしたときから、シズクがどんな人なのか少し知りたくなった」


 彼はゆっくりと視線を私に向ける。


「俺も、以前持っていた何かを、捨てたくなかったんだ。君が一人でこの場所を守っている姿を見て……なんだか他人事には思えなくなった」


 椎名の言葉は、意外なほど真摯で、心の奥底から出ているように感じられる。彼がクールで無表情な雰囲気を持っている一方で、孤独や自分の居場所を求めていることがわかる。


「そうか……もう無いんだな」


 椎名はそう言い終えると、少し視線を下げた。


 彼の意図が少しずつ見えてきた。椎名もまた、自分の居場所を探していたのかもしれない。そして、私の音楽やこの場所に、何か感じるものがあったのだろう。


「居場所ができるまで、ここを使ってもいいよ」


 私は静かにそう言いながら、窓の外を見る。


「カギは壊れてて、いつも開いてるからさ」


 椎名は驚いたように一瞬、私を見つめたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。


「ありがとう。でも、それでいいのか? 俺がここにいても」


「別に、ここはもう廃部になったし、誰かが使っても問題ないよ。居心地がいい場所だし、少しでも長く使ってくれるなら、私も嬉しいかな」


 私は肩をすくめて答える。自分の居場所を守りたい気持ちがあったが、同時に、彼のような誰かがこの空間で何かを見つけられるなら、それも悪くないと感じていた。


 椎名は真剣な目で私を見つめてから、軽くうなずいた。


「わかった。じゃあ、少しだけ甘えさせてもらうよ」


 それから二人で、静かに部屋の中でそれぞれの時間を過ごした。私はギターを手に取り、静かに弦を鳴らし続ける。彼は窓際に腰掛け、外の景色を眺めながら、考え事をしているようだった。


 風が再び吹き込み、軽音部の部屋に漂う桜の香りが心地よく二人を包む。

 この場所が、私と椎名にとって、少し特別な場所になったような気がする。



 下校のチャイムが校舎全体に響き渡る。静かな軽音部の部屋にもその音が届き、私はギターの弦からゆっくりと手を離した。


「もうそんな時間か」


 私は呟くように言いながら立ち上がる。

 椎名もその音に気づき、窓際からゆっくりと体を起こして立ち上がる。


「じゃあ、今日はここまでだな」


 私はギターを片付け、部室の様子をもう一度見回す。部屋には淡い夕日が差し込み、楽器たちが柔らかい光に包まれている。心の中にわずかな寂しさを感じつつも、もう一人ではないという安心感がある。


「楽しかったよ」


 椎名は私に微笑みかけた。彼は自分の鞄を持ち、扉に向かって歩き出す。


 部室のドアを開けて外に出ると、外は夕暮れ。空は美しいオレンジ色に染まっており、学園の校庭には風が心地よく吹いている。


 二人で並んで歩きながら、特に言葉を交わすことはなく、静かな夕方の空気を楽しんでいる。校門を抜け、彼と別れる時が来る。


 椎名は振り返り


「また明日」


 と軽く言ってから、静かに歩き去っていった。


 私も寮に向かって歩き出し、今日の出来事を心の中で反芻する。軽音部の部室が廃部になっても、何か新しいものが始まったような気がしている。私の一日が静かに終わろうとしている。


 なぜだか明日が待ち遠しい。

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