一間堀
怪談。ド定番。
「へえ、そんなに別嬪なのかい? その後家さん」
長屋の井戸端で、おかみさん連中が皆で洗濯している。いつものおしゃべりに花が咲く。
「らしいよぉ。旦那に死なれちまって、寂しい身体を持て余してさぁ、夜な夜な男を取っ替え引っ替え、って、噂になってるよぉ」
アハハ、と笑い合ってるが、一番年長のおきぬが、一番年下で所帯を持って半年も経たないおみつに、
「アンタんとこは、まだ祝言挙げて間もないけど…。でも最近、喜助さんの帰り、妙に遅くないかい?」
おみつも気になっていた。聞いても「何でもねぇよ」とごまかされてしまう。
「…うん、仕事だって言うから、仕方ないけど…」
すると、赤ん坊を背負ったおとよが、
「まぁ、喜助さんの気性じゃあ、別の女に入れ揚げるなんて、無いだろうけどねぇ」
今度は、でっぷりとしたおふくが、
「アンタんとこの宿六たぁ違うよぉ。大体、こんな可愛いおみっちゃん、放っぽっとくはずないと思うけどねぇ」
「そりゃあそうだけど、宿六って…、おふくさんに言われたくないよぉ」
そんな話をしながら笑い合っているが、確かにおみつは、亭主の喜助が夜な夜な何をやっているのか、気になってしょうがなかった。なので、
「…それで、その後家さんって、どの辺に住んでるの?」
聞いてみると、どうやら噂の後家は、深川の外れは中之郷、亀戸村にほど近い堀の近くの、一軒しかない家に住んでいるらしく、その辺りは『一間堀』などと呼ばれていた。
「ここからそんなとこまで、通う物好きも居ないわよねぇ」
おきぬが笑って言う。そもそもそんな美人に、自分達の亭主が相手にされる訳がない、と皆で頷きあった。
◇ ◇ ◇
その日の晩の喜助は、おみつと床に入ってからしばらくして、そおっと起き出し、静かに表に出ていった。
(………やだ、こんな夜中に?)
おみつは寝たふりをしていたが、喜助が戸を閉めたのを見計らって起き出し、後をつけてみることにした。
…途中までは星明かりで何とかなったが、段々雲が出てきて、ぽつ、ぽつ、と雨が降り出してしまった。
(ああ、もう…、見失っちゃった)
女の足では、喜助に追いつくのは難しかった。暗い上に勝手の分からない場所で、雨まで降ってきて、おみつは、止めておけば良かった、と後悔した。
帰り道も分からなくなり、どうしよう、と思っていると、一軒の灯りのついた家を見つけた。矢も楯もたまらず、すがる思いでおみつは、
「ごめん下さいまし、夜分にすみません」
そう言って、戸を叩いた。
…少しすると戸が開き、中から女が姿を現した。すこぶる美人で、着崩した着物が妙に艶っぽい。
「………何だい?」
おみつは、ドキッ、としながらも、
「…あ、あいすみません、人を追って来たんですが、途中で見失って…、雨にも降られて、どうにも困ってしまって…。少しばかり、雨宿りさせてもらえませんか?」
すると女は、にっこりと笑って、
「そりゃあ大変だったねぇ。いいよ、上がんな」
おみつは、ありがとうございます、と礼を言って、中に入った。
◇ ◇ ◇
「…へぇ、そうかい。ご亭主がねぇ…」
おみつが事情を話すと、この女・お登勢はそう頷いた。
「ええ…。…ところで、ここは…」
おみつが言うと、お登勢はニヤリと笑って、
「フフ…。ここが噂の『一間堀』だって言ったら、どうする?」
え!? と驚くおみつを見て、お登勢は、
「アハハ、男を取っ替え引っ替えって、ずいぶんと非道い噂が立ってるもんだねぇ」
そう笑っている。おみつは、じゃあ、このお登勢さんが噂の後家さんか、と思い、
「やだ、すごい美人さんってとこ以外は、噂と違ってたんですねぇ」
そう笑うと、お登勢はおみつに、するり、と寄って来た。
「…嬉しいこと言ってくれるねぇ。アンタもずいぶんと、可愛らしいじゃないのさ」
綺麗なお登勢の顔が近づき、おみつの頬も紅くなる。
(え? …ええ!? ちょ、ちょっと…)
女同士であるのに、どぎまぎするおみつを尻目に、お登勢の手が、スルッ、と、おみつの腹の辺りに伸びた。
「きゃ…!」
おみつは驚いたが、お登勢は、
「………ふぅん」
そう言って、おみつを妖しい目で見ている。
お登勢の雰囲気が変わったのを感じ、おみつは、ぞくり、と背筋が寒くなった。
「………? …お登勢、さん?」
ふと見ると、お登勢の手には、匕首が握られている。
え!? と驚くおみつに、お登勢は匕首を振りあげ、
「…ねえ、アタシにそれ、ちょうだい」
思わず、おみつは後ずさりし、
「!? …ど、どうしたんです!? …い、いや! きゃあ!」
慌てふためきながら、土間に駆け降りて、戸口に向かう。
外はちょうど雨が止んだところで、おみつはぬかるんだ道を必死に走った。
だが、後ろからお登勢が、笑いながら追いかけてくる。
「アハハハハ! こっちにおいで! アンタの中に居るモノ、お寄越しよ!」
おみつは、ひいっ! と言いながら、必死に逃げる。
何だろう…、私の中に居るモノ?
…昔、おっ母さんから聞いたことがある。
『生き肝を喰らう物の怪がいる』
悪いことをすると、その物の怪がやって来て、お腹を裂いて生き肝を食べちゃうって。
…まさか、お登勢さんが、物の怪だったの?
私が喜助さんを疑って、後なんかつけたから、こんな目に会うの?
―――そんなことを考えながら、おみつは必死に逃げる。が、いよいよ追いつかれそうになり、
「いやあ! 助けて、喜助さん!」
泣きながら叫んだその時、
「おみつ!」
目の前に、喜助の姿が現れた。
おみつは喜助の懐に飛び込んだ。
…そこで安心したのか、おみつは意識を失った。
◇ ◇ ◇
―――目が覚めると、おみつは自分の家の、布団の中にいた。
傍らには喜助がいて、おみつが喜助の顔を見ると、嬉しそうな、ほっとしたような顔で、
「…おみつ! 良かった…、気がついたか」
おみつが、喜助さん、と、か細い声で言うと、戸口の方で長屋のおかみさん連中も集まっていて、
「ああ、良かった! おみっちゃん、大丈夫かい?」
おとよが言うと、おきぬも、
「まったく…。大体、喜助さんが夜な夜な居なくなるからだよ! ほら、おみっちゃんに理由を話しておやり!」
言われて喜助は、済まなそうに一本の簪を取り出し、
「…すまねぇな、おみつ。俺ぁここんとこ、飾り職人の文吉さんとこで、こいつを作らせてもらってたんだよ。…お前に内緒で、びっくりさせてやろうと思ってな」
それは、可愛らしい花の細工を施した、綺麗な簪だった。
おみつはそれを受け取りながら、
「………これを、私に?」
喜助は照れくさそうに、
「ああ、…だってよぉ、祝言あげたはいいけど、俺ぁお前に何も買ってやったこと無かったろ。だからさぁ、買ってやろうと思ったけど、文吉さんが『自分で作るなら金は要らねえよ』って言うもんだから、さ」
そう言って、おみつの手から簪を取り、髪に挿してやった。
「…似合うじゃねぇか」
長屋の皆が、わっ、と騒ぎ出す。
「ホントにもう…。人騒がせなんだから…」
おきぬにそう言われ、喜助とおみつは恥ずかしそうにしていたが、ふいにおみつは、うっ、と呻いて土間の方に駆けていく。
その様子をおかみさん連中が見て、皆で顔を見合わせると、おとよが、
「お、おみっちゃん? もしかして…。…最近、月のモノは来てたかい?」
言われておみつは、そういえば、と言うと、おきぬが、
「あらやだ! おめでたじゃないか!」
再び皆が騒ぎ出す。おめでとう、とか、良かったね、とか言われたが、おみつは、
(…もしかして、お登勢さんが狙っていたのは、生き肝じゃなくて…)
そう思いながら、お腹をさすった。そして、
「…あ、あのね、夕べのことなんだけど…」
おみつは皆に、雨宿りした時の話を聞かせた。
◇ ◇ ◇
「………ふぅん、その後家さんが、お腹の子を狙って、ねぇ…」
おきぬがそう言うと、後ろから、おふくの亭主の仁吉が、
「お前ら、何言ってんだ? 噂の後家は、弁天様の社の近くだぞ」
皆が、え? と驚く。おふくが、
「まるっきり反対側じゃないのさ。一間堀じゃないのかい?」
「一間堀はアレだろ。子供が出来なかった上に、旦那にも死なれちまって、自分も匕首で自害したっていう…」
それを聞いて、おみつは真っ青になる。
匕首…。まさか…。
しかし、仁吉は笑いながら、
「すこぶる良い女だったらしいけどな。…アレだ、夜な夜な男を引き込んでんのは、弁天橋のお千代ってんだよ」
そう言うと、ずい、と、おふくが仁吉に寄って、
「………ふーん、随分と詳しいじゃないか」
あ、と仁吉が気づいた時には、既に遅かった。
仁吉はおふくに耳を掴まれ、
「ウチでゆっくりと聞かせてもらおうか」
「…い、いででで! あ、耳! ちぎれちまうよ! あああ!」
しかし体格で敵うはずもなく、仁吉はおふくにしょっ引かれて行った。
皆は、仁吉の自業自得だなぁ、と思い、その様子を見送っていた。
◇ ◇ ◇
後で喜助に聞くと、おみつが喜助のもとに走り寄った時、おみつの後ろには誰もいなかったそうだ。
おみつはますます、ぞっ、としたが、
「…あのね、もう一度あの場所に行ってみてもいい? 昼間でいいから…」
―――数日後、喜助とおみつが一間堀に行くと、あばら家の前に、無縁仏の墓が作ってあった。
おみつがお登勢と会った、あの日の翌日に、旅のお坊さんがあばら家で供養をし、墓を作って行ったらしい。通りがかりの人が、そう教えてくれた。
喜助とおみつは墓に手を合わせ、お登勢夫婦の冥福を祈った。
………その後、おみつは無事、元気な男の子を産んだそうだ。
やっぱり怖く出来なかった…。
豆月、実は時代劇も好きなのです。