第9話 「清浄なるもの」
* * *
タレイアが、ふと、目を開けたとき、室内は真っ暗だった。
(なんと)
眠るつもりなどなかったのに、いつのまにか、王のかたわらで寝台に上体を伏せて寝入ってしまったらしい。
頬を寄せた王の腕から、確かなあたたかさが伝わってくる。
夫の胸が呼吸にともなって緩やかに動いているのを感じて、タレイアは、ほっと息をついた。
自分が、いったいいつ眠りに落ちたのか、まったく思い出せなかった。
アテナ神殿の怪異が起きて以来、ろくに眠っていなかった疲れが、安心したはずみにどっと出たのだろう。夢も見ない、泥のように深い眠りだった。
もう、日は落ちたのか。
メラスは、準備を始めただろうか。
それとも、まだ、それほど時間は経っていないのだろうか――?
寝台に伏せていた上体を起こそうとした、そのときだ。
不意に、タレイアは心臓を締め付けられるような恐怖を覚えた。
(何だ!?)
体が、まったく動かない。
まるで、巨大な手で背中を上から押さえつけられているかのように。
とっさに腰の短剣を引き抜こうとしたが、上体だけでなく、腕も、ぴくりとも動かすことができなかった。
同時、頭上から、ふうーっと生臭い風が吹き下ろしてくるのを感じた。
(「顎」か!?)
奴が、アテナ神殿から這い出してきて、この寝所まで来たというのか。
今の今まで、なぜ気付かなかったのだ。なんたる不覚だ。
応援を呼ぼうと口を開けたが、喉が押しつぶされたようになって、声が出せない。
上から押しつけてくる力はどんどん強くなり、このままでは、背骨が折れてしまいそうだ。
王は……王の首は、まだ無事か。
周囲の守りを固めていたはずの者たちはどこだ。
まさか、もう、皆、奴に首を噛み切られて――
「王妃様、……王妃様!」
遠くから聞こえてきたその声が誰のものか気づくよりもはやく、タレイアは渾身の力で跳ね起き、そのままの勢いで、腰かけから転げ落ちて床にひっくり返った。
「グウッ!?」
背中をしたたかに打ちつけ、一瞬、息が止まる。
「うおおっ!?」
何とか目を開けると、すっとんきょうな声とともに両手を挙げ、片足も持ち上げたかっこうで驚いているアリストデモスの姿が逆さまに見えた。
「何事! 大丈夫ですかな、王妃様?」
「だ、……大丈夫、だ」
タレイアはすぐさま起き上がり、眠っている王に駆け寄ると、寝台に両手をついて顔を寄せた。
彼が間違いなく安らかな寝息を立てていることを確かめ、さらに、自分の頬を二、三度叩いてみてから、ようやく、ほうっと安堵の息をついた。
先ほどの、上から強く押さえつけられるような感覚や、生臭い風は、夢が見せた幻に過ぎなかったようだ。つまり、自分は目覚めた、という夢を見ていたのだ。
「顎」のことがずっと頭にあるところへ、不自然な姿勢で眠り込んだために、あんな悪夢など見るはめになったのだろう。
「少し、寝ぼけただけだ。すまん。……もう日は落ちたのか、アリストデモス?」
「はっ、つい今しがた。あの男――メラスは、すでに神殿に向かいました。戦士たちを幾人も、見張りにつけております。メラスが注文した黒い羊も、用意できております。王妃様もお早く」
「よし」
侍女たちを呼び、王の見守りを託しておいて、タレイアは、アリストデモスとともに急ぎ足でアテナ神殿へと向かった。
神殿に近づくにつれ、そこかしこの物陰から、ひそんでいる戦士たちの白目や手のひら、槍の穂先が、かすかに浮かび上がって見えた。
こちらを見た戦士たちが、次々と合図を送ってくる。――『敵に動き無し』。
それらに手を振って返しながら、タレイアは、アテナ神殿の正面に進み出ていった。
神殿の正面には、縄でつないだ黒い羊をつれたメラスが、一人で立っていた。
長い黒髪と、黒い衣のために、その姿はほとんど夜に溶け込んでいる。
じっと神殿を見上げている白い顔だけが、垂れた長髪のあいだから浮かび上がって見えた。
【垂れ耳】と【垂れ舌】はどこかと見回せば、少し離れたところに並んで座り、ハッハハッハと息を弾ませて目を輝かせている。
その視線は羊に向けられているかと思いきや、二頭そろって、主人と同じようにアテナ神殿のほうをじっと見ていた。
そういえば、あの二頭は先ほど、怪しげな黒い煙を食っていたが、腹を下したりはしないのだろうか。
一見したところ、ただの猟犬のようだが、魔術師が連れ歩いているのだから、普通の犬ではないのかもしれない――
とりとめのない思考を断ち切り、メラスの隣に立ったタレイアは、
「兵舎では、よく眠れたか」
神殿に動きがないかを注視しながら、声量を抑えて話しかけた。
「え? ……ああ……はあ。まあ」
メラスのぼんやりとした返事に、先ほどの感謝を忘れて、反射的に苛立ちが湧きあがる。
だが、タレイアは、深呼吸してこらえた。
スパルタ風の弁論――簡潔、明快――の正反対を行くこの男だが、余人には計り知れぬ技をもっていることだけは確かだ。
「静かだな」
「本当ですね」
じっと神殿を見上げたまま、メラスは答えた。
「あ……そうだ。黒い羊、用意していただいて、ありがとうございます」
「いや。さて、メラスよ。どこから攻める?」
「どこから、というか……いや……でも、どうして、あそこが開いてるんだろう?」
独り言のようなメラスの呟きに、タレイアは眉をひそめた。
アテナ神殿に窓はなく、正面の扉は、固く閉ざされたままだ。
壁に穴などが開いている様子もなく、タレイアには、メラスの言う『あそこが開いてる』という言葉の意味がまったく分からなかった。
もしかすると、メラスの目には、この男にしか見えない何かが見えているというのだろうか?
「突入口を見出したか?」
「突入……いや……突入する前に、まずは、中にいるものの正体を確かめておかないと」
「正体だと?」
「ええ……あなたがたが会ったという『顎』が、いったい何なのか……ね。まあ、だいたい、見当はついているんですが、一応は」
「何だと思うのだ?」
「それを、今から、確かめますから。……ほら、スパルタでは、はっきりしないことを言うのは、良くないでしょう?」
「ならば、思わせぶりなことも言うなっ」
タレイアは、声量が跳ねあがりそうになるのを必死に抑えた。
実力はある、と分かっていても、この男の話しぶりを聞いていると、どうもいけない。
「ああ……はい、すみません。……ええ、それでは、始めます。まず、王妃様以外の皆さんには、ここから、お引き取り頂きたいのですが――」
「それは、聞き捨てならぬな」
ずいと進み出て口を挟んだのは、これまでずっとメラスとタレイアの背後で、太い腕を組んで立っていたアリストデモスだ。
「『王妃様以外の皆さんには』というところが、特に聞き捨てならぬ。そうでなければ、できぬ、とでも申すのか?」
「そうです」
スパルタの若者たちを震えあがらせるアリストデモスの威圧を受けても、メラスは、持ち前の茫洋とした態度を崩さない。
「魔術は、大勢の人間の前で行うものではありません。多くの人間がいれば、それだけ、場が乱れる。失敗する可能性も、上がってしまいます」
「ほう。では、王妃様だけをこの場に残らせたがるのは、どういう了見じゃ」
「証人ですよ。誰かが、僕のしたことを見ていなければ、後になって、誰も信用してくれないかもしれないでしょう」
「……ふむ。なるほど」
それは確かにその通りだと納得したのか、アリストデモスは腕組みをほどき、大きく頷いた。
「よし。若い者たちは、いったん下がらせよう。ただし、わしは残る」
「え。……しかし」
「しかしもかかしもあるか! こんな夜中に、怪しげな術を使う男を、スパルタの王妃と二人きりにするなど、言語道断!」
「あ、……ああ! なるほど」
急に何やら得心がいったという表情で、メラスは両手を打ち合わせた。
「そういうことですか。……そんな心配でしたら、必要ありません。僕は、清童ですから。今も、そして、これからもです」
「せ……は? 何じゃと?」
目を白黒とさせて、アリストデモス。
タレイアも、思わずメラスをじっと見た。
清童というのは言わずもがな、一度も女神アフロディーテの営みを行った経験がなく、いまだ女神アルテミスの庇護のもとにある男子のことだ。
だが、少年であるならばまだしも、メラスのような年齢の男がそうであるというのは、スパルタにおいては、非常識の極みである。
都市国家を防衛する次世代の戦士たちを生み育てることは、スパルタの男たち、女たちの重要な責務であるからだ。
「貴様……そのような、恥ずべきことを、よくもまあ堂々と」
呆れ果てたという顔つきのアリストデモスに、
「恥ずべきことではありません。魔力を高めるためですよ。魔術師のあいだでは、常識です」
こちらもどこか呆れたような調子で、メラス。
「逆に、自分の身の清浄を守ることもできないような男たちが、よくもまあ、都市国家を守ることができるものだと思いますね……」
「何じゃと!?」
「どうでもよい揉め事はやめろ」
うんざりとした顔で、タレイアが両者のあいだに割って入った。
「アリストデモス殿には、この場にいてもらう。
メラスよ、そなたを疑っているのではない。もしも『奴』と戦いになった場合、戦士たちが駆けつけるまでに、一人でも味方が多いほうがよいからだ。
そして、アリストデモス殿は、いざ戦闘という事態になるまでは、メラスの指示に従ってもらいたい。魔術に関しては、この者のほうが経験豊かだからだ。双方、これで、どうか?」
「ぬう。仕方がありませんな」
「……ええ。分かりました」
「よし」
それではさっそく取り掛かれ、とタレイアがメラスに命じようとしたとき、
「では、お二人はこちらに。……おーい! そのへんに隠れている、スパルタの戦士のみなさーん!」
急にメラスが後ろを振り向き、声を張り上げて、大きく手を振った。
「全員、今すぐに、兵舎に戻ってくださーい! ひとり残らず! これは、命令でーす!」




