第8話 「力あることば」
* * *
寝台が置かれた部屋には、苦しげな呻き声と、絶え間なく咳き込む音が響いていた。
「王妃様!」
王の付添いをつとめていた女たちが慌てて下がり、道を開ける。
タレイアは、奥の寝台にまっすぐに近づき、目を閉じて呻き続ける王の手を握った。
灯りに照らされた王の顔は死者のように蒼白で、脂汗にまみれて、てらてらと光っている。
握った手の力は弱々しく、驚くほどの熱を帯びて汗に濡れていた。
タレイアは衝撃を受け、怯みながらも、それをまったく表情には表さずに、力強く囁いた。
「王よ、援軍だ。どうか、勝利を。あなたならできる。……メラス!」
タレイアの後ろについてきていたメラスが、彼女と入れ替わるようにして王の寝台のかたわらに膝をつく。
【垂れ耳】と【垂れ舌】が、音もなくその左右に控えた。
突然現れた黒ずくめの男と黒犬たちに、侍女たちがざわめき、身構える。
「何者です?」
「話せば長い。こやつの身柄については、私が責任をもつ」
「しかし、王妃様――」
「よいから、よいから。皆、ちょっと外へ出ておれ」
やはり付いてきていたアリストデモスが、同じく付いてきていた戦士たちに、侍女たちをまとめて部屋の外へ押し出させる。
室内には、王とタレイア、メラスと【垂れ耳】と【垂れ舌】、アリストデモスだけになった。
「どうだ」
「今、診てます」
研究対象と出会った学者のような口ぶりで言ったメラスが、眉を寄せて振り向いた。
「少し、明るすぎます。灯りを全部消してください」
「何? それでは、何も見えんではないか!」
「いや、……ああ、はい。じゃあ、いいです。一つだけ残して、あとは全部消してください」
タレイアとアリストデモスは顔を見合わせたが、メラスの言葉に含まれた確固たる芯のようなものを感じて、その言うことに従うことにした。
あたりの灯りに次々に蓋をかぶせて回ると、室内は今まで以上に薄暗くなり、そこに王の呻き声と、激しい咳の合間のひゅうひゅうという息遣いだけが響いて、いっそう沈鬱な雰囲気が漂った。
メラスはいつの間にか立ち上がり、寝台のふちに片手をつき、王の上に覆いかぶさるようにして容体を診ている。
その姿は、王の魂を連れ去りに来た死の影のようにしか見えなかった。
「おい、どうなのだ、メラスよ!」
「今、診てます」
メラスは、自分の顔の真横に、片方の手のひらをかざしている。
何のまねかと思って、タレイアは、はっとした。
メラスが手をかざしているのは、ただ一つ残った灯りがあるほうだ。
彼は『明るすぎます』と言っていた。
彼は、今まさに何かを見て取ろうとしていて、そのためには、どうしても光が邪魔なのだ。
だが、タレイアたちが警戒したので、譲歩して、一つだけ残した――
彼女はすぐさま灯りに駆け寄り、鋭く息を吹きかけた。
部屋は、入口のほうから射しこむ、ほんのわずかな灯りをのぞいて、真っ暗になった。
「ああ、どうも。このほうが……」
メラスが呟き、立ち上がる。
そして彼は、無数の指輪をはめた手を王の胸の上にかざし、両腕を開きながら伸ばしては、閉じながら引きつける動作を繰り返した。
同時に、何事かぶつぶつと呟いているのが、タレイアの耳に届いた。
「【アブラナタナルバブラナタナルブラナタナル】……」
「ふん! このような、子供騙しのまじない――」
「シイッ」
隣で吐き捨てたアリストデモスを、タレイアは鋭く制した。
目がだいぶ慣れてきたとはいえ、室内は極めて暗い。
だから、だろうか?
苦しげに開いた王の口元が、奇妙にゆらめいて見えて、タレイアは強く瞬きをし、目をこすった。
見間違いか? 気の迷いか?
王の口から、何か、もやもやとした黒い煙のようなものが立ちのぼり始めているように見えるのは――
タレイアは、思わずその場から踏み出しかけて、ぐいと肩を掴まれた。
きっと見上げると、先ほどまで文句を言っていたアリストデモスが、転げ落ちそうなほどに目を見開いて王の様子を凝視しながら、タレイアの肩を掴んでいた。
では、彼にも同じものが見えているのだ。
決して、見間違いなどではない――
メラスの声が徐々に甲高い、人間ばなれした響きを帯びてくる。
呪文が進むごとに、その黒い煙のようなものは、どんどんと王の口から引き出されてくるように見えた。
そして、メラスが手を動かすたびに、熱湯をかけられた百足のごとく、くねり、のたくり、その姿を濃くしたり薄くしたりしているように見えた。
「【イアオー! アルバルバフララ】……」
メラスの呪文の調子が変わった。
いよいよ苦しげに悶えた黒い煙は、やがて、傷ついた獣が巣穴に引っ込もうとするかのように、王の口の中に再び戻ろうとしはじめた。
「【ラトゥラタクス】! ――そぉいッ!」
出し抜けに叫んだメラスが両手を振り回して黒い煙を引っつかんだ。
力任せに引っ張り、真っ二つに引きちぎって、床に投げだした。
「うおッ……!」
タレイアとアリストデモスが反射的に飛びのいたところへ、【垂れ耳】と【垂れ舌】が、待ってましたとばかりに躍りかかった。
二頭の黒犬は、床でのたくる黒い煙の切れ端にかぶりつき、ばくばくと食い尽くして飲み込むと、元のように座って、満足げに口のまわりを舐め回した。
「なん、と」
「すみません……あの」
立ち尽くしているタレイアたちを、余人が見たら亡霊かと思うような顔でぜいぜいと肩を上下させながら振り返り、メラスが言った。
「すみませんが……もう一度、火を……持ち運び用のかまどで……あと、皿と、カップを……」
「お……おお!? よし! おいッ、火をおこした持ち運び用のかまどと、皿とカップを持ってこい。急げ!」
外に控えていた戦士たちが、アリストデモスの命令で、厨房へとすっ飛んでゆく。
望みの品が速やかに用意されると、メラスは、衣の内側にしまっていたと思しき乾いた白っぽい粉のようなものと、樹脂のような乳白色の粒を、陶製の皿の上に乗せた。
その皿を、火のたかれた持ち運び用のかまどにかける。
間もなく、酸味と鋭い清涼感のある香りを帯びた煙が、もうもうと立ちのぼりはじめた。
メラスはその煙の上にカップを伏せ、手で蓋をして、煙を閉じ込めた。
そして、寝台へ運んだカップを、王の鼻と口をおおうようにかざし、煙を吸い込ませた。
幾度も、同じことを繰り返すうちに、はじめは激しく咳き込んでいた王の息遣いが、徐々に穏やかになってくる。
ひゅうひゅうと喉が鳴る音が、静かになり、苦しげな呻き声もおさまってきた。
やがて、王は目を閉じたまま深く息をつくと、規則正しく寝息を立てはじめた。
メラスが振り向き、タレイアに頷く。
タレイアは、王のもとに駆け寄り、胸に耳を押し当てた。
心臓が、力強い鼓動を打ち続けているのが聴こえた。
触れた肌は、心地よいあたたかさで、異様な火照りはもはやない。
眠る王の顔色を見れば、先ほどの死人のような色とは違って、心なしか、ほのかに赤みがさしてきたようだった。
タレイアは、ゆっくりと立ち上がり、
「見事だ。メラスよ」
となりに立っていた男の腕に手をかけ、心から言った。
「本当に、よくやってくれた」
「いいえ。今は、ここまでが、限界です」
どういうことか、と見れば、メラスは、下がり気味の眉をぎゅっと寄せながら、額の汗をぬぐっている。
「確かに、今ので、呪いを、ある程度まで、弱めることはできました。しかし、完全に打ち消すことまでは、できませんでした……やはり、原因を、何とかしなくては」
そう言って、彼は、悔しげに両手を見下ろした。
王の体内に戻ろうとした黒い煙を、その手で掴んで引きちぎったときに、完全には、取り除ききれなかったということか。
だが、タレイアは力強くメラスの腕をとり、その目を見て頷いた。
「なんの。体力さえもてば、呪いごときに屈する王ではないわ。見ろ、そなたのわざで、先ほどとは見違えるほどによくなった。呼吸が楽になり、よく眠れるようになれば、王は、ますます回復するだろう」
言って、初めて、魔術師に笑いかけた。
「メラスよ。感謝するぞ」
「いや、なに。……いや、なに。それほどでも」
メラスは青い目を瞬かせて呟き、そろりと彼女の手を腕から外すと、すっかり感心したような顔をしているアリストデモスのほうに向きなおって言った。
「それでは、仕事の続きは、夜に。……僕は、夜まで、寝ます。いいですね? 王の容体が、小康を得て、皆さんも、少しは、心の余裕ができたでしょう」
「私は、ここで、王に付き添う」
タレイアは言った。
「アリストデモスよ。神殿を見張っている戦士たちに、伝えておいてくれ。異変があれば、すぐに私を呼べ」
「承知いたした! ……よし、おい、魔術師よ。おまえは、わしと来るんじゃ」
感心したような顔を、ことさらにいかめしい顔つきに戻して、アリストデモス。
「眠るというならば、兵舎の寝床を貸してやろう。だが、何も、おかしな真似をするでないぞ? 確かに王を救ったことは認めるが、わしは、おまえを、まだ信用しとらんからな。おまえが寝ているそばで、わしと、若い者とで、徹底的に目を光らせておく」
「うわあ。寝づらい……」