第6話 「プシュケー」
黒ずくめの男――【黒】は、しばらくのあいだ、タレイアの目をじっと見返してきた。
そして、タレイアの苛立ちが頂点に達する寸前に、
「青銅の館の怪異を、鎮めに」
そう、はっきりと言った。
「なるほど」
タレイアは、自分の右の爪先が滑稽なほどの速さで地面を打っていることに気付き、ぐうっと地面を踏みつけた。
「そのことを、誰から聞いたのだ? ……言っておくが、大地がどうの風がどうのと、営業用の話はいらんぞ」
「ええ、ええ、分かりました。正直に、言いましょう」
メラスは、困ったように下がった眉を、ますます大げさに――タレイアにはそう見えた――寄せて、秘密を打ち明ける子供のような口ぶりでささやいた。
「【プシュケー】が、僕に教えてくれたんです」
「【蝶】……?」
ここに踏みこんだとき、メラスの手の指に一匹の白い蝶がとまっていたことを、タレイアは思い出した。
ふざけるな、と怒鳴りつけるべきかどうか、迷った。
目の前の男が、しつこく「営業用」のほらを吹いているのか、魔術の奥義の一端を明かしているのか、判断がつかない。
それとも、こいつの言う「【プシュケー】が教えてくれた」とは、「【蝶】が語った」という常識外れの意味ではなく、「【女が寝物語に】語った」という意味なのだろうか?
いや、だが、それもおかしい。
そんな時間はなかったはずだ。「顎」が神殿に出現したのが昨日、メラスがスパルタに現れたのが、今なのだから――
「貴様は」
さらに問いただそうとして、タレイアは、不意に言葉を止めた。
耳に届いたのは――土を蹴る、大勢の足音。
極限まで抑えられてはいるが、消し切れてはいない、衣のはためく音。
タレイアの表情が変わったことに気付いたメラスが、不思議そうに瞬きをし――
「控えよッ!」
タレイアの大喝が、その瞬間、扉を破壊しかねない勢いでなだれ込んできた大勢の戦士たちの動きを止めた。
「王妃様、退かれい!」
「否!」
頭髪も顎髭も白い、最年長の戦士の大喝に、上回る声量でタレイアが応じる。
両腕を広げ、戦士たちには背を向けたまま、目は油断なくメラスを見据えていた。
「皆、武器を引いてもらおう! 私は今、この男に話させているのだ」
「必要なし!」
最年長の戦士が断じた。
「詐欺師の言葉になど、耳を傾けてはなりませぬ。スパルタの王妃ともあろうお方が、かくもたやすく惑わされるとは、情けない!」
「少なくとも、詐欺師ではない」
戦士たちに背を向けたまま、タレイアは昂然と返答した。
「そなたらが慌てて駆けつけてきたのは、マラコスが、急を告げたからだろう? この男は、あやしき術を使うと」
背後の戦士たちの中に、身じろぎする者がいたのが、気配でわかった。
マラコス――先ほど、メラスの術で体を操られた戦士だ。
「すなわち、この男の使う術は、確かに効いたのだ。詐欺師ではなく、魔術師だ」
「で、あるとしても」
最年長の戦士は、一向に引き下がらない。
「否。……で、あればこそ! 胡乱な魔術師ふぜいを、スパルタの一大事に関わらせるわけには参りませぬ」
「そうです。アリストデモス殿のおっしゃる通り!」
「叩き殺して埋めましょう」
「危険です!」
まわりから次々にあがった戦士たちの声を受けて、
「貴様ら。王妃様を……」
アリストデモスがうなずき、重々しく指示を下そうとし――
「下がれ!」
タレイアは、ぱっと身をひるがえした。
完全に、メラスに背を向け、戦士たちのほうへ向きなおる。
タレイアの両手に抜身の短剣が握られているのを見て、こちらに手を伸ばそうとしていた戦士たちが、そのままの姿勢で動きを止めた。
「王妃様ッ!」
「私に触れるな、アリストデモス殿! 王以外の男が、私の体に触れることは許さぬ!」
タレイアの大喝に、目の前で鰻でもつかもうとするかのように両手を構えていた最年長の戦士――アリストデモスは、つりあげていた眉を急激に上げ下げした。
「な? や、何……何を馬鹿な! 今は、そういう……そういう話ではござらぬ!」
「分かっている」
にやりと笑ってみせ、タレイアは、
「いったん、落ち着いて、私の話を聞いてくれ」
じゃきん、と音高く両手の武器を鞘に収めた。
集まった戦士たちが、一斉にふうっと息を吐き、王妃に向けるべきか、控えるべきか迷って微妙な方向に向けていた切先を、ゆっくりと下ろす。
タレイアは、声を張り上げた。
「アリストデモス殿、そして戦士たちよ! なるほど、確かに、危険はあるかもしれぬ。いや、間違いなく、危険なのだ。今、紛れもなく、スパルタが、危険にさらされているのだ!」
戦士たちの顔をぐるりと見回し、アリストデモス殿の目を見据える。
王の命が危険に晒されている、とは、言わなかった。
背後で聞いているメラスが、何を、どこまで知っているのか、まだ分からない。
だが、戦士たちには、タレイアの意図は伝わった。
彼らの表情が引き締まるのが、はっきりと見えた。
「我らは今、一日――いや、半日たりとも、手を拱いてはいられぬ! 時間がないのだ。この男、メラスの術が、まやかしでないことは、先ほどマラコスが身をもって確かめた通りだ。物は試しという。この男に、やらせてみようではないか!」
「しかし――」
「やらせてみて、駄目であれば始末すればよい」
「……え? 僕を、ですか。そんな、さらっと」
後ろから、慌てたようにぶつぶつ言う声が聞こえた。
「今さら、臆したなどとは言わさぬぞ」
タレイアは、ぐるりと向き直り、驚いたような顔で見上げてくるメラスに指を突きつけた。
「メラスよ。必ずや、青銅の館の怪異を取り除け! 王妃タレイアの名にかけて、成功すれば、莫大な褒美を約束しよう。だが、失敗すれば、命はない」
メラスは、先ほどとまったく同じように、青い目をゆっくりと瞬かせて、タレイアを見上げたまま座っている。
再び、苛立ちがわきあがってきた。
この男に任せて、本当に大丈夫なのか。
「おい! 聞いているのか!」
「え、ああ。大丈夫です。……聞いてます、はい」
メラスは、急に忙しく瞬きをしてから、運動競技の苦手な子供のような、ばたばたとした動きで立ち上がった。
がしゃん、がしゃんと音がして、その手足にはまっていたはずの重い枷が外れ、地面に落ちた。
「【垂れ耳】と【垂れ舌】を出してあげてください」
細い両手をぶらぶらと振りながら、メラスは、顔を見合わせているスパルタ人たちに向かって言った。
「それから、黒い羊を一匹、用意してください。……夜を待ちます」