第5話 「黒」
* * *
不審な男を閉じ込めてあるという牢は、古い倉庫だった。
その建物の手前で、木陰につながれ、涼しい土に寝そべっていた巨大な黒犬たちが、まったく同時にむくりと首を起こしてタレイアを見た。
そして、すぐに興味をなくしたように、まったく同じ動きで前肢に顎をのせ、目を閉じた。
「おとなしいです」
タレイアの後ろから、ひそめた声で、戦士が言った。
犬たちのことを言っているらしい。
「ここまで奴隷にひかせてきたのですが、少しも暴れず、まったく吠えませんでした」
「男のほうは?」
問うたタレイアに、
「同じです」
戦士が答える。
「まったく抵抗しませんでした。我らも問い詰めたのですが、ほとんど喋りませんでした。『王妃に会わせよ』と言ったほかには、何も」
「ふん」
タレイアは鼻息を吹いて、腰にさげた二振りの短剣を確かめた。
もとより、そんな胡散臭い男に心当たりなどない。
まったく見知らぬ不審な男にこれから会うわけだが、先ほどから話している戦士を一人、同行させているほかには、付添いはいなかった。
聞けば、その男は、背が高く痩せていて、押せば倒れそうな姿をしているという。
そのような者に会うために、わざわざ大勢の供回りを引き連れて行ったとあっては、相手を恐れていると公言するようなものだ。
(このくそ忙しいときに、私を煩わせるとは良い度胸だ。下らぬ者ならば、即座に斬る)
と決めている。
だが、それでも会おうとタレイアが考えたのは、あまりにも奇妙な時機の一致を感じたからだ。
その男は、いったい何者で、何のために今、自分に会いたがるのか?
牢として使われている建物に着くと、戦士は扉の掛け金に手をかけて、タレイアに目配せをした。
片手を短剣のつかにかけ、タレイアがうなずくと、戦士は掛け金を外して扉を開いた。
タレイアは、牢の中へと踏み込んでいった。
中は明るかった。
頑強な石壁だけを残し、木造の屋根は朽ちて落ちているからだ。
石壁が作る影の、もっとも奥まったところに、その男は座っていた。
土埃に汚れた、長く、黒っぽい衣を着ている。立てた両ひざに、肘をついている。衣から突き出た、痩せた手足に、枷がはまっているのが見えた。
ぼさぼさの黒い長髪のために、タレイアの位置からは、男の顔は見えなかった。
牢の扉が開き、タレイアが入ってきたというのに、男は、こちらに顔を向けようともしない。
男の手指のあたりに、何か動くものが見えて、タレイアは目を瞬いた。
それは、白い蝶だった。
男の指におとなしくとまっていた蝶は、やがて、ひらひらと飛びあがって石壁を越え、青空に消えていった。
男は、こころもち顔を上げて、飛び去る蝶を送るように見つめていた。
奇妙に静かな光景に、一瞬、見入ったタレイアだったが、
「用件は!」
その空気を打ち砕くように、鋭く、居丈高にたずねた。
他の者ならば座ったまま飛びあがったであろう雷鳴のような怒鳴り声に、男は、はじめ、まったく反応しなかった。
だが、ややあって、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
タレイアは、ぎょっとした。
ぼさぼさの黒髪のあいだから見えた顔は、陽にやけたことなどないかのように白い。
そして、男の両目は、見たこともないほど明るい青色をしていた。
もちろん知らない顔だったが、どこか、悲しげであるように見えた。
そう見えるのは、男の両の眉が下がり気味であるからだとタレイアはすぐに気づいたが、では、相手が実際にどんな表情をしているかといえば、よく分からなかった。
男の口が開き、ぼそぼそと声が漏れた。
「青銅の館を、暗い影がおおっている。……黒き恐怖と、死が垂れこめている」
男のことばに、タレイアは、内心で衝撃を受けた。
よりにもよってこの時に現れたと聞いたときから、もしやとは思っていたが――
この男は「青銅の館のアテナ」神殿の怪異のことを、すでに知っているというのか?
「誰から聞いた?」
タレイアは鋭く尋問したが、男は、夢見るような――そうだ、まるで夢を見ているかのような、現実感に乏しい顔つきで続けた。
「大地がおののき、骨たちが呻いた……暗い地の底から、闇が……」
「言え!」
タレイアはずかずかと男に近づき、まっこうから男の顔に指をつきつけた。
「誰が、貴様にそのことを話した? ……それとも、貴様自身が何か知っていたのか? 正直に言わねば、外の者に命じて、貴様の骨に呻きをあげさせてやるぞ」
「……闇が、目覚めて、這い出した。風たちが悲鳴をあげ、鳥たちが告げ知らせた……」
「まともに喋る気はないのだな」
タレイアは微笑んだ。
スパルタの戦士たちでさえも、我知らず背筋を伸ばしたであろう、危険な笑みだ。
彼女は黒ずくめの男を見据えたまま、牢の外に控えている戦士に命じた。
「この者は、ここに閉じ込めよ! まともに喋るか、飢えと渇きで死ぬまで放っておけ。我らには、愚か者のたわ言に付き合っている暇など――」
がしゃん、と重い音が響いた。
タレイアは一瞬、言葉を切り、表情を変えずに振り向いた。
がしゃんという音は、牢の扉が閉まり、掛け金がおりた音だった。
タレイアが、まだ牢の中にいるというのに、外に控えていた戦士が突然、扉を閉めたのだ。
「……おい」
タレイアの静かな声には、たとえどんな愚か者でも薄皮一枚下に煮えたぎる憤怒の熱を感じずにはいられないような、くぐもった響きがあった。
彼女は黒ずくめの男に視線を戻し、その動きを注視しながら、扉の向こうの戦士を威圧した。
「これは、時と場所とをわきまえぬ、くそおもしろくもない冗談のたぐいか……それとも……裏切りかな?」
「わ、私ではありません!」
扉の向こうから、戦士が叫んだ。
スパルタの男にふさわしくない、動揺を丸出しにした声だ。
だが、タレイアが叱りつけるよりもはやく、扉の向こうの戦士は、あまりにも奇妙なことを口走った。
「いえ、その、扉を閉めたのは、私です! しかし……私ではありません! 私は、扉を閉めようなどとは、まったく思っていません。それなのに、今も、この手が……体が、勝手に!」
「貴様」
黒ずくめの男をにらみつけていたタレイアの目が燃えた。
「魔術使いかッ!」
目にも止まらぬ動きで二振りの短剣を振りかざし、駆け寄って、黒ずくめの男の首を――
「……なぜだ」
首をはねる直前の、血管の拍動を感じられるほどに強く相手の首筋に刃を押し当てた姿勢で、タレイアはささやいた。
「できるのだろう? なぜ、今、私の体を操らぬ?」
吐息がかかるほどの距離で詰め寄られてもなお、男は表情を変えず、しばらくのあいだ、何も言わなかった。
やがて、彼が大きく息を吸い込んだのが、手応えで分かった。
「【万物は秩序の中に位置づけられる。正しい方法を実践すれば不可能はない】」
男は古い言葉でそう呟いた。
タレイアには、その意味は分からなかった。
彼女が問い詰めようとすると、
「僕の師は、よく、そう言っていました。もちろん、あなたの肉体を操ることも、不可能ではありません。僕は、そのための方法を知っている。
ですが、この場合には、正しい方法の知識はあっても、実践のための材料が欠けていた。――ですので、手持ちの材料で、使える術を」
これまでとはうって変わった流暢さですらすらと言い、男は、ずらりと指輪のはまった左手をかかげてみせた。
その指につままれていたのは、ぼろ布でこしらえたような、小さく粗末な人形だった。
首の部分に、ごく細い、黒っぽい糸のようなものが結わえつけられている。
「ほら、これ。……外にいる戦士殿の、髪の毛です。さっき、ここに放り込まれるときに、一筋いただきました。王妃様の御髪も、ひと筋いただけるのでしたら、僕はこの場で、あなたに逆立ちだってさせてみせますよ」
タレイアは、目の前の男をじっと見つめ、いきなり、短剣を振るった。
ぱらぱらと床に落ちたのは、指輪がはまったままの男の五本の指――ではなく、一瞬のうちに細切れになった人形だ。
思わず人形の切れ端を取り落とした男の指そのものには、傷ひとつついていない。
外から、どすんという音と、激しく毒づく声が聞こえた。急に呪縛がとけ、体が動くようになった戦士がひっくり返ったのだ。
彼は怒りに吠えながらすぐさま扉を開けて飛びこんできたが、タレイアは、それを片手で制した。
青い目を瞬かせ、無事だった指を曲げたり開いたりしている魔術師に向かって、呆れたように言った。
「貴様、普通に喋れるではないか」
「え? ……ああ、さっきのは、営業用です。普段は、そっちのほうが、顧客の受けがいいもので」
「スパルタでは止すがいい。要点を簡潔に話すこともできぬ阿呆と思われるぞ」
鼻の頭にしわを寄せ、タレイアは言った。
「名は」
「ええと、愛想がいいほうが【垂れ舌】で、食い意地がはっているほうが【垂れ耳】です」
「……その髪、片側だけ剃り上げてやろうか?」
短剣の切先を目の前にちらつかせながら凄むタレイアに、男は、困ったような顔で笑った。
「魔術師は、名を名乗りません」
「そうか」
これ以上、言葉遊びに時を費やしてはいられない。
「では【黒】よ、用件を話せ」
「え? ……もしかして、今の、僕の呼び名ですか?」
「そうだ、私が今決めた。言え、メラス! このくそ面倒なときにスパルタに現れた、貴様の目的はいったいなんなのだ?」