第4話 「来訪」
スパルタ人たちが、アテナ神殿の怪異を目の当たりにした、その翌日のことである。
「ええい、そこをどけ!」
王の館の前で、必死に制止しようとする戦士たちを押しのけながら、タレイアはわめいた。
「そなたらが行かぬというなら、私が行く! どかぬか!」
「なりませぬ!」
武装したタレイアの前に、両腕を広げて立ちふさがり、戦士が叫ぶ。
「いかに王妃様といえど、無謀です! お一人で、あれに立ち向かうなど――」
「お一人で、だと?」
タレイアのまなじりが、きりきりとつり上がった。
「情けない! 貴様は、三百人隊にその名を連ねておきながら、隊の名をけがす腰抜けか!? ……貴様も、貴様もだ! 本当に、誰ひとり、私と共に奴に挑もうという気概のある者はおらぬのか!?」
王妃の難詰に、戦士たちの表情がこわばる。
「腰抜け」は、スパルタの男ならば決して看過できない侮辱の言葉だ。
そうではないことを証明しなければ、とても生きてはいられないほどの。
だが――
「相手が人間であれば、この世の何者であろうと、恐れはしません」
戦士たちは口々に言った。
「人間であれば、です。あれは、この世のものではない!」
「そうです。槍と盾をもって戦える相手ではありません!」
「王妃様も、その目でご覧になったはず!」
タレイアは、言葉に詰まった。
首を無くしても動いていた男たち。そして、巨大な「顎」。
あれらは、たしかに、この世のものではない。
自らの手で投げ放った愛用の槍が、煙を貫くように「顎」を素通りしてしまったことを、タレイアは思い出した。
それでも、彼女は引きさがらなかった。
「だが、王の槍は、奴をとらえたぞ」
夫が繰り出した槍の穂先が「顎」の巨大な歯にぶち当たり、跳ね返されるのを、タレイアはたしかに見た。その音も、たしかに聞いた。
「気迫だ! 王の攻撃は、気迫が違った。一切の恐れを捨て、必殺の気迫をもって攻撃すれば、怪異にとて通じるに違いない! 行くぞ、青銅の館へ!」
「無茶です!」
王妃に対する遠慮をかなぐり捨て、駆け出そうとするタレイアの肩をつかみながら、戦士たちは叫んだ。
「あなたでは、奴には勝てぬ!」
「王でさえも敵わなかったのだ!」
「現に、その陛下は、今――」
そこまで言った戦士たちは、はっとしたように言葉を切った。
タレイアの表情がゆがみ、体から力が抜けた。
眉が下がって、今にも泣き出しそうな顔になった。
「すまん」
がくりと地面に座り込んで、タレイアはつぶやいた。
「そなたらの言うとおりだ。私の槍は、奴には通じなかった。私のせいで、王は……それで、私は、気ばかり急いて……」
アテナ神殿で「顎」が吐き出した、黒く濁った空気。
それをまともに吸い込んだ王は、みるみるうちに体調を崩した。
昨夜から、咳が止まらず、飲食物をほとんど受け付けない。
薬草を煎じたものを飲ませようとしても、吐き戻してしまう。
生来頑健で、病などとは無縁であった彼が、たった一晩のうちに、寝台から起き上がることも難しくなってしまったのだ。
このまま時が過ぎては、王の命が危うい。
一晩中、王の枕元について看病していたタレイアは、そう感じた。
それで、王の病の原因であるに違いない「顎」を一刻もはやく討ち果たそうとしていたのである。
「いいえ。これは、王妃様のせいなどでは……」
「我らとて、歯噛みする思いです! しかし、人の身で、この世ならざるものに無闇に挑むのは愚かというもの」
「そうです。奴の正体と、倒す方法とを知らねば!」
「すでに、使者たちが、デルフォイへと出発しております」
「輝けるアポロン神の言葉が、我らのとるべき道を示すでしょう!」
「……デルフォイ」
うなるように、タレイアはその地名を繰り返した。
デルフォイには、予言の神であるアポロン神の神託所がある。
真砂の数も、海の広さも知るというアポロン神が、巫女の口を借りて人々の質問に答え、取るべき道を指し示すのだ。
かの神ならば、必ずや、このたびの怪異の正体と、対抗する方法とを教えてくださるであろう。
だが、デルフォイは遠い。
騎馬の使者が、限界まで荷を軽くし、馬の足がもつかぎり駆けたとしても、スパルタからデルフォイへとたどり着くだけで、数日はかかる。
それから、神託を受けるのにふさわしい日取りを占い、結果が芳しくなければ、さらに日がかかる。
そして、神託を受けてから、ここまで戻ってくるのに、さらに数日がかかる――
「遅い!」
叫んで、立ち上がる。
ぎくりとしたように後ずさった戦士たちに、タレイアがさらに言葉をぶつけようとした、そのときだ。
「報告です!」
ひとりの若い戦士が、その場に駆けこんできた。
「不審な者を捕らえました。黒ずくめの男です。そやつは、熊のように大きな二頭の黒犬とともに、気付けば、広場に立っていました。ですが、妙なことに、それまでは――つまり、その瞬間までは、誰も、その者を見なかったのです」
「なに?」
タレイアは、うんざりしたように眉をつり上げた。
なぜ、こうも立て続けに、おかしなことばかり起きるのか。
今は、そんなわけのわからぬ者に関わり合っている場合ではない。
アテナ神殿が怪異に穢され、王の命が危ないという、こんな時に――
「ばかな!」
戦士たちが色めき立つ。
「そんな胡乱な者が、エウロタス川を、誰にも見られずに越えてきたというのか?」
「それとも、タユゲトス山を越えてきたのか? 歩哨は何をしていた!」
「捕らえた、と、言ったな」
タレイアは、こみ上げる苛立ちをどうにか抑えながら、静かに言った。
「はっ。縛り上げ、黒犬どもと共に、牢に放り込んであります!」
「ならばよい。どこぞの密偵か、あるいは、別の目的か。責めて、吐かせよ」
「それが……」
若い戦士は、一瞬、口ごもった。
だが、タレイアの目に本物の怒りが燃えるのを見て取ったか、慌てて続けた。
「実は、そやつは、こう申しているのです。――『王妃に会わせよ』と」