第3話 「アギト」
圧倒的な危険を認識したとき、人間は反射的に恐怖を感じ、体は硬直する。
思考は停止し、声も出ず、体のどこも動かすことはできない――
スパルタの戦士は、訓練によってそれらを克服する。
「敵襲ゥッ!」
背後の空間を槍でなぎ払いながら、タレイアは叫んだ。
槍の柄が、何かにぶち当たる手ごたえ。
石や金属ではない。
たしかに、肉を打つ手ごたえ――
「ウオオオオオオッ!」
咆哮し、瞬時に引いた槍を稲妻の速さで繰り出す。
真っ暗で何も見えない。
だが、タレイアに一切の迷いはなかった。
そこにいるのは敵だ。
事情も正体も関係ない。暗闇で気配を殺し、スパルタ人の背後をとるものがあれは、それは死すべき敵である――
槍が肉を貫く、重い手ごたえ。
(やったか!)
ずしん、どしぃん、と背後から鈍い音が繰り返し聞こえてきた。
なんと力強い音であることか。戦士たちが、閉まった扉に体当たりして開けようとしているのだ。
「敵襲だ! 加勢せよッ!」
ますます奮い立ってタレイアは叫び、敵の体に突き立ったと思しき槍を引き戻し、再び突いた。
どっ、と穂先が肉に突き立つ手ごたえ。
(よし!)
だが、妙だ。
先ほどから、彼女の穂先は、確実に敵をとらえている。それなのに、悲鳴のひとつも上がらない。呻き声も、息の漏れる音すらも――
不意に、がちん、がちん、と耳障りな異音が聞こえた。
(何だ?)
周囲は、いまだ暗闇に閉ざされたままだ。
タレイアの背後からは、扉に体当たりを繰り返す鈍い音と、戦士たちのうなり声が聞こえ続けている。
異音は、その反対側、内室の奥のほうから聞こえてきたのだ。
鋭く、高い――なにか硬いもの同士が打ち合わされるような音。
その音は、少しずつ、こちらに近づいてくるようだった。
(恐れるな、心を平静に保ち、目を開いて敵を見ろ!)
幼い頃から叩き込まれてきた教えを心のうちで繰り返し、タレイアは、かっと目を見開いた。
だが、あまりにも暗い。何も見えない――
その瞬間、ぱっと射しこんだ外の光が、タレイアの目の前を照らした。
戦士たちの体当たりによって、とうとう扉が開いたのだ。
(え)
タレイアは、硬直した。
戸口からなだれ込んだ戦士たちが背後で息をのみ、立ち止まる音が、はっきりと聞こえた。
タレイアを正面から取り囲もうとしていたのは、数人の男たちだった。
――ない。
全員、頭部がない。
白い衣を血に染めて、斬首されたような傷口も生々しい首なしの男たちが、こちらに両腕を突き出して立っている。
ふらふらと、近づいてくる。
タレイアの槍の穂先に抉られた腹から、内臓をだらりと飛び出させながらだ。
(嘘、だろ)
あまりの光景に、叫ぶことすらできず、タレイアは目を見開いていた。
死者が動いているというだけではない。
同時に、内室の奥――アテナ女神の神像の後ろから、見たこともないものが姿をあらわそうとしていた。
それが何なのか、タレイアには分からなかった。
アテナ神像と同じくらい、大きなもの。
夜の闇のように黒く、四つん這いで、人のような形をしている。
だが、頭はない。
そこにあるのは、ばかでかい「顎」だ。
おそろしく巨大な頭蓋骨の、上顎と、下顎だけが宙に浮いているように見えた。そこだけが、くっきりと、白く浮かび上がって見えた。
「は……」
自分自身の喉から漏れた、乾いた笑い声に、タレイアは驚いた。
嘘だ。こんなことは、とても信じられない。狂気の沙汰だ。
巨大な「顎」が、形の定まらない両腕をついて身をのりだし、黒い下半身をずるりと引きずりながら、こちらへ出てくる。
タレイアは、動かない。
動けなかった。
(嘘、だろう?)
首なしの男たちが、ふらふらと場所をあけた。
「顎」が、目の前まで迫り、こちらに覆いかぶさるように、大きく開き――
「危ない!」
出し抜けに、背中の衣がむんずとつかまれ、凄まじい力で後ろに引かれた。
目を見開いたまま倒れこんだタレイアの、その目の前で「顎」ががちんと閉まる。
出来の悪い冗談のように巨大な上下の歯が、一部の隙もなく噛み合わさった。
目の前にずらりと並ぶ、ばかでかい歯。
前歯の一か所は抜け落ちて、黒い空洞のようになっている。
残る歯が赤い血に汚れているのが、はっきりと見えた。
こいつが、男たちの首を食いちぎったのか――
(夢だ、これは)
生まれて初めて、床に倒れたまま声も出せず、体のどこも動かすことができずに、タレイアは目を見開き続けていた。
(悪夢だ)
あまりにも信じがたい光景を目にしたとき、心は、狂気に陥るまいとして、自ら眠ったようになることがあるという。
そうだ、どうして、正気で信じることなどできよう。
首のない男たちが二本の足で歩き、四頭立ての戦車ほどはあろうかという馬鹿でかい「顎」が大きく開いて、今にも自分にかじりつこうとしているなどと――
「タレイア!」
その声は、固い拳の一撃のような鮮烈さで彼女の鼓膜を打ち、意識を貫いた。
瞬間、訓練された戦士の動作がよみがえる。
タレイアは仰向けに倒れた姿勢から、全身の筋肉を使って跳ね、横ざまに転がった。
がつぅん! と巨石のぶつかり合うような音を立て、再び空振りをした「顎」が噛み合わさる。
体をひねって上体を起こしたタレイアの目に飛びこんできたのは、彼女を守るように立ちはだかり、盾と槍とを構えた男の背中だった。
「退却せよ!」
怒鳴りつけるように叫んで、王は槍を振るった。
再び迫ろうとしていた首のない男たちの指が飛び、手首が落ちる。
その背後で、巨大な「顎」が、ぐうっと奥へ下がってゆくのをタレイアは見た。
逃げようとしている、のではない。その様子は、獲物を狙ってとびかかる直前の毒蛇のそれに似ていた。
「いかん!」
タレイアは、跳ね起きた。
愛用の槍を一挙動で握り直し、渾身の力で投げ放つ。
槍の穂先は、まっすぐに彼女の夫の頭上を越え、大きく開いた「顎」の奥へと吸い込まれ――
カツーン! と、鋭く硬い音がした。
その音は、「顎」よりもずっと奥の、内室の壁のほうから聞こえてきた。
(この距離で、外した!?)
違う。槍は確かに、開いた「顎」の内側に吸い込まれた。
それなのに、肉に突き立つことなく通り抜けてしまったのだ。
では、この巨大な「顎」は、霧のごとき幻影に過ぎないのか?
いや――
「オオオオオオォ!」
咆哮とともに王が繰り出した槍の穂先が、巨大な歯にぶち当たり、跳ね返される。
幻影ではない!
「危ない!」
盾を掲げようとした王の、背に垂れた長い髪を鷲掴みにし、全体重をかけて引っ張った。
さすがに声をあげ、後ろによろめいた王の盾のふちに、がつりと「顎」が噛みつく。
あと一歩遅れていたら、首を食いちぎられていたところだ。
「手を!」
夫が盾を手放さないのを見てとり、タレイアは叫んだ。
スパルタの戦士にとって、盾は何よりも大切なものだ。盾をたやすく手放す男は、臆病者と軽蔑される。死ぬ時も、盾だけは決して放さない――
そのときだ。
王の盾に嚙みついたままの巨大な歯の隙間から、黒く濁った空気が、ぶわっと噴き出した。
王が激しく咳き込み、体の力が抜ける。
タレイアはとっさに息を止め、ここを先途と鎧のふちに手をかけて、渾身の力で引きずろうとした。
だが、重い。とても支えきれない――
彼女の背後から、何本もの腕が伸びてきて、王の体を掴んだ。
あまりのことに動けずにいた戦士たちが、ようやく自分たちの責務を思い出したのだ。
「出ろ!」
ほとんどひとかたまりになって内室から飛び出し、廻廊の柱のあいだから、空の下へとまろび出る。
激しい音を立てて、扉が閉まった。
呆然とアテナ神殿を見上げるタレイアたちの頭上で、灰色の雲が切れ、明るい太陽の光が皮肉のように降りそそいできた。