第23話 「聖なる月の女神、タルタロスの支配者にして光線を射る者」
* * *
パウサニアスは、かつてない高揚感に包まれていた。
口を大きく開いて咆哮すれば、腹――この姿になっても、まだ、そんなものがあるとすれば――の奥底から黒い泥流のような息があふれ出して、あたり一帯をおおってゆく。
上を向き、太陽に浴びせかけるように吐きかければ、黒い息は、彼自身の体をすっかり覆いつくして、槍の穂先のように突き刺さってくる陽光をさえぎった。
地面の上を、死にかけた虫のようにもがく仲間を引きずりながら、スパルタの男たちが必死に逃げていくのが見えた。
そちらへ身を乗り出して、さらに黒い息を吐きかけてやる。
ああ、なんと快いのだろう。
今、地上の人間のどのような攻撃も、自分には通用しない。
槍も剣も、この体――すでに通常の意味での肉体は失われていたが――を傷つけることはできない。
飢えや渇きに苦しめられることも、もうない。
こうしているだけで、腹の奥底から、新たな力が次々とあふれ出てくる。
恨みと怒りだ。スパルタへの呪いだ。
それが、己の内側で燃え続けている限り、自分は無尽蔵の力を得ることができるのだ。
あの小娘が――あんな小娘がスパルタの王妃とは、世も末だ! ――「歯」を砕いてくれたおかげで、あの辛気臭い――あれほど祈ったのに、縋ったのに、何の助けももたらさなかった、役立たずの、嘘つきの、愚かな女神の神殿から出ることもできるようになった。
さすがに、自分の骨が埋められている「塚」からは――あの妖術師め、忘れぬ、決して忘れぬぞ――離れることはできないようだが――
ああ、そうだ、殺したスパルタ人どもを働かせて、骨を掘り出させればよいのだ。
そうすれば、自分は、もっと遠くへ――
そのときだ。
神殿の中で、何かが光ったような気がした。
巨大な眼球を見開いて、パウサニアスは振り返った。
そうだ、そうだ、あそこには、まだ奴らがいる。
小娘と、あの妖術師だ。それから、薄汚い黒犬ども。
首を噛みちぎり、内臓をむさぼり食ってやろうと思ったのに、あやしい術のせいで歯を立てることができなかった。
まあいい、まあいい、そうだ、俺と同じ目にあわせてやればよいのだ。
あそこに閉じ込めて、水も食い物もなく、そうだ、しまいには、犬どもに食われてしまえばいい。骨まで嚙み砕かれて、髄を啜られるがいい――
また、何か光った。
パウサニアスは、開きっぱなしになっている神殿の扉の奥に目を凝らした。
奇妙だ。
自分が吐いた黒い息は、霧というよりも泥のように、風に吹き散らされることもなく、あたり一帯にわだかまっている。
この黒い空気の中で、いったい何が――
また、光った!
パウサニアスは巨大な黒い手を地面につき、身を乗り出して、大人の男の一抱えぶんほどもありそうな眼球で、扉の奥を見据えた。
そこに、一人の女が立っていた。
金の髪の、女――いや、小娘だ。
あの、羽虫のように小うるさい、忌々しい、思い上がった小娘。
奇妙だ、まっすぐに立っている。二振りの短剣を手に。
あの、あやしげな術で編まれた透明ないれものの中にではなく、黒い空気の中に。
息を止めているのか?
愚かな。長続きするはずがない。
そうだ、息もできないし、前も見えないはずだ、この黒い空気の中では――
おや、おかしいぞ、小娘が、こちらに進んでくる。
歩いて、まっすぐに、こちらに向かって。
ばかな。
本当は恐ろしいのだろう、それを隠して、虚勢をはっているのだろう。
そうだ、すぐに、身の程を思い知らせて、泣き叫ばせてやろう。
いや、それもうるさい。そうだ、今すぐに殺してやろう。
そうだ、そうだ、あの王のように、この黒い息で――
パウサニアスは大きく口を開き、こちらに進んでくる小娘に向かって、轟ッとばかりに黒い息を吐きかけた。
念入りに、人間が息を止めていられる限界と思われるよりもずっと長く、長く、長く――
もういいだろう。
そう思って、パウサニアスが口を閉じた、そのときだ。
また、何かがきらっと光った。
三日月の軌跡を描いて、銀の光が――二振りの短剣が、黒い空気を切り裂いた。
そのあいだから、金の髪の小娘が、平気な顔をして、しずしずと、滑るように地面を歩いてこちらへ進んでくる。
パウサニアスは、巨大な眼球を何度もぐるぐると回して、見直した。
これは、悪夢だろうか。幻だろうか。
自分は、まだそんなものを見るのだろうか。
まぼろし? ああ、そうだ、これは、あやしい術だ。また、あの妖術師のしわざなのだ。
パウサニアスは咆哮し、一気に両手を地面に叩きつけて、跳んだ。
大きく開けた口で、小娘の細い体――そう見えるものに向けて、逆落としになだれ落ち、上下の「歯」を恐ろしい速さで咬み合わせた。
感じたことのない衝撃が「歯」から伝わり、パウサニアスの黒い全身を揺さぶった。
慌てて眼球を回したが、真下で何が起きているのか、見えない。
分かるのは、今、自分の「歯」が、閉じ切っていないことだけだ。
口を開き、攻撃をしくじった蛇のようにすばやく後ずさると、黒い空気の中で、大きく腕を開き、二振りの短剣を体の両側に構えている小娘の姿が見えた。
パウサニアスには、とても信じられなかった。
あの細い腕で、あの小さなとげのような短剣で、閉じ合わさる「歯」を受け止めたというのか?
そんなことが、人間の小娘ごときに、できるはずがないではないか。
もしも、できるのだとしたら――
できたのだとしたら――それは――
向こうのほうで、誰かが、泣きそうな声でぶつぶつ言っているのが聞こえたような気がした。
黒い空気の中で、また、何かがきらっと光った。
金の髪の小娘が、額に触れるようなしぐさをした。
その額のあたりに、奇妙に輝くものがあった。
それは、小さな月。
下弦の月のように見えた。
* * *
ここは、気持ちが悪い。
彼女は、肉でできた二本の腕のうちの一本をもちあげて、輝く額に触れた。
彼女をとりまく黒い空気の周囲には、彼女自身のとは別の、強い光が射している。
太陽の光だ。
こんなときに外側へ出てくることになろうとは、なんと珍しいことだろう。
すべては永劫に回帰しつづけるのであるから、宇宙のうちに珍しいことなど一つもないと思っていたが、まだあったとは、少しおもしろい。
しかし、今回の外側は、ずいぶんと黒く濁っている。
強い光をさえぎっているのはよい。だが、どうにも気持ちが悪い。
ここが、べちゃべちゃとした、きたならしい、がまんのならぬ場所であるのはいつもと同じだが、今回は、特によくない――
しつこく呼ぶ、か細い声があったので、彼女は来た。
肉が違うが、石が同じ。
彼女を呼ぶことばの響きが同じだったからだ。
見渡せば、おどろくほどにかぼそい定命のものたちが、うぞうぞと無数に寄り集まってうごめき、お決まりの意味不明な騒ぎを演じている。
一体どれが彼女を呼んだのか、見分けることもむずかしい。
……ああ、あれだ。
前にも、みた石。前にも、きいたことばの響き。肉が違うだけ。
それは、かぼそい、ほとんどききとれないようなきいきい声で、何事か訴えていた。
空気がけがれていて、気持ちが悪いから、帰ろうか。
いや、そう、手を貸してやらねば、いつまでもきいきい、きいきいと言っているから、そう、ひとつ、静かになるように、潰そうか。
それもいいが、まあ、そう。
前にもしたように、ひとつ応えてやろうか――
外側へ出てくるための扉としてつかった、汚れのない娘の肉を振り捨てて、彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
一歩踏み出し、彼女の衣が大きく揺れると、大地が揺れて、裂け目ができた。
そこから噴き上がってきた清澄な内側の香りが、彼女を少しよい気分にさせた。
光のない内側の闇の色をした髪が持ち上がり、彼女の三つの顔のまわりで、重い山のように波打ってはなだれ落ちる。
その髪をかき分けて、彼女は、六本の腕を夜のように大きく広げた。
二本の手には、冷たく光る短剣。
もう二本の手には、先のわかれた鞭。
さらに一本の手には、支配のことばが刻まれた杖。
最後の手には、不壊にして不熔の鎖。
ごそごそと這いまわっていた黒いものが、彼女を見上げて、悲鳴をあげた。
彼女は、手にした短剣の切先で、逃げようとした黒いものをすばやく突き刺し、もう一本の切先で、そのまわりをおおっている薄汚いものを手際よく剝ぎ取っていった。
ちいちい、ちいちいと騒ぐものを、鞭で幾度か打って、汚いものをすっかり跳ね飛ばしてしまってから、ようやくおとなしくなったものを、ぐるぐるとくくった。
杖と鎖とは、決して用いない。
これらは、永劫に回帰する宇宙のなかで、あれらと戦うときにのみ、用いるものだから――
彼女は、内側へと戻ることにした。
持って帰るものは、ぐるぐるくくった魂がひとつと、それから、あたりに散らばっていたいくつかの魂。
それから、自分をここへ呼んだものが支払う魂。
塵芥のように細かい、取るに足らぬものだが、定められたものは定められたように取らねば、均衡を欠くことになるから――
少しずつ晴れてきた黒い空気の中で、彼女はゆっくりと手を伸ばし、自分がここに出てくるための扉として使った、汚れのない娘の肉――その中にある魂をつまみ上げようとした。
すると、小さな小さな――おお、これほど小さな、か細いものが、自分を外側に呼んだのだ――定命のものが、細い腕を広げて立った。
『ドウカ、カワリニ、ボクヲツレテイッテクダサイ』
そのもののかたわらで、小さな小さな、ほこりの粒のような黒犬たちが、わんわんと鳴いているのが見えた。
彼女は、両手を伸ばして、小さな小さな黒犬たちの魂をつまみ上げようとした。
これらを持ち帰って、内側で待っている彼女の犬たちにやろうと思ったのだ。
すると、小さな小さな定命のものが、震えながら前に出て、小さな小さな犬らの前に、小さな小さな手を広げて立った。
『イイエ、ドウカ、カレラノカワリニ、ボクヲツレテイッテクダサイ』
それならばと、彼女は、このものの魂を取ることにした。
爪の先で肉を剥ぎ取り、その中の魂をつまみ出すのだ。
だが、そうしようとしたとき、小さな小さな定命のものの前に、何か、もうひとつのものが立った。
それは、もはや肉を持たぬ魂だった。
非常に小さいが、ほとんど透明で、彼女の目に、美しく、好ましく見えた。
『聖なる月の女神よ、タルタロスの支配者にして光線を射る者よ、我が魂を贖いとしてお取りくださいませ、我が愛弟子と、その守るもののかわりに』
そのことばは、非常に明瞭で美しく、響きも、微かだが、実に快かった。
そこで、彼女は、これを選んで持ち帰ることに決めた。
定命の肉にとらわれた魂が、泣きわめいているのがきこえた。
『イヤダイヤダ、オイテイカナイデ。イッショニツレテイッテ』
だが、彼女には、それはもはやどうでもよいことだった。
内側に戻ってゆく瞬間は、いつでも少しおもしろい。
彼女はいくつもの魂を掴んだすべての腕を、投げ出すように広げて、ゆっくりと倒れていった。
何もかもがおそろしく引きのばされ、外側の大地も、天空も歪んで、自分ごと一点に吸い込まれてゆく。
地面が大きく曲がって、すべてが一望できるようになり、周囲には水があり、地面の上のありとあらゆる盛り上がりと緑のすきまに、定命のものたちがつぶつぶとうごめいていた。
何もかもが、遠く宇宙の果てから見下ろした砂粒のように微細だ。
内側に落ちる寸前、不意に、何か光るものが視界の端にうつり、彼女はちらりとそちらを見た。
今にも破れそうなほどに大きく曲がった世界のふちに、広がる宇宙を背景にして、ひとりの女神が腰かけているのが見えた。
兜を後ろに傾げてかぶり、見事な総飾りのアイギスをまとった肩に槍をかついで、世界を見下ろしている。
その青灰色に輝く星のような目が、こちらを見、うなずいたような気がした。




