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第22話 「神の助け」

(これで、終わりか?)


 目の前が真っ黒に染まった瞬間、タレイアの心を満たした感情は、絶望でも恐怖でもなく、圧倒的な怒りだった。


(死ぬのか。こんなところで? 敵を倒すことも、皆を助けることもできずに? ……ふざけるな! 許すか、そんなこと!)


 だが、何も見えない。

 反射的に息を止め、短剣を握った両手を前に突き出したが、それ以上は何もできなかった。

 周囲は塗りつぶしたように黒く、あたりの様子はまったく分からない。

 次の瞬間にも、黒い渦の中から再び「顎」が現れて、この頭を食いちぎるかもしれない――


 その瞬間、誰かに、ものすごい力で衣の背中を掴まれ、引き倒された。

 あのときと同じだ。

「顎」と初めて相まみえたとき、「顎」に食らいつかれそうになった自分を危ういところで引き戻した、力強い手――


(あなたか!?)


 夫の面影が脳裏に浮かび、同時、横ざまに地面に叩きつけられる。

 ぐふっ、と肺腑から空気が押し出されたが、辛うじて息を止め、黒い空気を吸い込むことだけはこらえた。

 何も見えない真っ黒な空気の中を、恐ろしい速さで引きずられていく。

 何が起きているのか、まったく分からない。

 もしや、今、自分を引きずっているのは王ではなく、パウサニアスなのか? それとも――戻ってきたアリストデモスか?

 それが分からないせいで、両手につかんだままの短剣を振るうこともできなかった。

 間違いで味方を殺すようなことは絶対にしたくない。

 だが、もしも、敵であるとしたら――


 そのとき、不意に視界が晴れ、すぐそばに、人の姿がはっきりと見えた。

 黒い衣に身を包み、膝をついてうずくまった男――メラスだ。

 その右手は、まるで何かを支えているかのように頭上に掲げられていた。


 タレイアは身をひねって起き上がり、自分たちが今、直径数歩ぶんほどの、奇妙な透明の「半球」の中にいることに気付いた。

 どうやら、メラスが防御の結界のようなものを張っており、その力によって、この場所だけは、周囲を満たす黒い空気から守られている。

 不意に、背後から低い唸り声がきこえ、タレイアが慌てて振りむくと、目の間に【垂れ耳】の大きな顔があった。

 タレイアの衣をくわえて引きずり、彼女をこの防御陣の中まで連れてきたのは【垂れ耳】だったのだ。

【垂れ舌】はどこか、と探せば、メラスの後ろに丸くなっていた。


「助かったぞ」


 タレイアは思わず右手の短剣を手放し、【垂れ耳】の顔を撫でた。

 そのとき、透明な「半球」の壁に、巨大な何かが激突した。

 まったくの無音だったが、激突音が聞こえたと錯覚するような凄まじい勢いで、タレイアはその場に座ったまま飛びあがった。

「半球」の外側に、巨大な白いものが、繰り返し、繰り返しぶつかってくる。

 ばかでかい「歯」が「半球」にかじりつき、透明な防御陣を破ろうとしているのだ。


「パウサニアス!」


 短剣を握りしめ、タレイアは唸った。

 再び「顎」の姿に変じたパウサニアスは、執拗に半球の防御陣に噛みついて破ろうとしたが、まるで不壊(ふえ)の水晶球にでも噛みついたようにその歯は防御陣の表面をすべり、ひび一つ入れることはできないようだった。


 黒い空気の中から、血走った巨大な「眼球」があらわれ、防御陣の表面に押しつけられた。

 白目の表面に浮き上がった青や赤の血管までも見て取ることができるほどの距離で、巨人族のそれのようにばかでかい「眼球」がぎろりぎろりと動き、タレイアと、メラスをにらみつけた。

 気の弱いものならばこの場で発狂したとしてもおかしくない、悪夢のような光景だった。


 パウサニアスが咆哮したようだったが、魔術で生み出された透明な「半球」は振動すらせず、外の物音は一切伝わってこない。

 巨大な「眼球」の視線が、タレイアとメラスから外れた。

 パウサニアスは嵐に乗る黒い怪鳥のように「半球」から離れて姿を消し、あとには、塗りつぶされたような一面の黒だけが残った。


「まずいぞ!」


 タレイアは叫んだ。


「奴は、スパルタ全土を攻撃するつもりだ。皆が危ない。――どうする、メラス!?」


 だが、死霊呪術師は動かなかった。


「メラス!」


 肩をつかんで揺さぶると、メラスは、ようやく、のろのろと振り向いてきた。

 その両目から、だらだらと涙が流れていた。


「ぼ、僕のせいです……だめだ、僕は……僕の、ふ、不注意で……」


 メラスは、左手の拳をかため、何度も自分の口元を叩いた。

 その左手の指に、絡まり合う蛇のかたちをした指輪がはまっている。

 台座には大きな宝石がはまっていて、その宝石が、ぼんやりとした光を発していることにタレイアは気付いた。

 この光のために、暗闇の中でも、メラスや犬たちの姿を見ることができていたのだ。


「この指輪……師匠のものなんです。ぼ、僕が、これを、隠しておかなかったから……これを見たせいで、パウサニアスさんは、師匠のことを……師匠に、塚に封じられたことを思い出して、また、怒ってしまいました……」


 そういうことかっ、と、タレイアは天を仰ぎたくなった。


()()()()()()()()()


 と、パウサニアスは言っていた。

 70年前、メラスの師匠がパウサニアスを塚に封印したとき、自分を封じた男の手に、この蛇の指輪が光っていたことを、パウサニアスは忘れていなかったのだ。


「過ぎたことは、よい!」


 タレイアは怒鳴った。

 失敗を嘆いていても、勝利は得られぬ。

 自分たちが無為に座っているこの一瞬一瞬にも、スパルタの人々が命を奪われているかもしれないのだ。


「これから、どうする!?」


 だが、メラスはうずくまった姿勢のまま、左手で頭を抱えこんでしまった。


「だめだ、僕は……やっぱり、僕一人ではだめなんだ! よく言われるんです、おまえには、人間の心が分かっていないって……だから、また、こんな……」


「今さら、何を言っている!?」


 タレイアは喚いた。


「そなたが他人の心を慮らぬのは、今に始まったことではなかろう!? 会った瞬間から、ずっとそうだったぞ!?」


 メラスが、え、と顔を上げた。

 その目からはまだ涙が流れていたが、視線が、ようやくタレイアに向いた。


「よいか、今、そんなことは()()()()()()のだ! 今、必要なのは、戦うことだ! 何としてでも、奴を冥府に送るのだ。それができる者は、メラス、そなたしかおらぬ!」


「でも……」


 思わずといった調子でつぶやいて、メラスは、一度、口をつぐんだ。

 だが、食い入るように見つめるタレイアの視線に促されてか、意を決したように、ふたたび口を開いた。


「あの人は……パウサニアスさんは、そもそも、何も、悪くなかったんですよ?」


「ああ」


 タレイアはうなずいた。


「その通りだ。80年前には、確かに、そうであったのだろう。気の毒であった。――だが、今、奴は、何の関わりもないスパルタ人までも皆殺しにしようとしている! このままでは、我が夫も、友たちも死ぬだろう。そんなことは、この私が許さぬ。……メラスよ」


 タレイアはメラスの目を見据えたまま、手を伸ばし、その肩をつかんだ。


「命には、命で報いると、会った時にそなたは言ったな。――この私の、命をやろう。私の血でも肉でも使って、術を行い、奴を冥府へと送れ!」


 メラスの目が、ゆっくりとまたたいた。

 それから、その目は、だんだんと大きく見開かれていった。


「身命を賭して、スパルタを守る。それが、私の責務(つとめ)だ」


「いや……でも……」


 メラスは、口ごもった。


「それは……()()()()――」


()()のだな、そういう術が」


 タレイアの口元に浮かんだ満足げな笑みに、メラスは、いっそう慌てた様子を見せた。


「いや、それは……いや……確かに、そういう術はあります。でも……僕には、無理です! 僕は、一度も、やったことがないんです。また、失敗したら――」


「その時は、私が死霊となって、そなたをぶん殴る」


 タレイアは、メラスの肩をつかんだままだった手で、彼を激しく揺さぶった。


「やれ! メラスよ! 失敗するか成功するかなど、問題ではない。勝ち目があろうとなかろうと、人間には、戦わねばならぬ時というものがあるのだ! ……【万物は秩序の中に位置づけられている。正しい方法を実践すれば不可能はない】」


 古い言葉、自分には意味も分からぬ言葉を力強く口にしてから、タレイアは、目をしばたたいた。

 初めて出会ったときに、メラスが口にしていた言葉だ。

 それは今、あまりにも自然に口から流れ出した。

 自分が、この場でなぜ急にそんな言葉を発したのか、タレイアには分からなかった。


「今、のは……?」


 メラスもまた、あっけにとられたようにタレイアを見ている。

 彼は、はっとしたように体をひねって右を見、左を見、周囲をぐるりと見回した。

 その結果は【垂れ耳】と【垂れ舌】と目が合っただけだったが、メラスは、急に背筋を伸ばし、しおれた袋に空気が吹きこまれたように、下がりぎみの眉をきりりとさせて、


「はい」


 蛇の指輪をはめた左手を、かたく握りしめた。


「分かりました。やってみます。……あっ。でも……ああ……だめだ、これは無理だ!」


「貴様、絞め殺すぞ」


 タレイアはふたたび頭を抱えこんだメラスの腕をつかみ、がくがくと揺さぶった。


「何が、無理なのだ!?」


「術に必要なものが揃わないんです」


 顔を上げてきたメラスは、絶望的な表情で首をふった。


「だって……ここには、女性は、あなたしかいません! ()()がいない! あなたは、人妻でしょう!? これでは――」


「私は、まだ、王と夫婦の契りを交わしてはおらぬ」


 淡々としたタレイアの言葉に、メラスは、ぴたりと動きを止めた。


「強き子を得るためにと、最良の日取りをデルフォイの神託所にたずねたのだが、何度たずねても『今はならぬ』という答えしか得られなくてな――」


「おお」


 メラスは青い目を丸くして、骨ばった手でタレイアの二の腕をつかんだ。

 その力の意外な強さに、タレイアは驚いた。


「まさか、この事態を見越して……? さすがは『すべてを知る者』、これぞ神の助け……あ、すみません」


「よい」


 慌てて手をはなしたメラスに、タレイアは、大きくうなずいた。


「急げ!」


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タレイアの覚悟が……! どうにかなるのか……ハラハラ!
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