第21話 「説得」
タレイアは、ちらりとアリストデモスのほうを見た。
アリストデモスもまた、タレイアのほうを見ていて、信じられないというように頭を振ってきた。
怨霊と話をしたがるメラスの態度が信じられない、というようにも、今聞いた話の内容そのものが信じられない、というようにも見えた。
そうだ、信じられない。
スパルタを裏切った罪人であるはずのパウサニアスが、まさか、無実の罪で殺されていたなどと――
『俺は悪くない……何もしていない』
「ええ、ええ、あなたの声、聴こえていますよ……それで?」
メラスは、相槌をうちながら、少しずつ、パウサニアスのほうへ近づいている。
内室の片隅にうずくまった、瘦せ衰え、髪も髭も乱れた男の死霊は、人間を警戒する野生の獣のように、ぎょろりとした目をじっとメラスに据えている。
その目が、先ほどからただの一度もまばたきをしていないことに、タレイアは不意に気付いた。
死霊が、ゆっくりと身動きをした。
骨と皮ばかりの手を、ぶるぶる震わせながら、メラスのほうに伸ばした。
『俺は……確かに、ペルシアに近づいた。スパルタのため……ペルシアは強大……このままでは……』
タレイアは全身全霊をかたむけて耳を澄まし、死霊が語る言葉を聞いた。
確かに、自分はペルシアに近づいた。
それは、ひとえにスパルタが存続するため。
ペルシアは強大で、まともに戦ったとて、決して勝ち目はない。
自分は、ペルシア風の富と享楽に目がくらんだように見せかけ、内通すると思わせておいて、逆に、ペルシア側の思惑と動きを探ろうとした。
スパルタを裏切ろうなどという魂胆は、もっていなかった――
『それなのに……密書……密書があると……』
「密書?」
メラスは不思議そうに繰り返したが、タレイアには、それが何のことかすぐに分かった。
80年前、パウサニアスの逮捕が決まった、決定的な証拠。
ペルシア王から、パウサニアスに宛てた密書。
そこには、パウサニアスがスパルタ側の正しい情報を流したことに対する礼と、見返りに金品を贈り、地位を保証するという内容があった。
その情報は、まさしく正確であり、パウサニアスの裏切りは確実であると思われた――
『違う。違う! ……偽物だ! 俺は、そんな情報は知らなかった……密書は偽物だ! 捏造だ! 奴らが書いた……俺は、言った、何度も……だが、誰も信じない! ……奴らは、俺を陥れた……』
タレイアは、我知らず、ぐっと眉根を寄せていた。
本当なのか?
いや、まさか。裏切者の言葉だ。信じるに値しない。
だが、メラスは「死者は嘘をつかない」と言い切った。
そのメラスの言葉が、真実であるとしたら――
(これは……一体、どうすれば……?)
期せずして、タレイアが先ほどのメラスとまったく同じ言葉を発しそうになった、そのとき、
「それで、あなたは、あんなに怒っていたんですね……」
メラスがそう言って、大きく頷いた。
彼は、少しずつパウサニアスににじり寄り、タレイアの位置からはもはや背中しか見えないが、飛びかかれば相手を殴れそうな距離にまで近づいている。
だが、メラスは両手をだらりと下げ、ほとんど棒立ちに近い姿勢のままだ。
警戒心のかけらもないその態度に、タレイアは焦りを感じた。
もしも、パウサニアスのほうから襲いかかってきたとしたら、なすすべもなくやられてしまうだろう――
だが、パウサニアスは震える手をメラスの顔に向けて伸ばしたまま、動かない。
タレイアは、メラスの背中を見て、その肩が小さく震えていることに気付いた。
(泣いて、いる……だと?)
『おお、おお、お前……俺の、言葉……』
「ええ、聴きました。あんまり、お気の毒で……そうですか、それで、あなたは、あんなに怒っていたんですね……」
タレイアは、さりげなく両手の短剣を握り直した。
それはほとんど無意識の動作で、戸惑いは後からやってきた。
メラスは、パウサニアスに深く同情しているようだ。……もしや、奴の側につくつもりなのか?
そうなれば、自分は、メラスとも戦い、倒さなくてはならない。
できるか?
自分は、それが、できるだろうか?
「パウサニアスさん。僕の言葉を、よく、聴いてください」
メラスは、穏やかな調子で言った。
「僕が、今のあなたの言葉を、皆さんに伝えます。外にいる皆さん、全員に。そうすれば、あなたは裏切者じゃなかったということが、皆さんにも分かるはずです」
『裏切者ではなかった……』
「そうです。一度は穢された、あなたの名が、ふたたび浄められるんです。あなたへの償いとして、毎年、たくさんの祈りや、お酒や肉が捧げられるでしょう」
おい待て、勝手に決めるな、そういうことには決議が必要なのだ、と言いかけて、タレイアはぐっと黙った。
どうやら、メラスはパウサニアスに与するつもりなのではなく、奴を説得するつもりらしいということが分かったからだ。
「パウサニアスさん。あなたは、ながいあいだ、この場所に留まって、苦しんできました。でも、もう、あなたをここにつなぎ留めるものは、ありません。……そろそろ、行きませんか?」
『行く……』
「ええ。誰もが、行くべきところへ」
『行くべきところ……』
メラスが、さらにパウサニアスに近づく。
そして、彼は、古く崩れやすい書物でも持ち上げるような繊細な手つきで、そっとパウサニアスの肘のあたりに触れた。
直接触れたのか、それとも、そう見えただけかは分からなかったが、パウサニアスは、ふわりと立ち上がった。
完全に乾燥した植物の葉が風に吹かれたような、体重の感じられない動きだった。
「あっちです。僕が、お送りします。さあ……」
タレイアは、立っていた位置からじりじりと後ずさり、内室の奥から入り口に向かって少しずつ進んでくるメラスとパウサニアスを通すために道をあけた。
より入り口に近い位置にいたアリストデモスも、同じように息を呑み、ゆっくりと壁際にさがってゆくのが見えた。
タレイアは、とっさに思いつき、視線と手ぶりとで、アリストデモスに鋭く合図を送った。
――『外ノ戦士タチヲ 下ガラセヨ。 邪魔ヲ サセルナ』。
アリストデモスは、すぐに理解したようだった。
彼は、ほんのわずかにためらった――それは間違いなく、タレイアだけをここに残して自分が出ることへのためらいであった――が、すぐに頷き、転がるような勢いで外へ飛び出していった。
ちょうどそのとき、メラスと、パウサニアスが、タレイアの目の前をゆっくりと通りすぎた。
タレイアは反射的に息を止めたが、パウサニアスは、彼女のほうには目を向けなかった。
タレイアの前を通りすぎる、そのあいだにも、パウサニアスのもつれ乱れた髪は急速に色を失って抜け落ち、顔は骸骨のように落ちくぼんでいった。
濃い陰の中から出て、より明るい方へと進んでゆくにつれ、死と共に止まった彼の「時」が進みだし、限界を超えて重ねた年齢そのままに、その姿に刻みこまれていくようだった。
だが、パウサニアスは自分自身の姿の変化にすら気付いていない様子で、片手をメラスに預け、もう一方の手を目の見えぬ人のように前方に突き出し、導かれるままに入り口のほうへとよろぼい進んでいった。
今なら、この短剣を、二振りとも奴の背に突き立てることができるだろう。
だが、タレイアは動かなかった。
この場は、メラスに委ねようと、心を決めていた。
『おお、嫌だ、嫌だ……』
驚くほどに縮んで小さくなった姿で、パウサニアスがか細い声をあげるのが聞こえた。
神殿の入り口の手前で、彼は立ち止まり、むずかる子供のように頭を動かしていた。
「ああ、光が、嫌なんですね。分かります。僕も、明るすぎる光は、好きじゃありません」
メラスが言った。
「でも、安心してください。これから行く道の先には、何も、怖いことはないんです。……いや、僕も、まだ行ったことはないんですけど……師匠が、少しも怖くないって言ってました。僕が、責任をもって儀式をして、あなたが迷わないように、ちゃんとお送りします。さあ……」
そう言われて、パウサニアスはなおもしばらくその場にとどまっていたが、やがて、引きずるような足取りで、一歩踏み出した。
メラスも、その動きに合わせてゆっくりと外へ踏み出し、陽光の強さに目を細め、手をかざした。
『 そ の 指 輪 』
地鳴りのような声が響いた。
タレイアは、一瞬、それが誰の声なのか分からなかった。
メラスとパウサニアスの姿が、一人は濃く、一人はおぼろげな影絵のように、神殿の入り口に浮かび上がっている。
メラスがとっさに目の上にかざした手の指に、宝石のはまった指輪が光っているのが見えた。
パウサニアスが見ているのは、その指輪だ。
『 あの と き の 』
パウサニアスの、地鳴りのような声がひずんで、耳の潰れそうな轟音となって響きわたった。
『よ く も、 俺を、土に埋め込んでくれたなあ!』
(何だ!?)
タレイアが、何が起きたか分からずにいるうちに、か細く小さく縮んでいたパウサニアスの姿が、みるみるうちに元の姿に戻ってゆく。
それだけではない。
黒い影のような、泥水のようなものが、四方の壁から、床の石畳の隙間からわき出して、パウサニアスの周囲に集まり始めた。
メラスが、その場にへたり込むのが見えた。
黒い渦の中から、怒り狂った男の血走った目がぎろりとタレイアを振り向き、
『許さぬ、決して許さぬぞお。この恨み、晴らさずにおくものかあ!』
パウサニアスは、咆哮した。
同時、落雷のごとき衝撃。
目の前で「影」の渦が破裂し、タレイアの視界が真っ黒に染まった。




