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第20話 「嘘」

 タレイアは、すでにもう一振りの短剣も抜いていたが、即座に駆け寄ってとどめをさすべきかどうか迷っていた。

 内室(ナオス)の一番奥のすみに座り込んだその男は、髪をおどろに乱し、伸び放題の髭に膝を埋めるようにして体を縮めていた。

 メラスの術による半透明の縄は、すでに消えていたが、逃げ出そうとする様子もない。

 よく見れば、両手で、耳をふさいでいる。

 まるで、激しい雷鳴におびえる幼児のような姿だった。

 外から容赦なく響いてくる、戦士たちが打ち鳴らす鉄の音を嫌っているらしい。


 タレイアは、まだ、動かなかった。

 とどめを()()()()()()()という判断そのものを迷っているのではない。

 今、仕掛けて、()()()()()()()()()()が分からなかった。

 巨大な黒い影のような姿であったときのパウサニアスには、物理的な攻撃はほとんど効かなかった。

 はたして、今はどうなのか?


 今、目の前で内室(ナオス)の隅にうずくまっている男の姿は、生きている人間と、何も変わらないように見えた。

 80年も前に()()()()()などとは、とても思えなかった。

 ただひとつ、異様に見開かれた二つの目にいっさいの生気がなく、どこか正気を失った者のような雰囲気を漂わせているという以外には。

 その目は、タレイアのほうも、メラスのほうも見ておらず、何もない虚空に向けられていた。

 髭におおわれた口元が、もぐもぐと、わずかに動いている。

 何かを、食べている……?

 いや、違う。

 何か、言っているようだ。

 その声はあまりにも小さく、凄まじい金属音ががんがんと鳴り響く中では、まったく聞き取ることができなかった。


 タレイアは、パウサニアスから注意を逸らさぬようにしながら、横目でちらりとメラスを見た。

 メラスは、自分も片手で耳をふさぎながら、もう一方の手を伸ばして、しきりに神殿の入り口のほうを指さしていた。

 ――『外ノ、音ヲ、止メテクダサイ』。


「アリストデモス!」


 パウサニアスを凝視したまま、タレイアは、背後にいるはずのアリストデモスに向かって呼びかけた。


「外の戦士たちに伝えよ。『静粛に』!」


「……おっ……承知!」


 返答に、一瞬の間があったのは、アリストデモスもまたパウサニアスの姿を見つめ、その一種異様な雰囲気に気を取られていたからであろうか。

 やがて、アリストデモスの号令が聞こえ、外の大音響がやんだ。

 耳が痛いほどの沈黙。

 タレイアは、ほんのわずかずつ距離を詰めながら、耳を澄ました。


『……ない』


 男が、ぶつぶつと呟いている声が、ようやく聞こえてきた。


()()()()()()()()()()()()()


 この瞬間、タレイアの全身を、全身の血液が沸騰するような怒りがとらえた。


「ふざけるな!」


 相手が死霊であることも忘れて、タレイアは床を踏み、怒鳴りつけた。


「貴様、それでも、スパルタの男か!? 今の今まで、自分が何をしていたか、忘れたなどとは言わさぬぞ!」


『俺は悪くない。何もしていない』


「この……!」


「ちょっと、待ってください」


 さらに怒鳴りつけようとしたタレイアを、横から制止したのはメラスだ。


「何だ!?」


「うわ、……ああ、びっくりした。そう、大きな声を、出さないでください」


 長い腕を振って、メラスは続けた。


「あの、ですよ。ひょっとして……つまり、この人が言いたいのは……今のことではなくて、()()()()()()()なのではないでしょうか?」


 タレイアは、一瞬、メラスが何を言っているのか、理解することができなかった。

 80年前。

 パウサニアスは、このアテナ神殿の前で、命を落とした。

 彼は、敵国ペルシアと内通しようとしたかどで長老会に逮捕されることを恐れ、この「青銅の館のアテナ」神殿に立てこもり――

 そのまま、餓死寸前まで幽閉された後、虫の息の状態でおもてに引き出され、そこで、死んだ。


『俺は悪くない。何もしていない』


「何を言う!? ペルシアの金品に目がくらんで同胞を裏切り、敵に与し、見返りで私腹を肥やしたばかりか、露見すると、今度は言い逃れか! 恥を知れ!」


『俺は悪くない。何もしていない』


 タレイアは、自分の頭蓋の中で血管が限界まで膨らむのを感じたような気がした。

 なんという男だ。

 いや、このような者を、男と呼ぶことさえ汚らわしい。

 裏切りの罪を犯したばかりか、それを認めず、死霊となってまでスパルタに害をなし続けるとは何事か。

 タレイアは、汚いものでも払うように手を振った。

 もはや話すことなどない。

 あとは、メラスがこの者を冥府(ハデス)に送れば、それで、一切は終わる。


「やれ」


 短く言って、メラスの動きを待った。

 一呼吸、二呼吸。

 何も、起こらない。

 タレイアは、ゆっくりと――無論、パウサニアスから完全に注意を逸らすことはせずに――メラスのほうを向いた。


「あの」


 メラスは、胸の前の何かをつかもうとするように、おろおろと両手を動かしていた。

 もともと下がり気味の眉が、限界まで下がって、泣き出す寸前のように見えた。


「これ……僕……どうしたらいいですか?」


「『()()()()()()()()()()』?」


 タレイアは、今度こそ自分の頭の血管が切れ、沸騰した血が脳天から噴き上がるのではないかと思った。

 どいつもこいつも、いったい、何を言っているのだ?


「これ、どう……ええと、だから、つまり……あの」


 メラスは、すがるような目で、まっすぐにタレイアを見ていた。


「この人が言ってることが、()()だったら、どうしますか?」


 タレイアは、怒鳴りつけようとして息を吸い、


(……何?)


 そのまま、呼吸を忘れた。

 この男、パウサニアスは、ペルシアの金品に目がくらんで同胞を裏切り、敵に与した。

 敵国ペルシアに、スパルタの情報を流し、その見返りとして受け取った金品で私腹を肥やした。

 だから、長老会に逮捕されることになり、それを恐れて、このアテナ神殿に逃げ込んだ――


 そう、聞いた。

 幼い頃から、大人たちがそう語るのを聞いてきた。

 だから、それが()()()()()なのだ。

 そのはずだ。

 そう、なのだろう?


(騙されるな……パウサニアスは、スパルタを裏切った男だ。また、嘘をついて……)


()()()()()()()()()()()()()んです」


 メラスは、断言し、言葉を失っているタレイアから視線を外して、パウサニアスを見た。

 そして、


「パウサニアスさん!」


 耳の遠い老人に対してするように、大声で、うずくまった男に話しかけた。


「あの、すみませんけど! 僕の声、聴こえますか?」


 もぐもぐと動き続けていたパウサニアスの口が、止まった。

 虚空を見続けていた二つの目が、不意にぐるりと回転し、ひたりと、死霊呪術師の上に止まった。


「ええ、あの、僕は……そう、よければ、僕のことは【(メラス)】と呼んでください。パウサニアスさん、あなたのお話を、僕に、聞かせてくれませんか!」

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