第2話 「遭遇」
* * *
(とは、言ったもののだ)
曇天の下、どっしりとそびえたつアテナ神殿――
それを見上げながら、革鎧に身をかためた王妃タレイアは、腕組みをして顔をしかめていた。
背後では、神殿を取り囲んだ戦士たちが、固唾をのんで彼女の背中を見つめている。
このアテナ神殿は「青銅の館」という二つ名で呼ばれていた。
神殿内部の壁面が、重厚な青銅の板で飾られているからだ。
血塗れになっていたという奴隷の足跡や、したたり落ちた血の痕などは、あたりには見えなかった。
誰かが、急いで洗い清めたのだろう。
(だが、奴隷が血塗れの姿で出てきたということは、神殿の中で、たしかに血が流されたということだ)
神域を血で穢すことは、最大級の禁忌である。
(だというのに……アテナ女神さまは、何の徴もお示しになっておらぬ。不快も、怒りもだ。それでは、この事態は――男たちを殺し、奴隷の正気を奪ったのは、アテナ女神さまご自身だというのか?)
タレイアは、神殿に入った男たちがまだ生きているとは、考えていなかった。
外からの呼びかけにも、まったく反応がなかったこと。
奴隷が浴びていたという、大量の血。
これらからみて、彼らはすでに死んでいる――殺された、と考えるのが自然だ。
野生の獣や、凶悪な盗賊のたぐいが神殿に入りこみ、居座っているのか?
だが、そこらの獣や盗賊が、スパルタの男たちを問答無用で殺すほどに強いとは思えぬ。
やはり、アテナ女神の怒りなのだろうか?
(だとすれば、スパルタの男よりも女のほうが適任であるという、王の考えにも一理あるかもしれぬが)
アテナ女神は、処女神なのである。
だが、だからといって、女に対して手控えてくださるわけではない。
(念のために、先に女奴隷を送り込……いや、やはり、そうはいかんな。一度ならず二度までも、奴隷を先にたてて危地に送り込んだとあっては、スパルタ人は臆したと悪評をたてられても仕方がない。そんなことになっては、スパルタの名誉に疵がつくというものだ)
未知の危険に挑むことは危険だ。
危険であり、名誉なのだ。
他のどの女が、この状況で神殿に踏みこむ勇気を持ちあわせているというのか。
(やはり、これは、私の責務だ!)
「青銅の館におわすアテナ女神よ!」
曇天に高々と両手をさし上げ、タレイアは叫んだ。
「あなたの館に踏み入る私に、どうか、怒りではなく、守りを与えてくださいますよう!
私たちがこれまであなたに向けてきた尊崇、捧げてきた供儀の数々を思い起こしてください。
私を災いからお守りくださり、あなたの館から暗い影を去らせてくださるのならば、スパルタはあなたに手練の乙女たちが織りあげた見事な布地、それで仕立てた衣を捧げます!」
タレイアは両手を腰にやり、革帯にたばさんだ二振りの短剣を引き抜いた。
気合をこめて天に突き上げ、風切り音をたてて振り回す。
背後の戦士たちが、おう、と声をもらすのが聞こえた。
彼らの誰も敵わぬ、二剣使いの技だ。うかつに近づく者は細切れになるだろう。
じゃきんと音を立てて腰に短剣を収めたタレイアは、片手を背後に差し出した。
戦士の一人がすかさず進み出て、槍を手渡す。
彼女の体格に合わせて作られた、愛用の武器だ。彼女の望みで、王から贈られたものである。大地広しといえども、自分だけのためにあつらえられた槍を持つ女は、他になかなかいまい。
盾は持たず、兜もかぶらない。
身の軽さを最大限に生かすためだ。
「王妃様、ご武運を」
「ん」
ささやくような激励に、うなり声で返す。
タレイアは一度だけ背後を振り向き、いならぶ戦士たちのあいだに、夫たる王の姿を見つけた。
かすかに一度うなずいてみせてから、背を向ける。
彼女はまっすぐに石段をのぼり、廻廊の円柱のあいだを通り抜け、前室を通り抜け、閉ざされた神殿の、内室の扉の前へと進んでいった。
(妙だな)
迷いのない足取りを見せながら、頭脳はすさまじい速度で回転している。
(扉を開けて、神官たちが入った。悲鳴があがった。それを聞き、付添いの者たちが入った……そのあとで、いったい、誰が扉を閉めたのだ?)
そこまで考えたところで、扉の前に着いた。
青銅で飾られた、重い木の扉だ。
タレイアは、両開きの扉のうち、まずは片方を開けることに決めていた。両方の扉を一気に開けようとすれば、隙間が開いた瞬間に内側から攻撃されても防ぎようがないからだ。
扉に手をつき、両腕の筋肉がくっきりと盛り上がるほどに力をこめる。
はだしの足を踏んばり、全体重をかけて、扉はようやく鈍い音をたてながら開き始めた。
すばやく身をひるがえし、もう一方の扉を盾にとる。
中からの、不意の攻撃は……ない。
念のために少し下がってから、半開きになった扉の内側――内室の奥へと目を凝らす。
中は、ほとんど真っ暗だった。
もっとも奥にたつ巨大なアテナ神像の姿が、ものの影のようにぼんやりと見えるだけだ。
槍を構え、入口のすぐ手前まで、慎重ににじり寄る。
ここから見える範囲では、内室の床には、何も異変はない――ように、見えた。
死体はおろか、血の跡のようなものも見えない。
(入ってみるしかないようだな)
耳に全神経を集中する。
中からは、声も、足音も、息遣いも……何も聞こえない。
槍の柄を握り直し、意を決して、一歩、踏み込んだ。
慎重に、もう一歩。また一歩……
タレイアの耳には、自分自身の息遣いだけが響き、視界の端には、内室の壁にそってうずたかく積まれた、さまざまな戦勝記念の品が映っていた。
目は、奥のアテナ神像に向けていたが、女神の姿を凝視しているわけではない。くまなく全方位に注意を向け、少しでも動くものがないか警戒しているのだ。
スパルタの戦士たちは、夜道を灯りなしで歩く訓練を受ける。タレイアもまた、同じように自らを訓練していた。ここは確かに暗いが、見えないというほどではない。入口から入る光があれば大丈夫だ。
灯りを持って入ることも考えたが、もしも原因が女神の怒りではなく、何らかの敵であった場合、光は相手をも利することになる。
暗ければ、見えにくいのは相手も同じ。それならば、暗がりでの行動に慣れている自分のほうが――
そのときだ。
神像の向こうで、何かが動いた。
(何――)
雷鳴のごとき大音響がとどろき、周囲が暗闇に閉ざされる。
反射的に振り向いたが、外の光はなかった。
扉が閉まったのだ。
そして、何かがタレイアの背後から飛びかかってきた。