第19話 「アテナ神殿の戦い」
自分が、間違いなく見られたことを、タレイアは確信した。
『顎』に目はない、ように見える。
それでも、相手がはっきりと自分の存在を、その位置と、敵意を認識したことが、感覚で分かった。
だが、タレイアは、もう立ちすくんだりはしなかった。
目を見開き、まっすぐに相手をにらみ返した。
あれは、人だ。元は人だ。倒すべき敵だ。
スパルタの戦士は、いかなる敵も恐れぬ。訓練によって、恐怖を克服する――
「シャアッ!」
気合とともに、一挙動で槍を投げ放つ!
狙い過たず、鋭い穂先が『顎』の巨大な歯にぶち当たった。
硬い音を立てて穂先が横に滑り、槍は激しく震えながら弾け飛んで、床の暗がりに転がった。
(当たった!)
やはり、そうだったのだ。
最初の接敵で、タレイアの槍はすり抜け、王の槍は当たった。
はじめは、気迫の違いだと思っていたが、そうではない。
【歯】だ。
奴は、歯の部分だけが、実体なのだ。
神官たちが首を噛み切られていた理由はそれだ。
奴は、生身の相手に傷を負わせようと思えば、噛みつくしかないのだ――
「させるものか!」
自分でも気づかぬうちに、タレイアもまた歯をむき出し、獰猛な笑いを浮かべていた。
大きく開いて迫ってくる『顎』を前に、一歩も退かず立ちはだかり、片手を高く掲げる。
「応!」
と、すかさず背後から、力強い声が返った。
アリストデモスだ。
タレイアからの合図を受けて、アリストデモスは外を振り向き、
「始めえぃ!」
神殿の入り口――扉の外に向かって、大音声で号令を発した。
たちまち、戦場のような、けたたましい金属音が響きはじめた。
神殿の外で今か今かと待ち構えていた戦士たちが、アリストデモスの合図と同時に、手にした様々な鉄製の武具をいっせいに打ち鳴らしたのだ。
定められたリズムなどなく、各自がてんでばらばらに全力で騒音をたてている。
平時のスパルタでは、ありえないことだ。
刃と刃とを力まかせに打ちあわせる者あり、鍛冶職人の仕事場から運び出した鉄塊を両手に持った串で叩きまくる者ありと、ふだんならば正気を疑われかねない騒ぎである。
生きた人間にとっては単に不快な騒音でしかなかったが、この音が、『顎』に対しては、驚くような効果を発揮した。
今にもタレイアにかぶりつこうとしていた『顎』が、ひるんだように動きを止め、やがて、塩をかけられたなめくじのごとく、激しく身をよじりはじめたのだ。
苦しんでいる。
「効いた!」
「ええ、僕が、言ったとおりでしょう?」
急に自分のとなりから聞こえた声に、タレイアは笑顔を凍りつかせた。
まったく何の気配も感じなかったのに、いつの間にか、メラスが真横に立っていたのだ。
「死んだ人たちは、鉄が打ち鳴らされる音を嫌うんです……まあ、生きている人たちの中にも、この音が好きだという人は、あまりいないと思いますが」
そう言いながら、メラス自身も、指輪をはめた手で片耳をふさいでいた。
「さて、それでは……」
メラスが、おもむろに、もう一方の手を振り上げる。
投げ出すように振られた手の、五本の指先から、蜘蛛の糸のように半透明の縄が噴き出した。
物理的な攻撃はすり抜けてしまうはずの影のような姿に、半透明の縄はぐるぐるとからみつき、実体あるもののように捕らえた。
蜘蛛の糸どころか、それ自体が生きた蛇のように、激しく身をよじる『顎』の全身を這いまわり、締め上げてゆく。
「さあ、どうぞ……あの、これ、けっこう大変なので、はやく決着を」
「言われるまでもない!」
怒鳴ると同時、タレイアはアテナ女神像に向かって突進した。
メラスの術が生み出した半透明の縄に拘束されながらも、『顎』は、タレイアを見失ってはいなかった。
もはや『手』を出すことは不可能と悟ったか、蛭のように全身でのたくり、噛みついてくる。
がちん!
死の咬合を、タレイアは肩口から床に飛びこむようにして一回転し、かわした。
そして、見た――
『顎』、すなわちパウサニアスの黒い姿の足元が、アテナ女神像がまとう衣の下から、生え出るように現れているのを。
(やはり、そこか!)
奴の【歯】が隠されているのは、女神像の足元。
予測していた通りだ。
タレイアが女神像の足元に駆け寄り、衣のすそに手を触れようとしたとき、攻撃を空振りした『顎』が、ぐわっと全身で振り向いてきた。
「おっとっとっと……!」
聞こえてきた情けない声は、メラスのものだ。
どうやら、術で生み出した半透明の縄をもってしても、パウサニアスの動きを完全に抑えることはできずにいるらしい。暴れ馬にようやく手綱をつけても、まだ御することはできない乗り手のように。
「おい!」
もっと力を込めよ、と叫ぼうとしたタレイアの目の前で、迫ってきた巨大な『顎』の歯の隙間から、ぶわっと黒いものが噴出した。
王を倒した、病をもたらす黒い吐息だ。
(いかん!)
タレイアは、とっさに息をつめた。
全身が黒い息に包まれ、視界がさえぎられる。
外で響き続けるけたたましい金属音と、激しい犬たちの吠え声と、その合間に、何か叫んでいるアリストデモスの声だけが聞こえた。
目を閉じるわけにはいかない。
視界がまったくきかぬ中、タレイアは、腰の後ろから二振りの剣を引き抜き、目を見開いて身構え続けた。
息苦しさが、急速に増していく。
直前までの激しい動作が影響していた。
息を止めてから、もう、百ほども数えたような気分だ。限界が近かった。黒い霧に包まれたような視界は、まだ晴れない――
「かはっ!」
耐えきれず、タレイアは息を吸い込んだ。
死んだ獣のような、嫌なにおいが口いっぱいに広がる。それが喉を通り、肺腑に通るのを感じた。
びしり、と、みぞおちのあたりで何かが割れた。
慌てて短剣の一振りをおさめ、衣の中を手で探ると、指先に、硬いものが触れた。
驚くほど美しい正三角形に削られた陶片だ。
その表面には、怪しい記号と文字がびっしりと書き込まれていた。
メラスから渡された護符だ。
その表面に、大きなひびが入っている。
死んだ獣のにおいが、清水の流れに薄れてゆく血のように消えた。
体に、異変は、ない。
メラスの護符が効力を発揮したのだ。
子供騙しのがらくたではないのかと怪しんでいたが、こんなものが、本当に、黒い息を――
「あの、早くぅ! 急いでくださぁい!」
薄れてゆく黒い空気の向こうから、メラスの叫び声が聞こえた。声に、先ほどよりも激しい焦りがにじんでいる。
指でつつかれた巨大な蝶のさなぎのように、『顎』がぐねぐねと全身をよじり、メラスが必死に半透明の縄を引き絞っている様子が見えた。
もう、長くはもちそうにない。
「アテナ女神よ! 失礼をお許しください!」
タレイアはアテナ女神の足元にひざまずき、地面にとどく衣のすそをめくった。
いかなる男であろうと、命を代償にせずにはすまぬであろう不敬だ。
自分が女だからといって、アテナ女神は、果たしてお許しくださるであろうか――
(ない!?)
畏怖を忘れ、タレイアは身を乗り出した。
女神像の、巨大なふたつのかかと。
その手前にも、右にも左にも、あいだにも――目につくところには、歯のようなものは、まったく見当たらない。
暗さのために、自分が見落としているだけか?
それとも、探し求めるパウサニアスの【歯】は、つま先のほうに落ちているのか?
タレイアは、ふたつの目を皿のように見開き、女神がまとう重い衣のすそをかきわけ、持ち上げながら、像の周囲をぐるりと回って探した。
ない、ない、ない――
「あの! もう……あの、すみません! ちょっと、もう……」
「堪えよ!」
うめくメラスに、一言怒鳴って、タレイアは歯ぎしりをした。
もっと、上の方に隠されているのか?
いや、餓死寸前の男に、そんな力は残されていないはずだ。やはり、下だろう。
そのはずだが――
うぉん、と一声吠えて、黒犬たちが駆け寄ってきた。
【垂れ耳】と【垂れ舌】は、タレイアが持ち上げたままだった衣のすそをくぐって女神像に近づいた。
ふんふんと激しくにおいをかぎながら、それぞれ逆回りに女神像の足元を回り、二頭同時に、女神の右足のかかとに取りついて吠えたてた。
(そこにあるだと? だが、何も――)
目を凝らして見ても、何も落ちてはいない。
だが、二頭が頭を横倒しにして、地面にこすりつけるようなしぐさをしているのを見て、タレイアははっとした。
二頭を押しのけるようにして、神殿の床に寝そべり、左頬をべったりと床につけて、女神像のかかとの下をのぞいた。
かかとと、床とのあいだに、指先も入らないほどのわずかな隙間があいている。
隙間の奥は、暗闇で、何も見えない。
「女神よ! 度重なる失礼、お許しください!」
再び叫んで、タレイアは、手にした短剣の切先を隙間に突っ込んだ。
刃を大きく左右に動かすと、隙間のやや奥のほうで、何か硬いものに刃がぶつかる感触があった。
これなのか。
これ以上、奥へ押し込んでしまっては、どうにもならない。
手前へ掻きだすことができるように、慎重に角度を決め、渾身の力をこめて、一気に刃を滑らせた。
がちん! と手応えがあって、何か小さなものが飛び出す。
跳ねとんだそれを、タレイアと、二頭の黒犬たちが、同時に追った。
それは、女神の衣の布地にぶつかって跳ね返り、床の小さなくぼみにはまり込んでいた。
指の先ほどに小さな、片刃の斧のかたちに似た、白っぽいもの。
間違いない!
「【歯】だ! あったぞッ!」
「早く!」
「分かっているッ」
タレイアは床に膝をつき、短剣を逆手に構え、慎重に狙いを定めた。
狙いを誤り、この歯がどこかへ弾け跳ぶようなことになっては、また厄介なことになる。
「早くぅっ!」
「ウオオオオオッ!」
タレイアは逆手に握った短剣を振り上げ、柄頭を思いきり【歯】に叩きつけた。
びしり、と、硬いものが砕ける手応え。
【歯】は、真っ二つに割れていた。
タレイアは【垂れ耳】と【垂れ舌】とともに、急いで女神の衣の下から這い出した。
「おお……」
タレイアは、思わず動きを止めた。
『顎』の姿が、風に吹かれた煙のように激しく揺らめき、薄れてゆく。
巨大な黒い影は、たちまちのうちに小さくなり、凝り固まり――
やがて、内室の隅にうずくまる、やせこけた男の姿になった。