第18話 「突入」
* * *
準備には、ヘリオス神が御する太陽の戦車が中天に達するまでの時が費やされた。
「完了しました」
「よし」
戦士のひとりが報告しにきたとき、タレイアもまた、すべての準備を終えていた。
自分たちの作戦が、成功するにせよ失敗するにせよ、間違いなく言えることは、これが、奴との最後の戦いになるということだ。
タレイアは、目の前にそびえるアテナ神殿を見据えながら、腰の後ろにさした二振りの短剣を確かめた。――よし。愛用の槍のかわりに用意させた、重心のよく似た槍。――よし。
兜と盾は、例によって、身につけないことにした。
いかに、素早く行動することができるか。
この作戦の成否は、そこにかかっている。
「いつでもいけますぞ」
真っ赤な兜の飾りを揺らして、鼻息も荒くアリストデモスがうなずいた。
彼は、重い盾と、槍とを手にしている。生きた人間の男であれば、誰も、今のアリストデモスの前に立ちたいとは思うまい。
「おい、魔術師! そっちはどうじゃ?」
闘志満々のアリストデモスの呼びかけに、
「ああ、はい……はい、大丈夫です。いけます」
例によっていまひとつ気合の入らぬ返答をしたメラスの姿は、これまでと何ひとつ変わったところがなかった。
ずるりと長い、黒っぽい衣の他には、いかなる防具を身につけた様子もない。
あるいは、その下に何かを隠しているのかもしれないが、タレイアには分からなかった。
「よーしよしよし……【垂れ耳】も【垂れ舌】も、よろしく頼みますよ。計画は、さっき伝えたとおりですからね。がんばってください……」
メラスにわしわしと頭を撫でられた二頭の黒犬たちが、のっそりとタレイアの両隣に進み出て、まっすぐにアテナ神殿を見上げる。
自分たちの任務を、完全に理解しているかのような顔つきだ。姿は人間と違っても、共に戦う者として不足なしと思わせる、堂々たる戦士ぶりであった。
タレイアは、思わず手を伸ばし、二頭の頭を順番に撫でた。
もっとごわごわしているかと思った毛並は、驚くほどなめらかで、あたたかかった。
「よし、よし……頼むぞ。そなたらが勇猛な働きを見せれば、褒美に、髄のたっぷりと詰まった牛の骨をやろう。一頭に、一本ずつだ。肉もつけてやってもよいぞ」
その言葉の意味が分かったかのように、二頭はべろりと舌を出して口のまわりを舐め回し、目を細めた。
タレイアは【垂れ舌】と【垂れ耳】の耳の付け根をしばらくかいてやってから、手をはなし、身を起こした。
大きく息を吸った。
吐いた。また吸った――
「始めいっ!」
彼女の号令と同時、アテナ神殿の屋根の上で、凄まじい物音が起こった。
タレイアの指示を受けた十数名の戦士たちが、屋根の上に乗っている。
彼らは、神殿の壁に長い梯子をかけ、地面を突き固めるための道具である「タコ」を屋根の上に運び上げていた。
「そおっりゃあ! そおっりゃあ!」
数名ずつで組になり、重いタコを高々と持ち上げては、渾身の力を込めて屋根に打ちおろす。
気迫のこもった掛け声とともに、ドガン、ズガンと鈍い音が響きわたり、そのうち、バリバリという音が響き始めた。
神殿の屋根を覆う板の一部に穴があき、崩れはじめたのだ。
「いいぞ!」
その様子を地上から見守っていたタレイアは、拳をかためて叫んだ。
昔、この神殿にパウサニアスが立てこもったときにも、同じことが行われたと語り伝えられている。当時の監督官たちは、アテナ神殿の屋根に穴をあけ、そこから、中にひそむパウサニアスの様子をうかがっていたというのだ。
この作戦の狙いはふたつ。
ひとつは、敵の様子を確かめること。もうひとつは――
「危ない!」
タレイアは叫んだ。
戦士たちがあけた屋根の穴から、突如、影のように黒い巨大な「手」がとび出してきたのだ。
泥水が噴き上がるような勢いで出てきた巨大な黒い「手」は、戦士たちを一度に捕らえようとするかのように、屋根の上を大きくなぎ払った。
「ウオオオオッ!?」
反射的にとびのいた戦士たちが、叫びながら落ちていく。
大丈夫だ。
タレイアは息を止め、両手を握りしめながら念じた。
こんなこともあろうかと、刈り取った木の枝やわら、落葉などを、神殿の両脇にありったけ積み上げさせておいたのだ。
全員が首尾よくその上に落ちたかどうか、落ちても無事かどうかまでは、分からぬ。捕まった者も、いなかった、と思う。今は、確かめている暇もない。
「やれ!」
タレイアの合図で、メラスが呪文を唱え始めた。
心なしか、以前よりも語調が鋭く、力強く聞こえた。彼なりの気迫のあらわれか――
それを聞きながら、タレイアは、駆け出した。
閉ざされた神殿の扉に向かって、まっすぐに。
一切速度をゆるめることなく石段を駆けあがり、ますます加速しながら前室を駆け抜けて、閉まったままの扉に、真正面から突っ込む――
その瞬間、激しい音を立てて、目の前で扉が開いた!
「よし!」
タレイアは思わず叫んだ。メラスの術が効いたのだ。
神殿の中は、最初に踏みこんだときとは違い、薄明りに照らされていた。
内室のやや手前、左側に、床まで届くまっすぐな光の柱が落ちている。屋根の穴から射し込んだ光だ。それが、室内全体の様子をぼんやりと浮かび上がらせているのだ。
これが、神殿の屋根をやぶる作戦の、狙いのふたつめだ――
低い唸り声とともに、タレイアの両脇を黒い疾風が吹き抜けていった。
【垂れ耳】と【垂れ舌】だ。二頭は、音も立てずに床を蹴り、今まさにのろのろとこちらに近づいてこようとしていた首のない男たち二人に向かって飛びかかった。
肩口にかぶりつき、石の床に引き倒す。首のない体がばたばたと暴れたが、体の大きい黒犬たちは、押さえ込んではなさない。
「すまぬ! ……あと、一人!」
首のない男たち――もとはスパルタの優れた市民であった――に短く詫びて、タレイアは叫び、
「応ッ!」
重い足音と武具の音を響かせながら突入してきたアリストデモスが、薄い板程度ならば声だけで打ち割りそうな気迫をもって応えた。
「あと一人」――両腕を突き出し、がくがくと揺れながら近づいてきた首のない男の胸に向かって、彼は、まっすぐに槍を突き出す。
「すまぬ、テオクリトス殿! 後で、供え物をするからなぁぁぁ!」
アリストデモスの叫びを背中に受けながら、タレイアは一直線に内室の最奥へ――アテナ女神像へと駆ける。
そのかたわらにうずくまった『顎』が、まっすぐに、こちらを見た。