第17話 「心当たり」
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アテナ神殿からやや離れた鍛錬場に、完全武装の戦士たち30名が集合した。
タレイアとアリストデモスが募り、選抜した面々である。
顔ぶれを見れば、いずれも壮年以上。老年のしきいをまたぎかけた者も多かった。
それもそのはず、今ここにいるのは、いずれもすでに三人以上の息子たちを成人させた者たちだ。
すなわち、若者たちに後事を託し、生還を期せずして戦う覚悟の戦士たちばかりである。
それでも、日に焼け、向こう傷におおわれ、いかなる敵に対しても恐怖をあらわさない戦士たちの顔は、いつになく緊張しているようだった。
今回は、人間ではなく、怨霊を相手の戦いなのだ。これから何が起きるのか、誰にも分からなかった。
「皆、よく志願してくれた」
その輪の中心で、若い娘――タレイアが、重々しく話し始めた。
「まずは、この場の指揮を私がとることについて、皆に了承してもらいたい。
いうまでもなく、皆は私以上に戦に練達した玄人であるが、こたびのように怨霊を相手どる戦いにおいては、誰しもが素人同然である。王妃が戦士たちを指揮するとは前代未聞だが、前代未聞の事態には、それに応じた対処が必要であろう。
私は、この場のスパルタ人の中で唯一、実際に怨霊と相まみえ、勝利はかなわなかったが、奴に攻撃を加えた。そして、私は王から直々に、アテナ神殿の怪異を鎮めるべく力を尽くせとの命を受けている。
これらの点をもって、私が、この場の指揮者に最もふさわしいと考える。皆の考えはどうか? 否か、応か!」
『応!!』
戦士たちの声に、一切の迷いはなかった。それが、タレイアには何よりもありがたかった。
「感謝する」
短く頷き、タレイアは、声を張り上げた。
「では、軍議だ! 委細は省くが、敵の名はパウサニアス。80年前に死に、70年前に『慈悲』の女神たちの塚の下に封じられたはずの男だ」
戦士たちが、一斉に身じろぎをした。
若い者たちのように浮足立って言葉を発することこそなかったが、兜の飾りが揺れ動き、物言いたげな視線が飛び交う。
「これも、委細は省くが、かの裏切者は、怨霊となって地上に舞い戻り、ふたたびスパルタに害をなしているのだ」
タレイアは、戦士たち一人ひとりの目を見据えながら続けた。
「奴を倒す方法はひとつ。アテナ神殿の内部に隠されているはずの、奴の歯……その一本の歯を見つけ、打ち砕くことだ。そうすれば、ここにいる魔術師メラスが、やつを冥府へと送る。ここまでで、何か質問は?」
年長の戦士が、すぐに手を挙げた。
「王妃よ。この数十年、アテナ神殿には、数え切れぬほどの人の出入りがあった。だが、わしだけではなく、誰も、これまでに人の歯などを見たことはない。見た者があれば、必ず、うわさとなったはずじゃ」
「同じく! そんな話は、これまでに聞いたこともありませぬ。清浄なる神殿に、人の歯、それも、裏切者パウサニアスの歯など、とんでもない話じゃ!」
「その通り! そんなものが、本当にあるのか……いったい誰が、そのようなことを言い出したのです? そこの男ですかな?」
全員の目が、一斉にひとつの方向を向いた。
タレイアとアリストデモスの背後に隠れるようにして、黙って立っていた、黒い衣の男――メラスの方にだ。
「そうだ」
「お言葉ですが、その男、信用できるのでしょうか?」
「そうです、胡散臭い、流れ者の魔術師ふぜいの言うことなど――」
タレイアは両手を掲げ、戦士たちの言葉を制した。
「皆の言いたいことも、また、気持ちもよく分かる。皆には、この男をではなく、私を信用してもらいたい」
「どういうことです?」
「この私が、この目で、見たのだ。奴の歯が一本、失われているのをな」
タレイアは、力強く頷いた。
「死霊は、骨に縛られる。歯も、骨と同じようなものだ。死霊の分際で、アテナ神殿に入りこむなどという罰当たりなまねができたのは、奴が、死ぬ前に、神殿の内部にわざと歯を残したから……そう考えれば、筋が通るのだ」
「なるほど……」
「いや、しかし!」
後方から、また別の戦士が声をあげる。
「仮に、神殿の中にパウサニアスの歯があるのは、確かであるとしましょう。しかし、一体、どこに? 『顎』と戦いながら、どこにあるかも分からぬ一本の歯など、発見できるものでしょうか?」
「その通り。神殿の中は、暗闇だと聞いておりますぞ。しかも『顎』にはこちらの槍が通じず、奴の攻撃は、こちらに通じるという。奴は、神官たちの首を噛みちぎったというではありませぬか」
周囲の戦士たちも皆、表情を歪めた。
アリストデモスと同じく、神官たちの中に知り合いがいる――いた者も、多くいるのだ。
タレイアは、頷いた。
「その通りだ。私の槍は、奴の体をすり抜けてしまった」
「槍の通じぬ敵を相手に、暗闇の中で、歯などという細かいものを探している余裕があるとは思えませぬが……」
「そうです。我らが皆、死んで、ようやく誰かが取れるか、どうか……それも、望み薄であると言わざるを得ませぬ」
場に、重苦しい空気が漂った。
スパルタの男は死を恐れぬよう教えられるが、それは、敵と槍を交える戦の中でのこと。
怨霊を相手の、万に一つも勝ち目のないような戦いで死ぬのは、それとはまったく別のことだ。
「むろん、私は、皆を無駄死にさせようというのではないぞ」
タレイアは、微笑んだ。
「それは、指揮官としてあまりにも愚かというものであろう。……私には、心当たりがあるのだ」
「心当たりですと?」
戦士たちがざわめく。
これまで一言も喋らずにタレイアのとなりで腕組みをしていたアリストデモスも、さらにはメラスさえもが、驚いたような顔で彼女を見た。
無理もない。このことは、まだ彼らにさえも話していなかった。
この鍛錬場まで来るあいだにも、どうすればよいのか、何か良い手はないのか、ずっと考え続けていた……そのとき、稲妻が闇を裂くようにして、不意に、思い出したのだ。
「神殿の中で、私は見たのだ。奴は、アテナ女神の神像の後ろから現れた!
これまでずっと人目に触れることがなく、死にかけたパウサニアスが、己の歯を隠すことが可能であった場所。それは、神像の裏手、アテナ女神の足元であるに違いない! 私が、そこを目指し、奴の歯を奪い、砕く!」
「おお……」
「なるほど……場所の見当さえ、ついておれば」
戦士たちの表情に、明るさが戻る。
「わしらは、王妃様を援護する」
アリストデモスが、ようやく腕組みをほどいて、口を開いた。
「三人でな。いや、正確には、わしと、二頭じゃが」
「何ですと?」
目を丸くした戦士たちの前で、はっははっはと機嫌良さそうに舌を出しながら、巨大な二頭の黒犬がアリストデモスのまわりをぐるりと回って、両隣りに陣取った。
むろん【垂れ耳】と【垂れ舌】だ。
わう、と二頭が鳴くのを聞いて、
「いや、何を言う、アリストデモス殿!?」
「そうじゃ! 王妃よ、我らも共に!」
戦士たちが、一斉に叫ぶ。
「これは、私の責務だ」
タレイアは言った。
「皆、考えてもみよ。あのアテナ女神さまの、衣の下を探るのだぞ? 男たちがどやどやとまわりを囲んだのでは、不敬も不敬、スパルタに別の災いが降りかかるかもしれぬではないか」
あっけにとられている男たちに、にやりと笑いかける。
「アリストデモス殿には、事のはじめから終わりまでを見届ける者として、同行してもらう。……武運つたなく我らが倒れたときには、皆に、後のことを頼む」
「しかし!」
「あのような敵を相手に、たった二人では――」
なおも言い募る戦士たちに、
「二人ではない」
タレイアは、穏やかに言った。
「皆には、やってもらうことがあるのだ」