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第15話 「理由」

     *     *     *


 タレイア、アリストデモス、メラスの三人は、アテナ神殿の前で一夜を明かした。


『パウサニアスさんは、どうして、神殿から出て来ないんでしょう?』


 メラスが発した疑問の答えを探るべく、様子をうかがっていたのだ。

 だが、それから一晩のあいだには、ほとんど何も起こらなかった。

 ()()()()というのは、儀式のために連れてきていた黒い羊が、いつのまにか忽然と姿を消すという出来事があったからだが、それは、妙に満足そうな顔で口のまわりを舐め回している【垂れ耳】と【垂れ舌】の顔にふわふわの毛のかたまりが付いていたことで一件落着となった。

 人間たちの話し合いのあいだに、暇をもてあました二頭が、そっと食ったらしい。

 アリストデモスは、槍をかついで地面にどっかと座り込み、二頭の黒犬を横目で――うかうかしていると自分もかじられるのではないかと――警戒しながら座っていたが、やがて、こくりこくりと居眠りを始めた。


「今は、そっとしておいてあげましょう」


 無言のまま、彼を短剣の切先でつついて起こそうとしたタレイアを、メラスが、ほとんど吐息のようなささやき声で止めた。


「筋肉おじいさんは、昼間も、僕のことを、若い人たちといっしょに、寝ずに見張っていました……その前の夜も、あまり、寝ていないんでしょう? 今のうちに、少し、寝かせてあげましょう……」


 メラスの声を聞いているうちに、何だか頭がぼんやりとしてきた、という記憶はある。

 そこで、タレイアも眠ってしまったようだった。

 不安な、とりとめもない夢を次々とみた、ような気がする。

 時と場所とが次々と入れかわり、首だけになった男たちが、生前のままの顔で口々に助けを求めてきたところで、はっと目が覚めた。


(なんということ)


 死霊が居座る神殿の目の前で、得体の知れぬ死霊呪術師のそばで、自分が寝入ってしまったことが信じられない。

 世界は青みがかった薄闇に包まれ、すでに夜明けが近いことを思わせた。

 メラスは、こちらに背を向け、アテナ神殿の前に一人で立っていた。

 その足元には、二頭の黒犬たちが丸くなっていた。

 タレイアは音もなく立ち上がり、足音を消して近づいていった。


「おはようございます」


 メラスが、アテナ神殿をじっと見上げたまま、ひそひそ声で言った。

 タレイアは、ぴたりと立ち止まった。

 あちらの声はかろうじて届く、だが、こちらの手は届かない、絶妙な距離だ。

 二頭の黒犬たちが、薄く開いた目を、ゆっくりと閉じて、ふたたび寝息をたてはじめた。

 タレイアは進み出て、メラスの隣に立った。


「やはり、出てこなかったな。パウサニアスは」


「ええ」


 話しながら、タレイアは、自分が隣にいる男のことを、いまだにほとんど――その能力の片鱗のほかには――知らないのだということを、あらためて意識した。

 いや、()()()()ではない。

(メラス)】という呼び名すら、タレイアが勝手につけたものなのだ。

 この男の正体について、自分は、()()()()知らない。


「そなた、生まれは」


「え?」


 急な質問に、メラスは、青い目をまたたかせた。

 親睦を深めるための問いかけというよりは、尋問にしか聞こえない口ぶりだったが、


「僕の、生まれた場所、ですか? ……さあ。知りません」


 メラスは、タレイアの問いに答えた。

 タレイアが予期していたような答え方ではなかったが。


「知らん、だと?」


「ええ。僕は、捨て子でした。三叉路に捨てられていた僕を、師匠が、拾って、育ててくれたんです」


「師匠か。そなたに魔術を教えた者だな。確か……【万物は秩序の中に位置づけられている。正しい方法を実践すれば不可能はない】」


 メラスは、目を見開いた。


「あなた……今の言葉の意味が、分かるんですか!」


「いや」


 タレイアは片手を振った。


「昨日、そなたが言っていたからな。音だけは聞き覚えた。意味は分からんが」


「ああ……ああ、そうですか。ああ、びっくりした。それは、そうですよね。魔術師でもないのに、古い言葉を身につけている者がいるなんて……」


 メラスは、しきりに頭を振りながら言った。

 その口調は、ほっとしたようにも、どこか残念そうにも聞こえた。


「師匠は、ご壮健か?」


「え? ……ああ、ええ。本当は、今回も、いっしょにここへ来てほしかったんですが」


 そこまで言いかけて、メラスは急に言葉を切り、タレイアを見た。


「すみません。あの、今、僕の話をしてもいい感じですか?」


「何?」


「いや、……あの、スパルタの人は、長い話は嫌いかと思って」


「構わんぞ」


 タレイアは鷹揚な身振りで、先をうながした。

 自由に話させているうちに、相手の情報が、おのずと明らかになってくるかもしれないからだ。

 メラスは、かすかに安心したような表情を見せると、ぽつぽつと話し始めた。


「最近、僕には、悩みがあるんです。ええ、師匠のことで。……実は、師匠が、なかなか会ってくれなくて。僕は、話をしたいのに……」


「そなたも、ひとかどの魔術師であろう」


 タレイアは、つい口を出した。

 本当は、こちらは黙って、相手に自由に話させたほうがよいと分かってはいるのだが、この男の頼りない話しぶりを聞いていると、どうしても、口を挟まずにはいられないのだ。


「職人たちとて、技術を身につければ、少しでもはやく独立したがるという。そなたは、すでにじゅうぶんな術を身につけている。そのように、いつまでも師に頼るものではない」


「ああ、ええ……まあ、そう言われれば、そうなんですけど」


 メラスの眉の端が、ますます下がって、まるで泣き出す寸前の子供のような顔に見えた。


「でも、昔は、毎日のように話していたんですよ。それが、こう、会えなくなってくると……やっぱり、なんというか……淋しいんですよね。今回なんて、ものすごく久しぶりに、ようやく話せたと思ったら、『スパルタへ行け。霊を眠らせよ。王妃と共に』と、こうですよ」


「ほう」


 簡潔な命令だけを与え、弟子を任務に送り出すとは、何だかスパルタ人めいた師匠だ。

 いや、それだけではない。重要なことが、ひとつ分かった。

『王妃と共に』――つまり、スパルタの王妃であるタレイアを指名したのは、メラス本人ではなく、()()()()()()だったということだ。

 だが、そのような魔術師とは、これまでに一面識もないはず。

 なぜ、この自分が指名されたのか、そこにどのような狙いがあるのかは、まだ分からない。もっと、メラスに喋らせなくては――

 一瞬でそこまでを考え、ふとメラスに視線を戻したタレイアは、ぎょっとした。


「泣くな!」


「すっ、すみません」


 メラスは、いつの間にか大粒の涙をぼろぼろとこぼしていた。

 大人の男が、淋しくて泣くなど、スパルタでは決して考えられないことだ。

 黒い衣の袖でごしごしと顔を拭くメラスを、タレイアは何ともいえない気分でしばらく見つめ、おもむろに咳ばらいをしてから、続けた。


「では、生まれはともかく、育った場所はどこだ? そなたの言葉の響きは、このあたりのものではない」


「アオルノスです」


「【鳥のいない地(アオルノス)】……」


 タレイアは繰り返した。

 そこはかとなく不吉な響きのする地名だ。


「ええ。すごく、いいところですよ。大きな死霊神託所があるんです。師匠は、そこの人で。僕も、そこで育ちました。ここからだと、船で……そうですね、シケリア島よりも、もっと向こうになりますね」


 地元の名所を熱心にすすめる旅人のような口ぶりでメラスは言ったが、死霊神託所がある【鳥のいない地】が「いいところ」であるようには、タレイアにはどうしても思えなかった。

 それに、今の話で、かえって分からないことが増えたではないか。

 アテナ神殿の怪異が生じてから、たった一日で、メラスは現れた。

『スパルタへ行け。霊を眠らせよ。王妃と共に』

 師匠は、そう告げたという。

 そんな遠い地から、どうやって、スパルタの異変を察知したのか。

 そして、メラスは、どうやって、たった一日でスパルタまで来たというのか。


「そなたは――」


 言いかけたそのとき、ぱっと黄金の光が射し、タレイアは思わず目を閉じた。

 陽が昇ったのだ。


「よし!」


 メラスが急に叫び、ばたばたと走り出して、アテナ神殿の周囲を覆う石壁にとりついた。


「おい! どうした?」


「【道】を探しているんですよ。ほら、言っていたでしょう、夜に? このあたりに、必ずあるはずです」


 壁に両手をつき、顔を限界まで壁面に近づけながら、メラス。

 その姿勢のまま、じりじりと少しずつ横に移動していく様子は、まるで、壁にとりついた大きな黒い虫のようだ。


「ここのアテナ神殿の結界は、とても強力です。一か所が切れても、全体は、まだ持ちこたえている。普通は、こうはいきませんよ。これほどの結界なら、どれほど強い死霊であっても、破ることができるはずがない。何か、よほど大きな力……地震のように、大地そのものが動くほどの力が働かなくては……」


 そこへ、


「ぬうう! 一生の不覚ッ!」


 熟睡から目覚めたアリストデモスが、憤怒の形相で走ってきた。

 うっかり眠り込んでしまった自分自身に腹を立てているらしい。


「手伝ってください!」


 メラスが叫んだ。


「このあたりのどこかで、石壁に、ひび割れが入っていると思うんです。今まで、誰も気付かなかったくらいですから、とてつもなく細いものかもしれません。ほら、このあたりです。よく見て……」


「何!? そういえば、昨夜、そんなことを言っておったな……だが、この年になると、近くは見えぬッ」


 もともと厳つい顔を、限界までしかめて目を細めながら、アリストデモス。

 タレイアも、メラスが示したあたりの石壁に近づき、壁面に顔を近づけて凝視した。

 指先で表面をなぞり、細かい段差をとらえようとする。

 三人とも無言で石壁を撫でさする時間が続き、しばらくして、


「ああ、これだ……やっぱり、あった! ほら、見てください」


 メラスが、感慨深げにつぶやきながら、指先で、髪の毛のように細いひとすじの線をなぞった。


「ほら、これです。とても細いですが、下まで、ずうっと続いているでしょう? このひび割れは、おそらく、地下を通って、あの塚の、パウサニアスさんの骨が埋まっているところまで達しています。パウサニアスさんは、この、地震で通った【道】を伝って、アテナ神殿に入り込んだに違いありません!」


「ううむ」


 アリストデモスが唸った。


「まだ、信じられん。アテナ女神の聖域に、けがれた死霊が――それも、よりによって裏切者の死霊が入り込むなど、前代未聞じゃ!」


 その声を聞いたとき、タレイアの脳裏に、ふと疑問がわいた。


「待て。……《裏切者》パウサニアスにとって、このアテナ神殿は、かつて縋ったにもかかわらず、助からなかった場所のはずだ。なぜ、そんな場所に、ふたたび戻る?」


 メラスは、タレイアの顔を見返した。


「分かりません。でも、パウサニアスさんが、怒っていることを考えると……復讐したいから、ではないでしょうか?」


「復讐だと? 何に対してだ?」


「自分を死に追いやった、スパルタの人々に対して」


「愚かな! 裏切者には当然の報いだ。己が招いたことではないか! いやしくもスパルタの男ならば――」


 思わずそこまで叫んでから、タレイアは、反射的にアテナ神殿の様子をうかがった。

 だが、明らかに神殿の中まで届く声量だったにも関わらず、何の反応もなかった。


「あるいは……」


 メラスが、わずかに首を傾げながら続ける。


「お縋りしたにも関わらず、自分を守ってくださらなかった、アテナ女神さまに対して?」


「ばかばかしい!」


 今度は、アリストデモスが叫んだ。


「それこそ、恐れを知らぬ大馬鹿者よ。アテナ女神様に対して、復讐を企てるなど! 増上慢(ヒュブリス)きわまりない!」


「もしも……あなたがただったら?」


「何?」


「あなたがただったら、こういうとき、どういう理由で神殿に入り、そして、出て来ないですか?」


 メラスの問いかけに、


「死霊の考えることなど、分かるはずもなかろう!」


 アリストデモスは、ふたたび叫んだが、


「もしや……」


 タレイアは、思いついたことを口にした。


「死んだときと、同じなのではないか? 神殿の外には、我らがいる。外にいれば殺され――いや、すでに死んでいるのだから『殺される』というのもおかしいが――、とにかく、奴は、生前にしたように、神殿に()()()()()()()()つもりなのかもしれん」


「でも、生きているときならともかく、今のパウサニアスさんなら、簡単にあなたがたに勝てますよね?」


 メラスの反論に、タレイアは、言葉につまった。


「だって、神殿の中では、そうだったんでしょう? それなら、恐れて神殿に駆け込む理由も、閉じこもっている理由もない。夜になったら、出てきて、あなたがたを蹴散らせばいいんです。それなのに、パウサニアスさんには、そうしようとする気配がない……」


 しばらくのあいだ、全員が黙りこんだ。

 アリストデモスは、これ以上は何も思いつかぬという表情で、しきりに首をひねっている。

 タレイアも、考えてはみたが、何も思いつかないのは同じだ。

 そこで、途中からは、黙ったまま、メラスの顔を観察することにした。

 メラスは、青い目を遠くへ向けて、ぼんやりと視線を宙にさ迷わせていた。

 しばらくすると、ぽかんと口が開いた。

 スパルタ人の若者がこんな顔で往来に突っ立っていたら、通行人に張り倒されかねない。

 その顔で、彼は、出し抜けに言った。


「もしかしたら……パウサニアスさんは、出て来ないのではなくて、()()()()()のではないでしょうか?」


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