第14話 「分からないこと」
「道、だと?」
「ええ。ここから、こう通って、アテナ神殿へ……」
メラスは自分の足元のあたりを指さしてから、地面をなぞるようにして、指先を神殿の一角へ向けた。
「つまり、そなたは……パウサニアスの怨霊は、鎮められたわけではなく、結界とやらによって封じられていたに過ぎなかったと言うのだな」
「ええ」
「今回の地震のせいで、結界が破れた。そこで、パウサニアスの怨霊は、これ幸いと抜け出し、アテナ神殿に入りこんだ。こういうことだな?」
「ええ、そうです」
「怨霊の封印というのは、地震などで……つまり、物理的な力で、破れるものなのか?」
「ええ、それは、ほら」
メラスは、タレイアたちの背後を指さした。
「ついさっき、そうなったでしょう。僕が描いた防御円を、あなたがたが踏んで、切ってしまった。だから、結界が消えました」
タレイアは、ふうーっと長く息を吐き出した。
メラスの言っていることが本当なのだとすれば、今起きているのは、想像しうる限り、最悪の事態だ。
「実際に、どんなひびが入ったのかは、今は、暗くて、よく見えません。明るいうちには、僕も、気がつきませんでした。たぶん、とても細い、大地のひび割れのようなものかもしれません。明るくなってから、気をつけて見れば、はっきりするでしょう。このことは、明日の朝を待って、確かめることに……えっ、あの……えっ? すみません。あの、何を……?」
「パウサニアスの怨霊を、冥府に送る」
タレイアは二振りの短剣を引き抜き、そっけなく答えると、神殿に向かって大股に歩き出した。
「敵の正体が分かった。居所も分かっている。ならば、もはや待つことはない。
犬どもが先鋒だ。私が、次に斬り込む。メラスよ、そなたが、パウサニアスをやれ。そのために来たのだろう? 決して仕損じるな」
「いや、えっ? あの、ちょっと、待ってください」
「王妃様、わしを忘れておりますぞ!?」
メラスとアリストデモスが、それぞれに慌てて声をあげる。
特にメラスは、これまでになく狼狽した様子を見せていた。
彼はタレイアの手首をつかもうとしたが、刃物を恐れたように、途中で手を引っ込めた。
「――そうか」
タレイアは、不意にくるりと振り向き、メラスに向かって言った。
「戦士たちを呼んだ方がよいと、そなたは言うのだな。だが、この一件は、スパルタの男たちには向かぬ。ゆえに、アリストデモス殿にも、このたびは遠慮してもらおう」
アリストデモスにも頷きかけて、タレイアは、ふたたびアテナ神殿へと向き直った。
「『スパルタの王は、戦場で、戦列の最も危険な位置に立つ。王妃もまた、同様に』――王は、そのように言った。私は、それを受けた。責務を果たさねばならぬ。ゆくぞ!」
「王妃様――」
「いや、ちょ……ま、ま、ま……待ちなさあいッ!」
アリストデモスの制止をかき消して、とんでもなく甲高くひっくり返った声が響いた。
メラスだ。
彼が、これほどの声を――いや、スパルタの基準でいえば大した声量ではなかったが、それでも、これほどの声を出すことがあるなどとは思っていなかったタレイアとアリストデモスは、思わず目を見開いて彼を見つめた。
メラス自身も、青い目を、これ以上ないほどに見開いている。
「あのねえ!」
まるで蟷螂が威嚇でもするかのように、細い両腕を振り回しながら、叫んだ。
「ちょっとは、聞きなさい、人の話を! いいですか!? 僕はねえ、専門家なんですよ、こういうことについては、あなたたちよりもずっと! 今、突っ込んでいったって、無駄に死ににいくのと、同じですよ! 今はねえ、夜なんですよ、夜! 見りゃ分かるでしょう! わざわざ、死霊の力が一番強まっているときに突っ込んでいってどうするんですか、ねえ、あなた!」
タレイアを指さし、唾を飛ばさんばかりの勢いでわめく。
「あなたが死んだら、あなたの夫も、そこにいる筋肉おじいさんも、今生きているあなたとは、もう、会えなくなるんですよ!?」
「――誰が、筋肉じじいじゃっ!?」
不意を打たれたアリストデモスが一瞬遅れてわめいたが、メラスは、意にも介していないようだった。
「そりゃあ、僕のような術を身につけた者がいれば、死んだあなたを呼び出して、話をすることはできます。でも、今話しているようにじゃない。さっき、見たでしょう!? それに、いつでも、いつまでも、話せるというわけじゃないんです。だからですねえ、つまり、生きているうちは、そんなふうに、命を無駄にしてはいけっ、……オホッ、うえっほ」
慣れぬ大声を張り上げたためか、途中から体を折り曲げて、むせ返りはじめる。
タレイアの足は、完全に止まっていた。
「恐れて、足を止める者は、スパルタの戦士にあらず」
アリストデモスが、分厚い両手で、タレイアの両肩をゆっくりと叩く。
「しかし、戦場で、他の者どもならば焦って敵に向けて駆け出すときに、敢えてその場に踏み留まって待ち受ける者は、臆病者ではなく、むしろ肝の太い者と言えましょう。王妃様、ここは、この若造の話を聞くべきかと」
「ゴホッ。ありがとうございます、筋肉おじいさん……」
「貴様、絞め殺すぞ」
アリストデモスに揺さぶられながら、
「あの」
メラスは、タレイアに向かい、前と同じような声で、少しばつの悪そうな顔で言った。
「急に、大きな声を出してしまって、すみませんでした。でも、今は、本当に、やめたほうがいい。パウサニアスさんは、強いです。そして、ものすごく怒っているようです。さっき話した、ええと……テオクリトスさんが、教えてくれました。
それに、まだ、分からないことがある。もっと、よく調べて、考えた上で、世界が明るいあいだに、パウサニアスさんと向かい合ったほうがいいです」
タレイアは長いあいだ、黙ったまま、メラスの顔を見つめていた。
「……分からないこととは、何だ」
「え?」
「そなたが調べようとしている『分からないこと』とは何だ、と聞いているのだ!」
「え、ああ、はい……あのですね、パウサニアスさんが、塚から出てきて、神殿に入ることができたのは、地震のせいで大地がずれ、塚の封印が壊れ、神殿を囲む結界も切れたせいだろう、という話は、さっき、しましたよね」
「ああ、した。二度言わずともよい」
「はい、すみません。で、現に、神殿の結界は、今も、あそこで切れているでしょう? そこが――」
メラスは神殿の一角を指さして言い、
「あ、すみません。お二人の目には、結界は、見えませんね」
指を下ろして、両手で、目の前の何かを包み込むような手つきをしてみせた。
「結界というのは、こう……神殿全体が、悪いものを寄せつけない、厚い幕でおおわれているような感じなんです。その幕が、あそこで、一か所、裂けている」
もう一度、先ほどと同じ神殿の一角を指さして、
「しかし、そこが、分からないところなんです」
メラスは、その手で、わしわしと頭をかいた。
「結界は、切れている。つまり、ずっと開けっぱなしだ。今は夜で、陽の光もない。それなのに、パウサニアスさんは、どうして、神殿から出て来ないんでしょう?」