第13話 「道」
「いや、どのパウサニアスさんか、僕は知りません」
あまりにもあっさりと答えたメラスに、タレイアは思わずその胸倉をつかみそうになったが、両手をわななかせて何とか耐えた。
メラスの表情は、平静だ。ふざけているようには見えない。
「『ペルシアと戦をしたときのパウサニアス』ですか……なるほど、スパルタには、そういう方がいらっしゃるんですね。有名な方ですか?」
「《裏切者》パウサニアス……忌まわしい名だ。敵国ペルシアに内通し、祖国を売り渡そうとした卑怯者よ。このアテナ神殿の前で死に、その死体は、遠く離れた三叉路へ運ばれて捨てられた――」
タレイアは、アテナ神殿の前でパウサニアスが死ぬまでの事のあらましを、手短に、吐き捨てるように話して聞かせた。
メラスは、真面目な顔をしてふんふんと聞いていたが、
「ああ……なるほど」
聞き終えると、大きくうなずいた。
「今のお話で、よく分かりました。そういうことなら、今、アテナ神殿に立てこもっているのは、そのパウサニアスさんで間違いないでしょう」
「ほう? ……もう、80年近くも前に死んだ男がか?」
「死んだ人たちに、時の流れは、さほど関係ありません」
メラスは、タレイアの言葉に、淡々と答えた。
「ですから、ほら、アキレウスさんだって、ヘクトルさんだって、まだまだ現役ですし――」
「ばかばかしい!」
それをかき消すように、アリストデモスが怒鳴り始めた。
「ついに正体を現したな、いやしい詐欺師め! アキレウスだの、ヘクトルだのと、子供だましのでたらめをぬかしおって!」
「え? いや……あの、僕は、でたらめなんて――」
「ばかめ! 貴様は知らなかったようだが、パウサニアスの怨霊は、とっくの昔に鎮められておるわい! 今から、ええ――ざっと70年前にな! その節穴の目で、よく見るがいい。そこにある塚が、動かぬ証拠じゃ!」
アリストデモスは、メラスの衣の首根っこをむんずとつかむと、猫の仔のようにぶら下げて、あ、痛い痛い、乱暴はやめてください、と苦情を言うのもかまわず引きずっていった。
「見よ!」
アリストデモスが、ぐいとメラスの体を突き出す。
その先にあるのは、アテナ神殿の前に並んで建つ、二体の青銅像が並ぶ塚だ。
長年の風雨にさらされ、青銅像の輝きはすっかり失せているが、それが女神の像であることは、見れば誰にでも分かる。
「え? ……あ、はい、見ました。これは、いったい、何ですか?」
「『慈悲』の女神たちの像だ」
タレイアは、意識的に感情を押し殺した声で言った。
「スパルタの者ならば、誰もが知っている。
《裏切者》パウサニアスが死んで10年の後……今から70年前に、奴の怨霊が祟りをなした事件があった。そのときも、スパルタは、デルフォイの神託をうかがった。アポロン神からの答えは『パウサニアスの墓を、その者が死んだ場所へと移せ』――
神託に従い、スパルタは、パウサニアスの遺骨を三叉路からひきあげた。そして、この場所に――奴が命を落とした、この場所に、あらためて埋葬した。塚の上には『慈悲』の女神たちの像を建て、祀ったのだ。神託の通り、それで、怨霊は鎮められた」
淡々と告げながら、タレイアは、自分がひどく落胆していることに気付いていた。
一度は、信じた。この男にかけてみようという気になった。
だが、どうやら、すべてはまやかしだったようだ。
結局、この男は、嘘つきの、詐欺師にすぎなかったのだ。
タレイアは、腰の後ろの短剣を引き抜いた。
「メラスよ、残念だ」
「え? いや、でも」
「黙れ。言うに事欠いて、パウサニアスの怨霊とはな」
「あの……」
「黙れ。そなたは、目と鼻の先の、この塚に、ほかならぬ当のパウサニアスが鎮められているとも知らず、訳知り顔に弁じたてて――」
「え? いや、あの」
メラスは、アリストデモスに首根っこをつかまれたまま、もどかしそうに身をよじって、塚を指さした。
「でも、そこには今、誰もいませんよ?」
短剣を腰だめに引き、メラスの目の前まで迫っていたタレイアの足が、止まった。
「……何、だと?」
「そこには、今、誰もいません。パウサニアスさんは留守です。今は、そっちのアテナ神殿に――あ、【垂れ耳】、【垂れ舌】、大丈夫です。下がっていてください」
タレイアとアリストデモスは、同時に背後を振り返り、息をのんだ。
二人の真後ろに、それぞれ巨大な黒犬たちが音もなく近づき、あんぐりと口を開けていたのだ。
二頭は、べろりと炎のように赤い舌を出して口のまわりを舐めると、急に興味を失ったように、ぶらぶらと辺りをうろつきはじめた。
アリストデモスは、メラスの衣をつかんでいた手を放した。
自由になったメラスは、恨み言のひとつ言うでもなく、塚と、アテナ神殿とを交互に指さしながら、ぶつぶつ言い始めた。
「ああ……あそこが開いているから、あの人は、ここから、こう通って……でも、どうしてこんな……あ、ひょっとして……ああ、そうだ、そうかもしれない!」
「何がじゃっ!?」
ついにこらえ切れなくなったように、アリストデモスが叫ぶ。
「一人で、何をごちゃごちゃ、勝手に納得しとるんじゃ!? わしらにも分かるように、簡潔明瞭に説明せぬか!」
「え? あ、はい……あの、最近、このあたりで、地震がありませんでした?」
「貴様ぁ! 人をばかにしておるのか!? 話をそらすな!」
「地震ならば、確かに、あった」
短剣を鞘におさめながら、タレイアは答えた。
「六日……いや、七日前か? さほど、強いものではなかったが」
「やっぱり」
メラスは、嬉しそうに――としか言いようのない表情で、何度もうなずいた。
「それで、やっと分かりました。地震で、大地がずれた。それで、結界が破れて、道ができたんですよ!」