第10話 「猟犬たち」
メラスが叫んだ、その声の響きが消える前に、それこそ魔術のように暗闇から飛び出してきたスパルタの戦士たちが殺到する。
タレイアがいち早く両手を広げて立ちはだかっていなければ、メラスは、戦士たちが突き出した槍で針鼠のようになっていただろう。
「皆、下がれ」
「王妃様こそ、お下がりください」
ほんのわずかに顔をそらせて、鼻先に突き出された槍をよけながら言ったタレイアに、こちらもほんのわずかに穂先をそらせながら、戦士たちの先頭にいた男が答える。
「我らは誇り高きスパルタの市民。どこの馬の骨とも知れぬ胡散臭い魔術師ごときから、命令を受けるいわれはありませぬ」
やはりな、とタレイアは天を仰ぎそうになった。
メラスの言い方に戦士たちが激怒すると察知したからこそ、瞬時にメラスの前に立ちはだかって庇うことができたのだ。
だが、戦士たちの気持ちは分かるだけに、説得が難しい。
すぐ側にいるアリストデモスも、どう動こうかと迷っているのが伝わってくる。
(ばか者め、調子に乗って、余計なことを言いおって!)
と歯を剥きかけたタレイアの衣の背中を、ちょん、ちょん、と控えめに引く者がある。
もちろん、メラスだ。
「何だッ!」
「うわ、びっくりした。……違います、違います」
噛みつかんばかりに怒鳴ったタレイアに、青い目を丸くして、メラスはぱたぱたと手を振った。
「あの、僕は、何も、本気で、皆さんに命令しようというんじゃありません。ほら、神殿の中にいるものに、聞かせようと思ったんです。あの、ほら、僕が、ああいうふうに大きな声で言えば、相手は、包囲が解かれるんだと思って、油断するかもしれないでしょう?」
タレイアの後ろから訥々と言ってくるメラスを、スパルタの戦士たちは、冷たい半眼で見返した。
「どこかのくそばか野郎が、あんな大声を出さなければ、相手は、俺たちの包囲に気付かなかったかもしれんぞ」
「…………あ。なるほど」
「貴様!」
「もうよいわ」
アリストデモスが、うんざりしたような顔で、ずいと一同のあいだに進み出た。
「ともかく、やらせてみよう。失敗したとて、首なし死体がひとつ増えるだけのことよ」
「え。それって、もしかして、僕のことですか」
「その後で、馬にくくりつけて引き回すなり、道端に捨てて烏に食わせるなり、遺恨を晴らせばよかろう。兵舎に戻れ。何かあれば呼ぶ」
「ええと、あの、それ、もしかして僕の――」
メラスがごにょごにょと言っているのをもはや無視し、戦士たちは、現れたときと同じ速やかさで闇のなかに散り、姿を消した。
武具の鳴る音ひとつ、足音ひとつ立てないのは、日頃の訓練の賜物だ。
「おい――」
「はい、それでは、あなたがたは、ここにいてください。これどうぞ」
ひとこと言ってやろうと口を開きかけたタレイアの手に、メラスが、衣の中から取り出した何かを押しつける。
見れば、驚くほど美しい正三角形に削られた陶片だ。
その表面には、怪しい記号と文字がびっしりと書き込まれていた。
メラスは、アリストデモスにもそっくり同じものを渡し、さらに羊の手綱まで押しつけた。
「何じゃ、これは、気色悪い!」
「羊です」
「違う! この怪しげな代物じゃ!」
「護符です」
衣の中から、今度は細長い瓶を取り出しながら、メラス。
「すみませんが、お二人とも、もう少し、互いに近づいて。絶対に、この線を踏んではいけません」
瓶から地面に謎の液体を注ぎながら、メラスはタレイアとアリストデモスのまわりをぐるりと歩いて、二人を囲む切れ目のない円を描いた。
「おい! これは、何の真似じゃ!?」
「防御円です」
気のせいだろうか? メラスの口調と動作とが、だんだん変わってきているように思えるのは。
まるで、技術をきわめた職人が、目をつぶってもどこに何があるか分かる自分の工房の定位置に陣取ったときのようだ。
「これでよしと。【垂れ耳】、【垂れ舌】、来てください!」
呼ばれた二頭が、黒い風のように駆けてきて、並んで主人の前に座る。
「いいですか? 君たちは今から神殿に入って、中にいる人を、誰か一人、連れてきてください。誰でもいいです」
「待て!」
思わず防御円から踏み出しかけ、危ういところでつんのめって堪えながら、タレイアは叫んだ。
「どういうことだ? 神殿の中には今、生きた人間は誰もおらぬぞ!」
「分かっています」
手短にうなずき、メラスは、二頭の黒犬たちに向き直った。
「気を付けて。必ず戻るのですよ。危ないと思ったら、無理をしてはいけませんよ」
「犬と、喋っておるのか?」
アリストデモスが、呆れるのを通り越してもはや心配そうに呟いたのと同時、
「そらっ、行ってらっしゃーい!」
メラスが叫び、いくつもの指輪をはめた手で、まっすぐに神殿の扉をさした。
魔術師の細い手の先で、神殿の扉が、弾き飛ばされるように開いた。
固く閉ざされ、戦士たちが何人も体当たりを繰り返さなくては開かなかった、あの扉が――
そこへ、黒犬たちが吸い込まれるように飛びこんでゆく。
神殿の中から、激しい物音と、続けざまに吠えたてる声が響いた。
「【垂れ耳】、【垂れ舌】、気をつけよ!」
正三角形の護符を握りしめ、タレイアは思わず叫んだ。
その時だ。
大気を引き裂くように甲高い、耳をつんざく大音響が響きわたり、タレイアとアリストデモスは思わず耳を押さえた。
断じて、フクロウの鳴き声などではない。怨嗟に満ちた絶叫のような――
「よし!」
メラスが叫び、何かを支えるようにずっと突き出したままだった手を引っ込める。
扉の隙間から、【垂れ耳】と【垂れ舌】が、闇の中から放たれた矢のように飛び出してきた。
一瞬後、激しい音を立てて、神殿の扉はふたたび完全に閉まった。
二頭は一直線にメラスのところへ走ってきて、主人の膝に飛びついた。
「よーしよしよしよし! 賢い賢い、大成功! 【垂れ耳】も【垂れ舌】も、とーっても偉いでしゅねえ!」
「なん……」
どうしても聞き捨てならない魔術師の口調に、思わず口を開きかけたタレイアだが、隣のアリストデモスが「うっ」と呻いたのが聞こえ、何事かと眉をひそめた。
そして、タレイア自身もまた、息を呑んだ。
二頭の犬たちをしゃがんで抱きかかえ、よーしよしよし、と激しく撫でさするメラス。
満足げに撫でられている二頭のうち、向こう側にいる【垂れ舌】が、口に、何か、毬のようなものをくわえている。
人間の、頭だった。




