第1話 「アテナ神殿の黒い影」
都市国家スパルタ。
その中心に建つアテナ神殿で、異変が起こった。
早朝、祭儀の準備のために、三人の神官たちがアテナ神殿に入った。付添いの者たちが外で待っていたところ、突然、恐ろしい悲鳴が神殿の中から聞こえてきたのだ。
付添いの者たちは顔を見合わせ、すぐさま神殿の中へと飛びこんでいった。
先に入っていった神官たちは、みなスパルタの生まれ、屈強な男たちである。
それがあのように恐怖の叫びをあげるなど、尋常の事態ではないに違いない――
通りすがりに様子を見ていた者がいたために、そこまでの経緯は、確かに分かっている。
だが、飛びこんでいった付添いの者たちは、いつまで経っても神殿から出てこなかった。
むろん、はじめに入っていった、三人の神官たちもである。
まるで、アテナ神殿そのものが、男たちを飲みこんでしまったかのようだった。
見ていた者が、人を呼んだ。
外から大勢で呼びかけたが、まったく返事がない。
いつの間にか、神殿の扉は閉まっており、中で何が起きているのかは見えなかった。
だが、この状況で、むやみに扉を開けるのも恐ろしい。
何らかの理由でアテナ女神がお怒りになっているのだとすれば、その怒りは、次に扉を開けた者に向けられるかもしれないからだ。
王と長老会にも報せがゆき、武装した戦士たちが、十重二十重に神殿を取り囲んだ。
アテナ神殿は、不気味に静まり返っている。
いったい、中で何が起きているのか――?
* * *
「なるほど」
荘重な館の広間で、金髪の娘は腕組みをし、大きくうなずいた。
たしかに「娘」と呼ぶのがふさわしい若さだったが、彼女には、アテナイ人のいう「娘」らしさは一切なかった。むきだしの腕や肩は筋肉質で日に焼け、茶色の目を細めて相手に向ける顔つきは、ひとかどの戦士のものである。
「いきなり大勢で聖域に踏みこんでは、アテナ女神への不敬にあたる。そこで、中の様子を探らせるために、奴隷を一人、神殿に送り込んだ。そうだな?」
「ああ」
低くうなるような声で娘の言葉に答えたのは、熊のように体の大きな男だった。
娘は立って話しているが、男は大きな椅子に腰をおろし、彼女と向かいあっている。
男の顔にも、腕にも大きな傷痕があり、その面相はいかにも恐ろしげだったが、娘はいっこうに気にしていないようだった。
「なるほど」
と、彼女はまた言って、腕組みをしたまま鼻息を吹いた。
「その奴隷が神殿に入って、しばらくは何事もなかった。ところが、急に恐ろしい叫び声が聞こえたかと思うと、血塗れになった奴隷が飛び出してきた。
戦士たちが問いただしたが、奴隷はうわごとのように『黒い影が、黒い影が』と繰り返すばかりで、それ以上のことは何も喋らなかった。
奴隷の体に傷はなく、その血がいったい誰のものなのかは分からなかった――」
「そうだ」
「なるほど。そこで――次は、私に行けと」
「そうだ」
「なるほど。…………いや。おかしいだろう」
急に軽い口調になり、娘は、あきれ返ったように片手を振りながら言った。
「これは、明らかに尋常の事態ではないぞ。どういう理屈で、私が行けば状況が好転すると思うのだ?」
「奴隷は、生きて戻った」
「確かに、一応、生きては戻ったようだが……」
神殿の中で、いったい何を見たというのか? その奴隷はたちまち高熱を出して泡を吹き、うわごとを言い続け、今もほとんど正気を失ったようなありさまだという。
「あれは、生きて戻ったうちに入るのか? ……というか、だからといって、なぜ私が?」
「この災いが始まってから、アテナ神殿に足を踏み入れたスパルタの男たちは、ことごとく戻らぬ」
娘と向かいあった男は、重々しく言った。
「だが、奴隷は、生きて戻った。それはおそらく、スパルタの男ではないからだ。ならば、スパルタの女も、おそらくは戻るであろう」
「なるほ……いや!? さすがに、屁理屈が過ぎるのではないか、それは? 私まで正気を失ったらどうするのだ?」
「決して正気を失ってはならぬ。スパルタの女の根性を見せよ」
「根性で解決する問題ではないと思うが……」
渋い顔でうなる娘に、男は、おもむろに立ち上がった。
彼がこれまで腰をおろしていた大きな椅子――スパルタの王座から。
「スパルタの王は、戦場で、全軍の最も危険な位置に立つ」
言いながら、王は一歩、進み出て、金髪の娘の肩に手を置いた。
「王妃もまた、同様に」
その言葉を聞いた瞬間、それまでの渋い態度が嘘のように、娘の顔つきが変わった。
静かで、落ち着きはらった、威厳に満ちた顔つきに。
「責務か」
その表情のまま、にやりと笑う。
「なるほど。ならば、やらねばなるまい。
承知したぞ、我が王、我が夫よ! この王妃タレイアが行こう。
見定めてやろうではないか、アテナ神殿の黒い影とやらの正体を!」