いま、幸せですか……
姉貴の会社からの帰りを待ちながら、カーペットの上でうたた寝している数年前のオフクロが目に浮かんだ。
待つべき姉も、もう嫁いだ。
鼻から深く息を吸い込んだ。
懐かしさが鼻をから体中に広がる。
堰を切ったように細切れの記憶が次々と俺を襲う。
親父と言い争うオフクロ。
じいちゃんを亡くしたばあちゃんに寄り添うオフクロ。
小さい俺に運動会への不参加をなじられ、ひたすら謝るオフクロ。
泣きながら「あんたの香典で借金を返してやる」と親父に言うオフクロ。
悪さをして土下座して謝った俺を、温かく抱き上げてくれたオフクロ。
俺の高校最後の試合で、スタンドで似合わぬお揃いの野球帽を被っていたオフクロ。
姉貴の病室で疲れてベッドに突っ伏して眠っていたオフクロ。
姉貴の結婚式で黙って頭を下げるオフクロ。
幼い俺が泣いても、ひらがなを覚える特訓を止めなかったオフクロ。
幼稚園からおもらしをして帰ってきた俺を、優しい笑顔で迎えてくれたオフクロ。
不慣れな土地に越して、初めての場所を俺を自転車の前に乗せて回ったオフクロ。
目を腫らして、俺をびんたしたオフクロ。
ネロとパトラッシュが可哀想で号泣するオフクロ。
弟を産んだオフクロ。
あの頃はまだ若かったね。
この前、久しぶりにオフクロを見た友達が、
「おばさんも老けたよな~」
ってぽつりと言ったよ。
確かに、もう体の線なんて女のそれじゃないけどさ。
一所懸命日焼け止めを塗っていても、もうシミは消えないけどさ。
遠くから見た自転車に乗る姿がおばあちゃんの手前だけどさ。
でも、そんなのどうでもいい。
オフクロ、たくさんたくさん、苦労をかけたね。
オフクロ、たくさんたくさん、一緒に笑ったね。
オフクロ、たくさんたくさん、泣かせたね。
母さん、たくさんたくさん、勉強しろって言ってくれたね。
母さん、たくさんたくさん、他愛もないこと話したね。
母さん、たくさんたくさん、
母さん、たくさんたくさん、
母さん、母さん、母さん、母さん……
俺も今年で三十だ。でも、母さん、あんたとはもう三十一年の付き合いだね。
この世界に出てくる前から俺は母さんと一緒に生きていたんだもんな。
どうりで母さんの香りが懐かしいわけだ、生まれるずっとずっと前から知っているんだ。
お腹の中にいた時からさ、俺は母さんに会いたくて、会いたくてたまらなかったんだろな。
お腹を思い切り蹴飛ばしてさ、届かない気持ちを伝えたくてさ。トントントントン足を鳴らして。
産まれてからはさ、言葉にならない気持ちを伝えたくて必死で笑って、必死で泣いた。
こっち見てくれ!こっち来てくれ!もっと近づいて、もっと抱きしめてって!
最初に話す言葉は「ママ」って決めてたんだけど、「ン」をくっつけちゃって…
「マンマ!」。
俺の最初に話した言葉は「飯」ってことになってるけど、多分、母さん本当はそういうことだったはず。
母さんから絶対に離れたくなかったんだった。
「母さん、今、幸せかい?」
俺は自分の着たセーターをもう一度抱くともなく抱いた。
温かくて懐かしくて優しい空気が冷えた俺の体を包んだ。
完