#4.逃亡
ただ、それだけだった。
少年が、ヒロインの唇を奪っただけ。
目を見開き唖然としているアリス。
呆れたような、苦々しい顔をするレーズン。
頬を抑え「エリクったら」と謎の感情を湛えるロゼッタ。
そしてノアは……一人「きゃーっ」と、乙女のようにはしゃいでいた。
「……それで、何がしたいのよ? そんな見せつけて」
そんな事があったからかわずかの間だけ戦いは止まったが。
それでも最初に声を上げたのはレーズンだった。
舌打ちしながら、先ほどよりも苛立ちを募らせたかのような口調でエリクを睨む。
睨まれたエリクはというと……口元をにやりと歪ませて笑っていた。
「僕のヒロインだから、レーズンさんには手を出させませんよ」
「そういう宣言?」
「そうです。宣言なんです。今決めました」
――なんて身勝手。
それはその場にいた全員が、同時に思った感想だった。
言った当人ですら、そう思っていた。
そしてそれは、有効だった。
「この世界では、僕がヒロインに指定した人は、僕のヒロインになる」
「――貴方っ、世界のルールを書き換えたの!? 今の宣言でっ!?」
「……ははっ、そうですよ。僕にはこれができる。アリスは、もう僕のヒロインだ」
そんな指定をしたところで、何の意味があるというのか。
何の意味もないに違いない。
何故そんな宣言をしたのか。
そう考えると、レーズンは猛烈に頭が痛くなってくるのを感じていた。
――彼は、イカれている。
そう思いながら、ジト目でエリクを睨んだ。
「そんなバカなことをしても意味なんてないでしょうに。アリスはもう終わりよ?」
「終わらせませんよ――ミース!!!!」
それは、唐突な呼び名だった。
その場にいた、エリク以外の誰もが何故そんな事をしたのか解らない。
けれど、その結果はすぐに発生した。
「えっ? あれっ? 私、になんでこんなところに――あっ、エリク君っ!?」
エリクの隣に、突然発生したミース。
本来そんな場所にいるはずのないミースが、エリクに呼ばれた事で出現したのだ。
世界の書き換えによる、ヒロインの扱いの変異。
この世界では今、エリクがヒロインを大きく呼ぶことで、その場にヒロインが現れる『ヒロインコール』ができるようになっていた。
そしてそれは、布石であった。
ミースがそこにいる。
それはエリクにとってとても重要な状況。
他のどのヒロインでも起こすことのできないものを、ミースは持っていた。
「――ごめんミースっ!」
「えっ――」
懐から聖水入りの瓶を取り出し、雑に中身を捨て。
エリクは大きく振りかぶり――ミースに投げつけた。
「ぎゃんっ!? あっ、ちょっ、何するのよエリクく――」
「ごめんよミース愛してるっ」
「ふぇっ!?」
空き瓶をミースに投げつけることで、エリクは瞬時に転移した。
転移には、周囲のごくわずかなものも巻き込むことができる。
エリクが今回巻き込んだのは……アリスだった。
「あ、愛してるとかいきなりそんな……あれっ? 消えてる……?」
「なっ……転移した……?」
「え、エリクが飛んで行っちゃった……」
「アリスもねー、なるほど、このためのミースかー」
残された者達が事態を把握できたのは、二人が転移した後。
「空き瓶ワープ……確か行先は――」
「おっとー! ここから先は行かせないぜー!! 喰らえエキサイトイリュージョン!!」
「ぬぐっ――ノアっ!? お前っ!!」
エリクの行動から、レーズンはそれが空き瓶ワープだと断定し、行先を思い出そうとしたのだが。
その矢先、咄嗟にノアが演奏をはじめ、レーズンは思考を乱されてしまう。
「よりによって、精神操作――厄介な演奏、をっ!」
「きしししーっ、考えたらバレちゃうなら、考えさせなければいいんだよねー! 喰らえーっ」
演奏そのものは軽妙なトッカータ。
鍵盤に変異させた楽器を踊りながら弾き鳴らし、黒い翼をパタパタと羽ばたかせながらレーズンと距離を離す。
上空に舞いながらも演奏には一切ブレがなく、耳をふさごうとするレーズンに「そんなことしないで」と思考変異を引き起こさせる。
「――鬱陶しい!!」
くわ、と目を見開いたレーズンは、時間を停止させて全てを終わらせることにした。
けれど、時を止めても、自分の周囲にある『音』がそれを妨害する。
無数の音の波が無数に襲い掛かろうとしていた。
これに触れずして、この場を通り抜けることは不可能。
(これがあるからこいつら姉妹はやりにくいのよ……音みたいな現象は魔法と違って力で打ち消せないから……)
例え時間を停止させても、その状態で動けば動くほどに演奏の影響をもろに受けることになる。
これをどうすべきか。
思考は既にエリクとアリスがどうこうではなく、目の前の熾天使をどうするか、という点に絞られていった。
それが既にノアの術中にはまっているようで、どこか癪に感じながらも、「この子がこんなに人間に固執するなんて」と、若干の驚きも覚えていた。
「答えは……割と身近にあったか」
本来なら一瞬で考え付く事にも、思考のノイズに邪魔されては中々至れない。
止まった時間の中、レーズン自身も動くことなく思考をフル回転させ続け、ようやく気づいた一点。
ノアを完膚なきまでに叩き潰したアリスが、どうやってそれを行ったのか、である。
「つまり――無視すればいい」
「ふぇっ!? あっ、ちょ――」
時間停止を解除する。
だが、レーズンがどれだけ無視しようと問答無用で演奏の効果は発生する。
思考はノイズまみれになり、何を考えればいいのかは一歩進むごとに解らなくなっていく。
だが、関係なかった。
そう、関係ないのだ。ただ突き進み、目の前の敵を殴るのに、思考など必要なかった。
「――私の邪魔をした自身を呪えっ!」
「へヴぁっ!? ちょっ、これ痛過ぎ――ふぁぁぁぁぁっ!」
その柔らかそうなほっぺたに容赦のない拳が叩きこまれ、涙目になっているノアの左耳を、そこにぶら下がるイヤリングを手で掴もうとする。
流石にそれはまずいと思ったのか、楽器を手放し、耳に向け手でガードしようとするのだが。
「あっ、フェイン――」
「眠ってなさい……っ!」
それはそれ以上の、ノアの演奏を止めるためのブラフでしかなく。
ノアがそれに気づいたときにはもう、ノアは顔面を掴まれ、そのまま地面にたたきつけられていた。
「うぅ……あしどめしっぱい……がくり……」
緊張感のない最後の一言と共に力なく腕を落とし、意識を失うノア。
すぐさまロゼッタがかけつけ、癒してゆく。
「……ふぅ、やっと頭がまともに動くわ」
放っておけばノアはロゼッタが回復してくれるのだから、気にする必要などなかった。
なんで村娘の治癒の奇跡がこんなに効果が高いのか解らないが、数値にして3割ほど割合回復していく超絶高性能な奇跡を使えるこの村娘にかかれば、気絶状態の熾天使など簡単に癒せるだろうと考え。
目の前で起きている光景が理解できず「何が起きてるの」と困惑し立ち尽くすミースを見やりながら「やっぱりあれは空き瓶ワープよね」と思考のやり直し。
(だとしたら、行先は……ブルーベリータワー、いや、『今回』はストロベリィタワーか)
すぐさま行先を把握し、髪を一煽り。
時間を止め、駆けだした。
「――よしっ、やっぱり塔は無事なままだなっ」
一方エリクは、ノアが足止めをしてくれている間に、アリスと二人、ストロベリィタワーに到着していた。
それだけでどうにかなる訳もないが、見慣れたアリスの部屋で一息つく。
「無理よエリク君……いくらここにきたからって、何ができる訳でも……」
レーズンと自分との力には隔絶した開きが存在している。
絶望的過ぎる差である。どう足掻いても勝てる相手ではない。
一度きり、不意を打ったから黙らせることができたが、あくまでそれは一時的。
気分が昂っていたからやらかしただけで、本来のところ、アリスにはどうにかできる相手ではないのだ。
「それでも、僕は君を守るって決めたんだ」
アリスはヒロインである。
それはもう、エリクの中で定義づけられたものだった。
他のヒロインたちと同じだ。決して、他者の手で失われていいものではない。
だからこそ、何が何でも守ると決めた。
決めていたから、アリスを抱きしめる。
「僕は、君の主人公だ。だからもう少し、僕を信じて欲しいな」
「……エリク君」
例え絶望的な状況でも、自分を見放したりしない、絶対的な味方。
そんなものは、アリスには今まで存在したことも無かった。
双子の妹のはずのロイズですら、旗色が悪くなればアリスを見捨てて逃げようとする。
少なくとも過去にアリスは、自身がレーズンに攻撃されようとしているときに、助けてくれる誰かなど、どこにもいなかったのだ。
(嘘みたい……自分が作った存在に、自分が守られるなんて)
例え一瞬でも、エリクは実際にレーズンの魔の手から自身を守ってくれていた。
それはまぎれもない事実だった。
バグと世界改変を利用した、とても褒められた手ではないけれど。
それでも、実際に彼は、自分を守ってくれたのだ。
(こんな日が、来るなんて……私……嬉しいって思っちゃってるわ)
胸が高鳴るのを感じずにはいられなかった。
例え次の瞬間にレーズンが現れ、自分が壊されたのだとしても。
それでも、嬉しいと思えてしまっていた。
だから、アリスはもう、それでもいいかと思えていた。
絶望に勝る幸福が、そこにあったのだから。
「――大丈夫だよ、僕は、僕らは、負けないから」
まだ健在なストロベリィタワー。
そして、自分とヒロインたち。
改変した世界。
後は……あまり期待できないけれど、ドクという謎多き男の存在。
これくらいが、今のエリクの勝算にプラスの影響を与えそうなものたちだ。
「ま、うまくやるよ」
安心させるように笑いかけながら、エリクは思考を巡らせた。




