#3.√ヒロイン:アリス
荒涼とした大地と緑に支配された世界は、消え去った。
これでもう終わり。何も残らない。
また一から世界を創り直すだけ。
ゲームは終わった。また独りぼっちになるだけ。
「――っ!?」
けれど、アリスの目の前の光景は、消えてなくならなかった。
いいや、さっきまで彼女がいた、彼女たちがいた世界は、確かに消えてなくなったのだが。
「世界が……戻った?」
それは、エリクから見ると、むしろ元の世界に戻ったように感じられる光景だった。
牧歌的な村。まだ生きている人々。
地平の彼方まで平和で、破滅など感じさせない、彼のよく知る世界の在り方。
「そんな、どうして――」
「ああ、そうか……またなのか、アリス」
あまりに平和的な世界で、あまりに戦いからかけ離れている光景過ぎて、エリクはつい、笑ってしまいそうになっていた。
そう、これもきっと、アリスにとっての想定外……バグか何かなのだろう、と。
こんな局面でまでそんなことをしているのだから、本当にアリスらしい、と。
だが、当のアリスは、困惑を隠せぬまま、未だ無事なエリクの姿に、長いまつ毛を震わせていた。
「なんでエリク君が、無事なの? 確かに、世界を終わらせたはずなのに」
「実際、さっきまでとは随分違うもんね」
「終わったはずなのよ。なんで……こんな、こと……」
――おかしなことが起きている。
だけれど、なぜそうなっているのか、アリスは自分では思いつけなくなっていた。
心に余裕が全くない。
だから焦りばかりが生まれる。
想定外の事が起きた。だから、何から考えればいいのか解らない。
「はは……ほんとに解らなさそうな顔をしてる」
可笑しくなってしまった。
エリクはもう、必死な顔をしていることもできなくなっていた。
全身から痛みが走るけれど、そんなものは気にもならない。
目の前のヒロインが、とても困ってしまっているのだから。
「消せなかったのはさ、僕だけじゃないよね」
「……なんですって?」
他にも居るし、と、指を向けられた先を見ると、倒れたままの熾天使と、それに寄り添っている村娘がいた。
「大丈夫ですか? 今癒してあげますから……」
「えへへ……ありがと……」
どうやら意識を取り戻したらしいノアに、ロゼッタが治癒の奇跡を使っている最中のようだった。
この二人がここにいることも、アリスの動揺を深めるきっかけとなった。
困惑のまま「なんで」と、小さく呟く。
「――アリスはさ、普通はやらない方法で、世界を創ってたよね」
その疑問に答える様に、半身を起き上がらせたノアが「ふぅ」と息をつきながら声をあげる。
アリスは警戒し槌を構えたけれど、「もういいよ」とノアに手を前に出され、そのまま手が止まってしまっていた。
「同じこと延々繰り返したい? デリートしたはずの世界がなんで無事なのか、知りたくないの?」
「それ、は……」
問われ、確かに知りたいと思ってしまっていた。
いいや、それだけではなかった。
アリス自身が、その心が、「もうやめて」と強く歯止めを利かせていたから。
これ以上自身が傷つくような事をしたくないと、心の方がストップをかけてしまっていたから。
だから、アリスはもう、踏み出せなくなっていた。
「ねえアリス。君はさあ、『新しくスタート』するたびに新規のゲーム世界を立ち上げて、エリク君のデータだけをそこに移してたでしょ?」
「それが、何だというの? そんなの、当たり前でしょ」
「全然当たり前じゃないよ……そんなことしたら、古い世界のデータは残ったままだし、今いる世界をデリートしても、ひとつ前の世界に戻るだけでしょ?」
なんでそれに気づけないかなあ、と、困ったように眉を下げるノア。
そうこうしている間にもロゼッタはエリクの元にも駆けつけ、その傷を癒してゆく。
傷は、瞬く間に癒されていった。
本来なら設定上限をはるかに超えている、異常な回復速度だったが、アリスはそんなものに意識を向けられずにいた。
「ゲーム世界っていうのは、本来元の世界に覆いかぶせるように作るもの……なんでしょ? メリヴィエールから聞いた話の受け売りだけどさ、だから、覆いかぶせた部分を消去すれば、ゲーム世界は消えるもの」
「そうよ、だから私は――この消し方は、『伯爵』に教わった通りで――」
「でも、この『世界』は違うじゃん? 『世界』そのものをゲーム世界に変貌させてるものだから、同じ方法では同じ結果にはならないんだよ、きっと」
変な話だよね、と、立ち上がるノア。
黒い翼はゆらゆらと揺れ、軽く羽ばたくと、柔らかな風がエリク達の頬を癒した。
「君がさっき消したのは、幾枚も作った『膜』の一つ。そして君は何度も何度も……呆れるくらいに世界の膜を増やしていったんだ。ゲーム世界ではない、現実そのものを、いくつもいくつも」
「……まさか」
「いい加減気づいた? 君がこの『世界』を消したいなら、君が増やした分だけ、デリートをし続けなきゃいけないんだよ。世界だけじゃなく、増やした者達を、その分だけ」
それは、本来のアリスなら何のためらいもなく実行に移せるもののはずだった。
平素、何の気兼ねもなくゲームとして捉えていたなら、何の迷いもない、ただ手間が増えただけの事である。
だけれど、今のアリスは違っていた。
目の前の、エリク一人。彼を無かったことにするために、心に傷ができるかもしれないと思いながら、それを消し去ろうとしていたのだ。
そうすることで、元に戻ろうとしていただけだった。
「……何度、繰り返せば」
「そんなの私にだって解らないよ~ でもさあ、アリス? 君はたった一つの世界を消すだけで、泣いちゃうくらいに辛い思いをしたんだよね?」
アリス自身は意識はしていなかったが。
ノアから指さされ、アリスは自分の頬から涙が流れているのに初めて気づいた。
泣いてしまっていたのだ。余りに辛すぎて。
「少年、君は何度生きたの?」
「……百回以上は軽く生きてるはずだよ。でも、たったの百回さ」
アリスから見れば、実に短い時間の間の出来事。
些末な日々。つまらない時間の流れに過ぎない。
悠久の時を生きられる『魔王』であるならば、それこそこの数億倍の時間を経過しても尚「一瞬だった」と思えるほど、それは短い時間の間に起きた事のはずだった。
たった百回の、自分の主人公の死と、世界の崩壊を見るだけでそれは達成される。
「――無、理」
これまでの自分のしてきたこと。
そして、自分の心を守るために自分がしてしまった事。
それが途方もない事だと気づき、アリスはわなわなと唇を震えさせ……やがて、膝をついた。
「無理よ……たったの一回でこんなに辛いのに、こんなの繰り返すなんて、無理だわ……っ」
やっとの想いで押したデリートのスタートが、その一回に過ぎなかった事。
これから何度もそれを見なくては達成できないという事。
そうまでして得られるのが、自分の心の傷でしかないという事。
アリスはもう、解ってしまった。
そんな事しても、何の救いにもならないのだと。
だってもう、自分はこんなにも、目の前の少年に入れ込んでしまっているのだから。
「終わりだよアリス。もうやめよう。僕は、君の事が好きなんだ。大事なんだ。こんな事で自分を傷つけるのは、もうやめて欲しいな」
「……だって、そうしないと。今までの私が、変わってしまうわ」
大好きだった少年が、青年になり、絶望しながら死んだ。
自分の事なんて全く顧みることも無く、バカみたいな死に方をして。
それでも、そんな彼の事が好きだったのだ。
好きだった自分を失いたくなかった。
それが唯一と言っていいほどの、在り方になったのはいつからだったか。
「変わってしまっていいじゃないか」
だけれど、目の前の少年は笑っていた。
彼はまだ、生きていた。
死んでしまった想い人と違って、彼は屈託なく笑って、自分に手を差し伸べていた。
「だって、人間は変わるものだよ? その、アルフレッドだって、君と出会ってから死ぬまで、変化がなかった訳じゃないんだろう?」
「それは……でも、私は人間じゃなくて――」
「関係ないよ。君は僕のヒロインだ。だから、変わったっていいんだ」
化け物だろうと『魔王』だろうと、目の前にいるこの子は、自分のヒロイン。
エリクはそう考えていた。
何だってよかった。
何せネクロマンサーやら竜族やらまでヒロインにできるのだ。
今更問題児が一人二人増えたところで気になんてならない。全員愛するくらいの懐の深さは見せたいところだった。
「私が、変わったら……変わったら、この傷は癒えるの……?」
「解らないけど、癒えるかもしれないよ。あるいは、傷は傷のままかもしれないけど、でも」
「でも……?」
「でも、また立ち上がれるようになるかもしれない。笑って、歩き出せるようになるかもしれない」
一人では無理な道も、二人なら。
そして仲間たちと一緒なら。
それは、弱き者の発想だった。
アリスのような、『魔王』のような強き者が自力では至れない、一つの真実だった。
だからこそ、エリクは気づいて欲しかったのだ。
「僕は、ミルフィーユさんから学んだんだ。自分の在り方を。どんな自分が最高なのかていうのを」
「……なにそれ」
「僕にとっての最高は、皆と在る生き方って事さ」
――そしてその皆の中に、君もいるんだよ。
笑いながら差し出された手を掴み、なんとか立ち上がり。
けれどやはり唖然としたまま、アリスは「変なの」と、ぽつり呟く。
「ぷっ……確かに、変っていうか。少年さぁ、割と悪食だよねぇ?」
「悪食……?」
「節操なしっていうの? まあ、いいけどさぁ。こんな場面でそんな事言う普通? ぷぷぷ……いやあ、感動的な場面になると思ったのにさあ」
シリアスな話になっていたはずなのに、ノアはまるでギャグシーンであるかのように笑いだす。
やがて我慢できなくなったのか、腹を抱えながら「それはないよぉ」と笑い転げ始める。
「……ねえエリク君」
「なんだい?」
「こいつ殺していい?」
「殴るくらいなら許されるかもしれないね」
「ちょちょちょっ! 謝るっ、謝るからぁっ」
それはやめて、と、手を前に突き出し、翼で身を守る様に前面を包みながら、ノアはいやいやするように首を振っていた。
「はあ……もう、いいわ」
ノアのあまりのバカさ加減に毒気が抜けたのか、さきほどよりはアリスの表情から厳しさが薄れ始めていた。
割り切れなどしない。
けれど、受け入れるしかない現実を目の当たりにしていた。
自分はもう、この世界を消すことなんてできないのだと。
何せ、安心してしまっていたのだ。
まだ消えていないこの世界に。まだ生きている、目の前のこの少年に。
(人間の事は解らないままだけれど……でも、この子が目の前にいると、こんなにも安らぐ)
傷がふさがる事なんてない。
ずっと傷ついたまま。苦しむことも、嫌な気分になる事もあるだろう。
でも、今までずっとこの少年を見ていて、アリスは確かに癒されてもいたのだ。
楽しいと思えていた。愛おしいと感じられていた。
だから、消し去る事なんて、できないと思ってしまっていた。
失いたくなかったのだ。もう、二度と失いたくないと。
「……エリク君。私、ね」
――謝ろう。きっとこの子なら受け入れてくれる。きっと、またやり直せる。
そうして今度こそ、楽しい日々を。幸せな日々を。
アルフレッド君とは過ごせなかった日々を、エリク君たちと――
雪解けし、温かな水が心の中に流れ始めていた。
傷はそのままだけれど、それでも、凍り付いた時が動き出したように思えたのだ。
よかったと、終わりにならなくてよかったと、そう想いながらアリスはエリクに手を伸ばし――
「――お前にハッピーエンドなんて、迎えさせるわけないじゃない」
――そうしてアリスは、見てしまったのだ。
蘇った悪鬼の姿を。
怒りに震える拳を、今すぐにでも自分に叩き込んで来ようとする、人類の中の化け物の姿を。
目に見える距離は200メートルは先だった。
けれど、レーズンにとって200メートルとは、0に等しい。
「死ね」
気が付けば目の前にその姿があり、拳が迫り。
アリスはまた、レーズンに壊されようとしていた。
(……ははっ、結局、自分のしたことの所為で、こんなことになるなんて)
バカみたい、と。
何一つ生み出せなかった自分がバカバカしく思えたけれど。
それでも最後、自分を殺そうとするレーズンではなく、驚き、何かしようとしていた少年の姿を目に焼き付け――
「――だめだぁっ!!」
「なっ」
「ぐふぁっ!?」
「きゃぁぁぁっ!?」
――そしてその少年が、割って入って来てレーズンに顔面を殴りつけられていた。
間に合うはずがなかった。
光よりも早い、時間を超越した拳である。
レーズンにはそれができる。レーズンにとって時間など、ただ利用する道具に過ぎない。
『魔王』であることすら関係なしに、生まれ持っての能力でそれができてしまえる。
それが、レーズンの属する『ハーニュート人』という人種の特徴なのだから。
今の攻撃にしたって、目視できたのはあくまで彼女が目視させたかったからそうしただけで、予備動作も何もかも視認させずに突然目の前でモーションを見せたそれを、アリスはかわせるはずもなかった。
けれど、エリクは割って入ってきた。
そして受け止めきれずに吹っ飛び、アリスともども吹っ飛んだ。
「――エリクっ!!」
すぐにロゼッタが駆けつけてくる。
まともに喰らえば人間なら即死モノの一撃だが、幸いエリクは死んでいない。
死なない設定にしてよかったと思いながら、アリスはふらふらと頭を揺らし立ち上がる。
「バカなことを。こんな奴かばったっていい事なんて何もないでしょうに。自分の人生を翻弄した奴をかばうなんて」
「……レーズン」
「そりゃ、かばうよ……ロゼッタが誰かに襲われてたら絶対に守るよ僕は。ミースだって、ステラだって、クレアモラさんだって……勿論、アリスが襲われてたって、僕は守るさ」
ロゼッタのおかげですぐに意識を取り戻し、エリクは立ち上がってレーズンを睨みつける。
「でもレーズンさん。貴方はだめだ。だって貴方は僕のヒロインじゃない。そういう生き方、かなぐり捨てちゃったでしょ」
「私にはもう役が無いからね。そして私から生きる場を奪ったこいつを、私は絶対に許さない」
「だろうね。そんな感じだもんね。なんだか、来る気がしたんだ。レーズンさんはきっと、アリスを殺しに来るって」
自分ではどうにもならなくとも、最悪レーズンならなんとかするかもしれない、くらいの感覚で、どちらかといえば援軍みたいなつもりで期待していた存在ではあったけれど。
でも、必要なかった。
それどころかむしろ、邪魔だった。
「アリスを殺すというなら、僕が黙ってる訳がない」
「やめておきないエリクさん。貴方とは戦う気はないわ。バカバカしいもの」
レーズンの視線はあくまでアリスに向いていた。
目の前の少年など、殺す必要すらない。
ただアリスを殺すだけでよかった。それしか求めていなかった。
「――邪魔しないで頂戴。私はアリスを殺して終わらせる。その後にエリクさんが『魔王』になりたければなればいいわ。『魔王』になれば、アリスを蘇らせることだってできるでしょう。アルフレッドの時と違って、ゴーレムなんていくらでも作れるでしょうからね」
簡単よ、と、悪く嗤いながら。
レーズンは再び、拳に力を込めていた。
「エリク君、無理よ……無理しないで。私、これ以上貴方が傷つくのは――」
「アリス。僕を信じておくれよ。僕はね、こう見えてとても強いんだ。なんでだか解るかい?」
「今はそんな事を言ってる場合じゃ――」
「僕はね、僕だけで生きる訳じゃないから、強いんだよ」
レーズンなど眼中にないとばかりにロゼッタに、そしてアリスに笑いかけ。
そうして、困惑するアリスの顎に手をあてがい――おもむろにキスをする。
「――えっ」
「これで、アリスは僕のものさ」
――絶対に奪わせない。
覚悟を決め、少年は『魔王』と対峙した。




