#1.気が付けばそこにいた
真っ白な日差しが瞼に突き刺さる。
眼を閉じていても解る赤と白のプリズム。
「う……」
眩しくて、手で遮りながら、恐る恐る瞼を開いていく。
痛い。陽射しが痛い。目がしばしばする。
辛いなあと思いながら、なんとか眼を明るさに、その刺激に慣らす。
「……あれ?」
強い陽射しの所為できっと外なんだろうと思っていたのに、そこは見慣れない部屋。
光は窓から入ってきていて、丁度僕の顔に当たるようにカーテンが開かれていた。
簡素なベッドの上に横たわっていた。背中や腰の下ががさがさするのは、ベッドが古びているからか。
眼をこすりながらに上身を起こす。胸につけていた緑の石のペンダントが揺れる。
ずっと眠っていたためか、一瞬、びく、と、背筋が震えた……気がした。
ちらちらと見渡すも、どうやら寝るためだけの部屋なのか、余計なものは置かれていない。
ベッド以外には小さな棚と、その上に赤い花が活けられた花瓶が置かれているだけ。
酷く、喉が渇いていた。
僕自身、何故こんなところにいるのか全く解らない。
ただ、全身、あまり力が入らず、お腹がすごく空いている気がする。
喉はカラカラで、視点もどこか揺らいでいた。かなり不味い気がする。
「あっ――」
がちゃ、という小さな音と共に、部屋のドアが開かれ、赤いエプロンドレス姿の女の子が入ってきた。
驚いたような顔で、僕の方を見つめている。
「良かった、ずっと起きないから、もうダメなんじゃないかと――」
何か物騒なことを呟きながら、とてとてとベッドの脇まで寄ってくる。
首の後ろで赤いリボンにまとめられた亜麻色の髪が揺れる。
顔立ちや背丈から、僕とそんなに変わらないか、ちょっと下くらいの歳の子だろうか。
ヘーゼルカラーの瞳は優しげで、はにかむその顔は可愛らしい。
「あの、ごめん、僕、喉が渇いてて――」
「あ、はい、お水ですね、すぐ持ってきますっ」
そんな女の子との出会いだったけれど、喉のイガイガはなんとも堪え難く。
情けない事ながら、自己紹介の前に水を求めていた。
「んく……くっ――ふぅ」
大き目の木のコップに入った水を一気に飲み干し、一息つく。
おなかは空いているけれど、とりあえずこれでまともに話せる。
「ありがとう……その、いきなりでごめん。君は?」
「私はロゼッタ。この家は、私の家なの」
自分の名前も名乗らずに聞いてきた僕に、だけどこの子は怒りもせず、にこにこと微笑みながら名前を教えてくれる。
なんとなしに、感じの良い子だと思った。
「ロゼッタ、その……僕は、エリク」
自分の名前。どう教えようか一瞬迷って、なんとなく浮かんだ言葉が出てくる。
「エリクさん?」
「呼び捨てで良いよ。どうせ大した名前じゃあない」
何故そんな事を口走ったのか解らないけれど、僕にとってその名前は、確かに大したものじゃないように感じた。
「素敵な名前だと思うけど。でもエリク。何故、あなたはあんなところに倒れていたの……?」
話は先に進む。僕が何故ここにいるのか、という疑問は、そう掛からずに解りそうだった。
「倒れていた? 僕が?」
「ええ。三日も前の朝の事よ。うちの前の畑で倒れていて……私、お散歩している時に見つけてびっくりしちゃって」
なるほど、ロゼッタの言うとおりなら、僕は行き倒れたか何かしたのだろう。
残念ながらそうなるまでの経緯には全く覚えが無いけど、そういう事なら仕方が無い。
「畑で倒れてるって、なんか情けないね……なんでだろう?」
「それは私が聞きたいの……」
とぼけた風に笑ってると、ロゼッタは困ったように眉を下げる。
「……ごめん。ほんとは事情とか説明しないといけないんだろうけど、実は名前以外なんにも覚えてないみたいなんだ」
大人しく白状する事にした。
この子はきっと、善い子だ。誤魔化すのもなんとなく忍びなかった。
「名前以外……? その、それじゃ、エリクっていう名前以外は、なんにもわかんないの?」
一瞬驚いたように眼を見開いていたロゼッタは、すぐにずずい、と僕の顔の近くまで寄ってくる。
視線と視線とが交じり合い、なんとも恥ずかしい。ロゼッタは、可愛いのだ。
「うん。思い出そうとしてるけど、どうにもはっきりしないんだ。なんで畑に倒れてたのかも解らないし、そもそもなんでそんなところに居たのかも思い出せない」
嘘はついていない。記憶を失っているのは間違いない。
何せなんにも浮かばないのだ。自分がここにいる事の理由になりそうな何かが、なんにも浮かばない。
「そんな……私、記憶喪失って、物語の中だけのお話なんだとばかり」
口元に手を当てながら困ったように眉を下げるロゼッタ。
視線はうろうろとしていて、目に見えて対応に困っているのが解った。
「自分でも驚いてるんだ。記憶を失うって、すごく大変な事のはずなのに……なんか、妙に落ち着いちゃって」
特に悲観もない。絶望もない。むしろ、この子の前だからか、妙に取り繕おうとしている自分が居た。
そんな大したことじゃないんだよ、気にしてないんだよ、と、気を遣いたかったのかもしれない。
「それじゃ、これからどうするか、とかも、考えてないの?」
顔の位置はそのままに、ちょっと不安げに見つめてくるロゼッタ。
顔が近い。ちょっと恥ずかしくなって、そっぽを向きたくて窓の外を見てしまう。
「うん、まあ、まずは状況の把握から始めたいなあって思うよ。ロゼッタ、ここって、どこかの村とか町なのかい?」
「ここはラグナっていう村よ。シュリンの街からは馬車で三日くらいの場所」
解る? と、顔を傾けながら。
「……解んないなあ。聞いた事も無い」
いや、もしかしたら知っているのかもしれない。
だけど、村や街の名前を聞いてもピンとこない辺り、完全に忘れているんだと思う。
「ごめん、時間が掛かりそうだ。でも、とりあえず、もう大丈夫だから――」
これは重症だと、自分の不味さにいよいよ気づき始めて、ようやく絶望しそうになる。
だけど、そんなところは女の子に見せたくなかった。
「エリク……? やだ、何を……」
だから僕は、ベッドから降りようとする。足を付けば、なんて事も無く立ち上がれ――
「――!?」
「きゃっ」
膝が急に曲がる感覚。
どさ、という情けない音と共に、僕は倒れてしまった。
その、ロゼッタも引き倒しそうにしながら。
「だ、大丈夫!? そんな、いきなり立とうとするなんて――」
足に、全く力が入らなかった。いや、足だけじゃない、腰も膝も盛大に笑っていた。
「重ね重ね、ごめん」
ロゼッタに支えてもらいながらなんとかベッドに座りなおす。すごく情けなかった。
「ずっと眠ったままだったのよ? いきなり立つなんて無理よ」
心配そうな顔で見つめてくるロゼッタの顔をまっすぐに見られない。恥ずかしい。
「……無謀すぎでした」
「うん。とりあえず、何か作るから。きっとお腹も空いてるだろうし、ゆっくりと時間を掛けて休んでいて」
立つのはそれから、と、人差し指を立てながらじ、と見つめてくる。
今まで感じた事も無いようなくらいに暖かで、やさしい空気。
「ありがとう、ロゼッタ」
かっこいい言葉の一つも出てこない。
部屋を出ていくロゼッタに向けたのは、ただ、感謝の言葉のみだった。
「ロゼッタは、どうして僕を助けてくれたんだい?」
ロゼッタが運んできてくれたミルク粥を木のスプーンで飲みながら、僕はそんな疑問を口にする。
「だって、そのままだといけないと思ったから。声をかけても反応が無かったし、行き倒れの人だったら大変だと思って」
やっぱりというか、ロゼッタは人が善い。
見知らぬ男を助けるなんて、年頃の女の子にはちょっと勇気がいることだと思うけど、この子はそれを何の不思議も無くやっている。
なにせ、助けた相手がまっとうな人間とは限らないのだ。もし賊や詐欺師の類だったらどうするつもりだったのだろう。
おかげでこうして僕は助けられた訳だけど、同時に危うくも感じてしまった。
何故だろう、ロゼッタの反応を見る限り、多分初対面のはずだし、まだ出会ってからほとんど経ってないというのに。
妙な事を気にしてしまうのは、もしかしたら記憶を失う前の僕の悪い癖だったのかもしれないけれど、それにしても、女の子相手だと照れくさい。
「その、君の家族とかは、僕を助けるの、反対しなかったんだね」
「村の人は反対したわ。『こんな時期に畑に忍び込むなんて作物泥棒に違いない』って。うちの畑には雑草と岩くらいしか生えてないのにね」
変な話でしょう、とくすくす笑う。
だけど、どこか寂しそうでもあり、そんな表情が眩しい陽射しに照らされて綺麗だった。
「この家ね、私しかいないの。お父さんは戦争に召集されて、村の、他の男の人達と一緒に……お母さんは、お父さんが戦地に行ってる間に病で死んじゃって。だから、この家にいて誰かに文句なんて言わせません」
安心してね、とはにかむけれど、そんな事を聞かされて笑って返せるはずも無く。
「ごめん、あんまり、そういうの気にしてなくって」
謝るくらいしかできなかった。
ほとんど見ず知らずの女の子の、辛いかもしれない過去に踏み込んでしまった気がしたから。
「ううん、大丈夫。村の人達もよくしてくれてるし、お金だけは、お父さんが送り続けてくれてたから……意外と、生活には困ってないんですよ?」
気にしないで、と、のほほんとした顔でフォローしてくれるロゼッタは、もしかしたら本当に気にしてないのかもしれないけど。
だからといってそれを本当にそのままの意味で飲み込めるほど、僕は楽天家ではなかった。
「ごちそうさま、美味しかったよ」
結局気まずくなって、そのままミルク粥を食べるばかりだった僕。
だけどそれももう無くなって、またロゼッタの顔を見る。
「お口に合った?」
「うん。今までにないくらい美味しかった」
お世辞でもなんでもなく、本当にそう感じた。
お腹が空いてたのもあるんだろうけど、きっとこの村に来るまでの僕はロクなものを食べてこなかったに違いない。
案外、村人がこの子に言っていたように、本当に作物泥棒か何かしようとして行き倒れたのかもしれないとすら思えた。
「――よかった。本当ならもっとちゃんとしたものを作ってあげたかったんだけど、お腹が空きすぎてる時って、あんまり重いモノを食べると逆に良くないって、本に書いてあったから……」
「そうなんだ。ロゼッタは物知りなんだね」
彼女の言う『ちゃんとしたもの』が食べられる日は来るんだろうか。
なんとなしに、それが楽しみになってしまう。贅沢だろうか。
「お母さんが遺してくれた本がね、一杯あるの。雨の日にはそれを読んだりして……エリクも、退屈なようなら読む?」
「いいのかい? 確かに、助かるけど……」
きっと大切なものに違いない。
本当に良いのかな、なんて思ったけれど、ロゼッタは嬉しそうに笑っていた。
「うん、それじゃ、これ片付けたら持ってくるわ。待っててね」
言うが早いか、ロゼッタは空になったスープボウルを手に、いそいそと部屋を出て行ってしまう。
確かに本を貸してくれるのはありがたい。それが元で何かの記憶が取り戻せるかもしれないから。
だけど、そんなに急がなくても、ロゼッタが傍にいてくれればそれだけで退屈はかなり紛れるのに、と、ちょっとだけ残念な気持ちにもなった。
「色んな本があるんだね……」
とりあえず、と、ロゼッタが両手で抱えながら持ってきた本だけで、ずらりと八冊もあった。
・ターニット農家のススメ
・豊穣の女神メリヴィエールと白の黒竜ガンツァー
・空を飛んだウサギ
・鏡の魔女と知識の魔王
・悪逆の魔王N・Oの下剋上成り上がり戦国伝
・ダンジョンマスターの挑戦状
・恋の詩/リーヴェ詩集
・鉱石・鋼材大図鑑
どれもジャンルがバラバラで、かなり方向性がとがっているのもいくつかあった。
本が置かれたおなかの上がずしりと圧迫されて重い。
鉱石図鑑なんて楽しんで読む人はいるのだろうか。少なくとも僕には石を眺める趣味はなかった。
「まだまだあるけど、エリクが好きな本が解らないから、とりあえず色んなジャンルの本を持ってきました!」
ロゼッタの瞳は今までにないくらいに輝いていた。
「この中で特に私のお勧めなのは宗教物語の『メリヴィエールとガンツァー』と、神話の『空を飛んだウサギ』かな。でも、どれも面白い本だから、全部がお勧めとも言えるわ!」
「その……石の図鑑とかも?」
「もちろん! とってもタメになるし、いろんな石があって何度読んでも飽きないわ!」
ロゼッタのキラキラ輝く迫力に押されてしまう。本好きな子なのかもしれない。妙な火をつけてしまったのかもしれない。
「ありがとう……その、すぐには読みきれないけど、少しずつ読んでみるよ。とりあえず……うん、これから」
図鑑以外をぱらぱらと流し見て、一番眼に優しそうな『ターニット農家のススメ』を手に取る。
「それじゃあ、他の本はここに置いておくから。それ以外にも欲しくなったらいつでも呼んでね」
さりげなくお勧めをスルーされたのに対しては怒ることはなく、笑顔で花瓶の下の棚に本を入れていった。