#5.困惑する狂乱
家に突然入ってきたのは、ロゼッタだった。
走ってきたのか、肩で息をし、僕らの前で苦しげに胸を抑える。
「どうしたのロゼッタ!?」
「シャーロットが……シャーロットが、知らない人に、連れていかれて……っ」
「……! ロゼッタ、それはどこで!?」
この展開は、かつて見た記憶がある。
その時は、教えてくれたのはミースで、そして、連れていかれたのは、ロゼッタだったけれど。
だからといって冷静でいられるはずがなかった。
悪い予感に早鳴りする胸を抑える様に、席を立ってロゼッタに問う。
「教会の、前よ……私、たまたま離れた場所から見ていて……シスターも近くにいたのだけれど、止めようとして突き飛ばされてしまったみたいで……!」
「教会の前か、行ってくる!」
すぐにその場に駆けつけて、間に合うはずなどないと思っていても。
それでも、愛娘をさらわれて、何もしない訳にはいかなかった。
「……やっぱりいない、か」
誰もいない教会前。
何かの痕跡でもないかと思って一応周りを見るけれど、それらしいものは見当たらず。
「エリクさん……」
「シスターっ、大丈夫ですか?」
そうこうしている内に、シスターが教会から出てきたので、駆け寄る。
足取りもふらふらで、なんとか声を絞り出しているような、そんな状態だった。
「無理しないでください。シスター、まずは休みましょう」
「はあ、はあ……ごめんなさい。シャーロットを、見知らぬ女性、に……」
「大丈夫です。僕が何とかしますから。だからシスター、今はどうか」
「折角預かったのに……村の方々が戻って来て、油断、してしまって……ごめんなさい、私の、落ち度です……謝って、済むことではないのに……っ」
シスターからすれば、預かった子供を奪われたのが許されぬ罪過とでもいうのか。
だけれどそれは、預けた僕の責任でもあり、そして、シスターはシャーロットを守ろうとして、負傷までしたのだ。
責めるつもりなんてあるはずもない。
「シスターは、シャーロットを守ろうとしてくれたんですよね。そんなに自分を責めずに」
「ですが……っ」
「僕が、なんとかしますから」
落ち着いているわけではなかった。
腹の底がふつふつと煮えたぎるのが分かる。
けれど、怒りに支配されても仕方ないのも解っていた。
感情のまま動いていても、結果は悲惨な末路しかないだろう。
「……エリクさん。解りました」
じ、と見つめ続けたのが功を奏したのか、シスターも少しは落ち着きを取り戻してくれたらしい。
目の端に涙を浮かべてはいたけれど、それでも、頷いてくれたのだ。
「シスターは休んでいてください。僕は、シャーロットを探しますから」
「はい……ですがエリクさん、エリクさんもどうか、無理をなさらずに……」
「僕は、シャーロットの父親ですから」
無理をしないなんて、そんな約束はできなかった。
無理をしてすら、勝算があるか解らない存在を相手にしなくてはならないのだから。
それからの僕は、急いで家に戻り、装備を整えた。
つかの間の休息。それでも、休めただけよかったと言えるだろう。
戦力の大半は山に向かい、村を守っている人たちも、おいそれと離れることはできない。
今、村から自由に離れられるのは、限られた人だけだろう。
そんな限られた人員の中に、僕が居たのが幸いだったか。
(あの人はきっと、鉱区にいる)
かつての人生で、ガンツァーと相対した時の記憶を思い出す。
最後の戦いの時、彼女は鉱区の最奥にいた。
恐らく今なら、彼女はそこにいるはずだ。
僕を待って。
「――来たわね、人の子よ」
鉱区の果て。
かつて大きなカマを持った魔物が控えていたその区域の更に奥にできた空間に、ガンツァーは居た。
光が届かないはずなのに、その空間は異様に明るい。
正面からの対峙。倍近い身の丈の差は、リーチの差。
その不利を理解しても尚、胸に抱かれた愛娘を見て、わずかばかりほっとしてしまうのは、人の親としての性か。
「まだ、生きてた」
「そうよ。まだ生きているわ」
ガンツァーの胸に抱かれたシャーロットは、意識を失っているだけだった。
眠っているのか、あるいは気絶しているのかはわからないけれど、胸が上下しているのが見えて、少なくとも呼吸が続いているのだけは確認できる。
それだけでも、まだマシだと思えたのだ。
「先日、お前が私にこの娘を抱かさせてくれたな」
「ええ」
「あれはすばらしいものだった。人の子ではあったが、内心、ときめいたのだ」
思い出すように語らうその表情は、色白ではあっても、どこか優しげに感じられた。
「幼子とは、こんなにも軽いものなのか、と。こんなにも儚く、か弱く、愛らしいものなのか、と」
「見たことはなかったんですか?」
思い出し語りに無粋とは思いながらも、口を挟んでしまう。
いいや、気になったのだ。
この人だって、ずっとこの世界を見守っていたはずなのだ。
そこには人々の営み、シャーロットのような子供が生きるさまだってあったはずで。
何も、人間の子供を見るのが初めてだとは思えなかったのだ。
「……見た事はあったわ。けれど、慈しもうとして触れた事はなかった」
排除しようとして触れた事はあったという事。
彼女の手は、人間の血で、いいや、その手にかけてきたあらゆるモノの血で穢れている。
「私の事を恐れるモノばかりだった。怯えた目で見つめる者ばかりで、この娘のように、穏やかな寝息を聞かせてくれることすらなかった」
「その子は、ちょっと大物過ぎるので」
ガンツァーを前にしても安心して眠れるのは、世界広しと言えどシャーロットくらいだろうと思う。
僕でも無理だ。
「確かにそうなのかもしれないわね」
そして恐怖の存在であるはずのこの人もまた、口元を歪めながら同意してくれた。
怖れが、恐怖が、わずかなりとも薄れる。
「――理解できない事があったのだ。人間とは、このように愛らしい命を育み、幸せで満ち足りた人生を望むはずなのに……下らぬ政の齟齬や価値観の相違で、平気で互いを憎しみあってしまう」
「そうですね。僕もそう思います」
目的の為ならば協力し合える。
大切なものの為ならば団結できる。
そんな人間たちが、けれど国というくくりでは、協調することも助け合う事もできず、奪い合い、殺しあう事すらある。
理解できないのは何もこの人が竜だからではないだろう。
人間とは、そういう生き物なのだ、きっと。
「だから、オーランドは滅ぼした」
とても簡単に、簡潔に、目の前の化け物は伝える。
憎しみが嫌いな、戦い続ける生き物が嫌いなこの人にとって、人々の争いは何とも醜く異常に映ったのだろう。
だから、わざわざ経緯や原因など、聞く気はなかった。
解っていたから。容易に想像できたから。
だから、解らない事を聞きたかった。
「オーランドを滅ぼした後、貴方はなんで、シャーロットに会いに来たんですか?」
「さらいに来た、ではなく?」
僕の質問が意外だったのか、ガンツァーは形のいい眉をぴくりと揺らし、首を傾げた。
「会いに来てくれたんでしょう? シャーロットに」
「……そうかもしれないわ」
誘拐したのも、シスターを突き飛ばしてでも奪っていったのも、ただ会いに来ただけ。
そういう感覚なのかもしれないと思ったけれど、どうやら本当にそうだったらしい。
人間の価値観に照らし合わせてはいけないのだ。
僕の目の前にいるのは、神に類する、人知外の存在なのだから。
「――オーランドの人間たちは、この世界において唯一、争いを避けた賢い者達のように見えた。だから当初は生かそうと思ったの。この世界を生きる権利があると思ったから」
「けれど、争いは起きてしまった、と」
「ええ。信じられなくなったの。あれだけの戦争があり、沢山のモノが死んだ。それを反面教師とすることだってできたはずなのに、人は、やはり人同士で争ってしまう」
この人からすれば、許されざる悪逆だったのだろう。
だからこそ、オーランドは亡びた。
醜い人の内面を見て、彼女が何を思ったのか。
「酷く、歪な気持ちになったわ。人類など滅びてしまうべきだと思ったけれど……でも、いつもと違う事が起きた」
「いつもと違う事?」
「いつもは虚しさと悲しさに支配され、怒りのままに全てを終わらせる。けれど今回は、怒りが湧いてこなかったのよ。皆殺しにしてやるという選択肢までは選んでも、全てを灰塵に帰するような手段が、何故か取れなかった」
その気になれば戦場を瞬く間に灰に変えられる人なのだ。
魔物を放って終わりというのは、確かに手段としては生優しいようにも思えた。
「そうして『何故そんなことを?』と疑問に思い考えているうちに……この娘を、抱いた時の事を思い出した」
「シャーロットの事を?」
「そうよ。だから、もう一度抱いて、確認がしたかったの。私のこの気持ちは何なのか。何故私は、怒りのままに振る舞えなかったのかを」
それが、彼女にとっては最近ではもっともインパクトの強い何かだったのかもしれない。
だからこそ、彼女は可能性を感じてくれているのだ。
変われる可能性を。
変化は、そこにこそ生まれるのだと。
「変われそうですか?」
「解らないわ。けれど、明確にわかる事もある」
「例えば?」
「……やはり、子供は愛らしい、という事」
当たり前すぎる事だった。
けれど、それが当たり前ではない人には、あまりにも重すぎる現実だった。
「――私達竜族は、一生に一度しか子供が産めない」
「一生に?」
「そうよ」
言われたことを聞き返す。
それくらいしか今の僕にはできなかったけれど、そんなでも、ガンツァーは反応してくれる。
「愛した相手とだけ。その相手と結ばれた時、初めて私達は子を成すことができる。そうして生まれた子供は、両親の特徴を受け継ぎ、立派な大人になるまで、母親が大事に大事に育てる……そういう文化が、私達にもあった」
今はもうない、絶対にできない、かつての文化。
それを僕に教えてくれることの意味が、僕にはまだ解らなかった。
けれど、話しているガンツァーはとても悲しげで、だからこそ、その違うガンツァーの一面に、心を強く打たれていた。
「子供が、欲しかった。愛したあの人の……もう、名前すら思い出せぬ、あの人の、子を」
「愛した人の名前が、解らないんですか?」
「解らぬ。思い出せぬ。もう、それくらい長く、私は一人だったのだ……一人で居続けたのだ……子供を抱けぬまま、産むこともできぬまま」
その原因が自分にあるのだと思えば、やるせなくもあるのだろう。
同族同士の殺し合いの果てに、最愛の男を失い、ガンツァーが何を思ったのか。
「だが、この子は私の子ではない……どれだけ愛らしく思えても、愛しくは感じられなかった」
視線を落とし、胸に抱くシャーロットを見つめながら、こつ、こつ、と、僕の方へと歩いてくる。
ぴたり、目の前で止まり、腕の中の娘を僕に預け。
そうして、ガンツァーは背を向けた。
「――人は、何故戦うのかと思っていた。愚かで、知性に乏しく、他者を思いやれる癖に、他者を思いやれぬが故にいがみ合い、憎しみ合う事すらあるのが、嫌いだった」
「今は?」
「今は、どうであろうな……もう、解らなくなってしまった。私が憎んでいたのは、戦う事。戦いがあるからこそ、皆が幸せになれぬのだと思っていたのに……その子供のような、安らぎがあるというなら、あれは何だったというのか」
次第に言葉が早くなり、強くなり、震え。
背を向けたガンツァーが何を想っているのかが、どうしてか、僕には感じ取れてしまった。
――困惑しているのだ。
迷いなく進んでいたはずなのに、迷ってしまったのだ。
認知外の心のざわめきに、初めて気づいてしまったのだろう。
戦う者が悪なのだという唯一の基準が、僕の娘を抱いたことで揺らいでしまったのだ。
戦う者達が、何故戦うのか、知ってしまったから。
「……私が子を産めなくなった原因は、私自身にあったのだ。こんなバカなことを受け入れるのに……私は、五千万年も生きてしまった」
途方もない年数だと思う。
それだけの間、ずっと争いを憎しみ続け、悲嘆に暮れ、悲しみの中それでも生き続けた彼女を、僕がどうこういう事なんてできはしないだろう。
そう、結局この人は、僕達人間が歩んではいけない道を歩んでしまった人なのだから。
そして人間は、彼女の言葉を無視し続け争い続けたから、あんなことになったのだから。
「ケレス」
「……えっ」
僕が話すべきことは、説教でもなければ説得でもなかった。
ただ、知って欲しかったのだ。
この人が愛した男の名を。
この人が忘れてしまった、かつての愛を。
その名を告げた瞬間、ガンツァーは、驚いたように振り向き、僕を見た。
今まで見た事もないような、眼孔の開いた瞳。
「違ってたらごめんなさい。本で、読んだことがあって。ケレスっていう人じゃないですか? 恋人の人」
「……そう、そうよ。ケレス。ケレスだわ。ケレス、ケレスケレスケレスケレス……ああ、ケレス!!」
忘却するほどの遥か彼方に、けれどまだケレスは残っていた。
彼女の中に、その存在はまだ、生きていたのだ。
見る見るうちに瞳に生気が蘇り、美しいコバルトブルーの瞳が潤む。
「そうか……人間たちは、書物で私達の事を……こんな時代まで、語り継いでいたのか……」
「たまたま目に入っただけですけど。でも、残っていたんですよ。貴方達の話は」
決して忘れていた訳ではなかった。
五千万年も昔の事を、けれど人間は、教訓として残していたのだから。
「私の言葉を、忘れていた訳ではなかった。私の教えを、残していた……」
「そういう人間も、いたってことですよね」
宗教物語という形になりはしたが。
それでも、残さねばならないと思った人はいたのだ。
そして、今の時代まで連綿と受け継がれてきたのだ。
それが今、僕の活路となっている。
「……私は、目に入っていた暴虐だけを、人の所業と思い込んでいたのか。人とは、このように創作性に満ちた……いいや、確かにそういう生き物だった。だから私は、メリヴィエールと共に、人の明日を信じていたんだ……」
あまりにも長い年月が、ガンツァー自身の価値観を塗り替えてしまったのか。
かつては人間を見守ってくれていた、守り神のような存在だったかもしれないのに、人の所業がそれを化け物へと変貌させてしまったのだとしたら、やはり人間はおろかなのかもしれないと、僕は思ってしまう。
けれど、それでもやっぱり、人には彼女が愛してくれるような、そんな一面もあったのだと、そう信じたかった。
「ありがとう人の子よ」
「エリクです」
「……そういう名前だったか。エリク」
「はい。ガンツァーさん」
胸の中で眠り続けるシャーロットの頭を撫でながら、僕は彼女を見上げる。
よく解らない、恐ろしいだけの存在だった彼女が、今では、いくらかは落ち着いて見られる相手になっていた。
あまりにも強すぎる存在なのは確かだけれど。
それでも、やはり会話ができる相手なのだから。
「オーランドを滅ぼした魔物は、消すことにしよう。お前達は、この世界の覇者として好きに生きると良い」
「そうさせてもらいます」
「大事な者の為ならば、争う事も是とすべきなのかは……私にはまだ解らないが。今後はもう、お前の周りに干渉することもない……さらばだ」
何よりもありがたいお墨付きだった。
けれど、それだけで終わらせてしまっていいのか、そんな疑問が浮かび、「待ってください」と、声をあげてしまう。
それで終われば、綺麗に終わるかもしれないのに。
こういう時の僕という奴は、なんとも欲張りな奴だった。
「……どうしたのだ?」
ガンツァーもまた、意外であるかのように目を瞬かせていた。
早く用件を言わないと、機嫌を損ねる可能性すらある。
迷いなどかなぐり捨て、僕は自分の思い付きを信じた。
「――僕らと一緒に、温泉に入りませんか」
戦いは終わった。
僕らの人生は、きっと前向きに進むだろう。
なら、区切り目が欲しいじゃあないか。
その為のイベントが。それを感じられるだけの節目が。
それが温泉だろうと、何故だか僕はそう思う。
「……温泉?」
「山のオーランド側に温泉があるんです。皆で入りたいなあと思ってて」
「人の子よ」
「エリクです」
「エリク。お前、何を考えている……?」
「だって、温泉って、疲れを取る為に入るでしょう?」
強いて理由を挙げるならば、そう、これは慰安の為だ。
「人生に疲れても、温泉に浸かればきっと、癒されますよ」
無茶苦茶な物言いなのは自覚している。
けれど、不思議と断られる気はしない。
妙な自信があった。これは上手くいくのだ、と。
「……人間とは、やはり解らぬな」
ふう、と、呆れたようにため息をつかれ、そして。
「解った。その時には私も、混ざることにしよう」
「ありがとうございます」
僕からすれば途方もないくらいに上の存在が、僕らと一緒に温泉に入ってくれる。
それは、僕の人生の中でも、特にすごい成果なんじゃないかと、割と真面目に思えた。
こうして、シャーロットを無事取り戻した僕は、そのまま家に戻り、またミースとの感動の再会が始まったのだった。




