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 昔々のこと。魔王はたしかに存在し、たしかに打ち倒されました。

 けれど封印が不完全なものになったのは、人間が力不足だったからというだけではありません。

 魔王とは、強き魔力を持つ者です。世界中の何者よりも。神様にすら刃向かえてしまえるほどの。

 人間たちは疲弊した世界のこれからのために、魔王の躯に残った魔力を役立てられないかと考えました。ただ、人にとってあまりにも膨大で異質なそれは、魔王という器から取り出してしまうともはや誰にも扱えないことが分かっていたため、どうやれば人の手に届くものになるだろうかと相談が始まりました。

 長い試行錯誤の末、まず、魔王の魔力を人に扱えるように濾過する仕組みが発案されました。つづいて、一気に取り出すのではなく装置交換までの年月を十分に運用できるだけの量を吸い上げられて蓄積できるようにされました。とても高度で複雑な術式を組み合わせた装置はそれだけでも簡単に真似できないものでしたが、さらに、魔力の独占をもくろむ者が横取りしたり複製したりできないようにも工夫を重ねられました。

 英雄と魔導師の血縁にのみ継がれる術式が掛け合わされたとき、生まれでた命が装置として成り立つようにしたのです。

 ……世界のためである、という大きな意義のためでした。

 最初の装置は、英雄と魔導師によって生み出されました。

 次の装置は、最初の装置の後、数世代後に当たる英雄と魔導師の血族からそれぞれ選ばれた者たちによって生み出されました。

 吸い上げられ、蓄積され、人に扱える形になった魔王の魔力は、十分な量となったときにとある王国の城の地下に設えらた祭壇へ運ばれます。ここに据えられた魔力結晶は、協定を結んだ世界各国へと供給されていくのです。

 運ばれる魔力量は、徐々に減っていきました。魔王の魔力が順当に失われている証拠であると、王国は各国へ説明して納得してもらっています。自国へ満ち足りているのは、供給源であるからだからと。そのため、各国は魔王の魔力に頼らない文明を築こうとしているのですが――これは余談。もともといつかはなくなるものですから、先を見据えて進めてきた事業が早足になった、という程度でしょうか。

 ……長い年月が経ちました。

 いつしか王国だけが生粋の魔法王国として知られるようになったころ。各国が魔法とは異なる魔導技術を確立して安定させたころ。

 英雄の血を受け継ぐ王家に嫁いだ魔導師の家の娘が、ひとりの男の子を生みました。

 本来であれば第一王子として立てられるはずの男の子は、けれどひっそりと離宮で育てられました。いつつが終わるまではささやかな愛とともに育ち、ここのつが満ちるまでは市井に下りて民を知りながら鍛錬を重ねて己を磨き、いざとおになったらば大切なお役目を果たしに旅立つのだと教えられながら。


  ◆

  ◆

  ◆


『やだー! この時点で疑いようのない将来性! ショタ趣味ないのにショタになりかけただけある‼』

(……は?)


 六歳の誕生日を迎えて一ヶ月後の今日。ラドヴィスは脳内に叩き込まれた嬌声(思考)をもてあまし、無意識に眉間にしわを寄せた。

「あっ、ごめんなさい! ぶつかって痛かったよね!」

 たった今、市場の細道から飛び出してきてラドヴィスに衝突した少女が彼の表情を見て、あわてた様子で立ち上がる。お互い尻もちをついていた体勢から、少女がラドヴィスを見下ろす形になった。

「ごめんね、大丈夫?」

「……大丈夫、です」

『ふわー! 声! かわいい! 痛そうにしてるのもかっわいいい!』

「……」

 差し出された手をあえて借りずに身を起こす間にも、少女の嬌声思考は響き渡る。聞こえているのはラドヴィスだけだし、実はそれが届くようにしたのもラドヴィス本人なので少女へ文句をつけるわけにもいかないのだが、正直ここまでかしましいとは思わなかった。肩までの淡い茶色の髪と榛色の瞳をした少女は、一見おとなしそうな風情であるから、なおさら。人は見かけによらない。ラドヴィスとほぼ同じくらいの体格だから、男女の成長差を考えるとこちらよりひとつふたつは年下だろうか。

 だが外見がどうであれいきなり現れてぶつかってくるなどするものだから、いいとこの坊々だとひと目で分かるラドヴィスにスリとか押し売りとかしてくるものだとばかり思ったのだ。何をたくらんでいるか知るための、いわば自衛行為だったのだ。

 将来預かる役目のため特に重視された魔法教育の過程すべてを教師陣に目をひん剥かせる域で修了したラドヴィスだが、精神系の魔法はとくに使用条件を自分に厳しく律している。本来ならば、今回のものだって悪意の有無を読む程度だったのだが、その配慮を粉砕する勢いで相手の思考が大嵐だったのだ。

 まさか自衛行為でダメージ追加されるとは。世の中は意外性に満ちている。

(ところで、誰だこれ)

 ラドヴィスを知っている素振りで心を昂ぶらせている少女だが、外面は完全に初対面のそれだ。そしてラドヴィスは、外面も内面ももちろん初対面だ。

「あっ! 手、擦りむいちゃったね? わたしが手当してあげようか!」

 うちがすぐ近くなの、と再び自分に向けて伸ばされた手から、ラドヴィスはとっさに距離をとった。いくらなんでも馴れ馴れしい。貴族でない民の距離感はこんなものなのかとふと周囲を見れば、ほほえましい視線が1割、素通り7割、少女を諌めたそうな雰囲気が2割と見れた。

 とりあえず、ラドヴィスが思う対応をして不都合はなさそうだ。

「いや、初めて逢った人の家に行くのは」

「そ、そうだね! ごめんね! あ、じゃあ――これで!」

 ラドヴィスの辞退をあっさり受け入れた少女はつづいて、懐からハンカチを取り出した。小花の刺繍がされたかわいらしい布は、妥協して手を任せたラドヴィスの傷を覆って巻かれる。

「できた!」

「……ありがとう」

 きゅ、と固結びして満足そうに笑う少女を一瞥し、ラドヴィスは軽く頭を下げた。視界に入ったハンカチに刺繍されているのが小花だけではないことに、そこで気づく。メアリ・クドラ。おそらく眼前の少女の名前だ。

 感慨も覚えず流し見て、それじゃと身を翻す。市場見学で見聞を広めたいと養父母に我を通して出てきたのはいいが、調子に乗って護衛を撒いてしまったのだ。ここまでにそこそこ自由も謳歌したから、後は軽くお小言をいただいて屋敷に戻るつもりだった。

 けれど、

「ねえ、あのね、よかったら――」

 腕を掴まれた。

『ちょっと外れるけどこれくらいいいよね! だって次に逢うときはもう魔王に呑まれちゃってるし』

 つづいて直接触れられたせいか、こちらの制御をぶっちぎる大嵐思考が再びラドヴィスに流し込まれた。しかも、内容が物騒にすぎる。

『しょうがないよね。そういうようになってるんだもの』

「少しいっしょに」

「……‼」

 続けようとした言葉ともども遮るように彼女の手を振り払ったラドヴィスが強い警戒を抱いたのも、仕方がない。

「……あ、」

 驚愕と落胆。困惑と恐怖。少女の表層から読み取れるのは、期待が叶わなかったことと乱暴な反応を受けたならば当然の感情だけだ。……だが、その奥はどうなのだろう。

 彼女が口に出していない以上ラドヴィスも言及する気はないが、思い返しても実に不穏極まりない。自己防衛の範囲内だと己を納得させて、少女が軽い混乱に襲われているうちにと魔法でもって探りをかけた。

 野良魔法使いなどいて勘づかれては困るから、「ごめん。驚いたから」そう声をかけ、さきほどと逆に貸した手から直に深奥へ接触した。長く時間はかけられない。直接干渉するラドヴィスという存在にかかわる部分をと枝葉末節含めてごっそり探査し、仔細は確認せずに複製する。

「怪我はない?」

「うん。えっと、いろいろごめんね。お出かけ楽しんでね!」

「ありがとう」

 尋ねれば、服の土を払った少女は健気に微笑んで市場のなかへと飛び込んでいった。改めて周囲の様子を探ったラドヴィスも、自分たちのひとときが子供同士の軽いいさかいとみなされたことを確認してその場を離れた。

 写し取った意識や記憶の照会は、とりあえず帰宅して落ち着いてから。もし自分の立場や将来の役目などを一介の平民の少女が知っているのだとしたら、それ故に今日の接触があったのなら、この件は王城に持ち込むことになるだろう。

(……行きたくないな)

 予想どおり護衛のお小言を受けたのちの帰路。揺れる馬車のなか、彼はそっとくちの内側を噛み締めた。

 だって、もう、あそこにはすでに第一王子が生まれている。王と王妃と仲睦まじく、日々を過ごしている。

 ラドヴィスをこの世に存在させるために王家の血を受け入れた生母は、務めを果たして故郷へ戻ったという。彼女と王の関係は少し特殊なのだ。互いに強い思慕や情があれば彼女の働きに応えて第二妃としての輿入れも望めたが、そうしなかった。それだけのことである。

 貴方様によく似た素晴らしい方でしたよ、とは、物心つくまでラドヴィスの面倒を見てくれた乳母や養育係の言葉だ。他にもいくつか伝えてもらった気がするけれど、そうかと曖昧な返事に留めた。顔も知らないのだから、どう思いようもないというか。

「……」

「楽しいことがありましたか?」

 不意にくちもとをゆるめたラドヴィスに気づいた護衛が、ほほえましさを覚えた表情で語りかけてきた。普段見ることのない珍しいものがいっぱいだったと子供らしく答えて、ラドヴィスは改めて笑う。

 市井に暮らす彼を引き受けた侯爵邸お抱えの騎士は、ラドヴィスを侯爵夫妻が一時預かりして教育を任された遠縁の者としてだけ知らされている。屋敷にいる他の使用人、訪れる家庭教師役たちも同じだ。彼に施される教育内容に思うところはあるだろうが、侯爵家および王室御用達の錚々たる面々でもあるため踏み込むような者はいない。

 この騎士、強面ではあるが子供に優しい。ラドヴィスにも侯爵の嫡女にも平等で――それは侯爵夫妻も同じだった。

 ただ、彼らの娘であるリーゼリアという少女は違った。いきなり現れたラドヴィスへ近づこうとしない。なにせ初対面の紹介時、両親をとられるのではないかと涙目になってふたりを引きずっていこうとしていたくらいだ。無理だったけれど。

 数年間リーゼのお兄さんになるんだよと侯爵から諭されていたが、それですぐさま受け入れろというのも酷な話だ。ラドヴィスにも日々の学習や訓練があるし、幼子をかまえるような器用さもない。互いに嫌い合っているわけでもなく、さりとて距離感を掴みきれないまま、一年が過ぎたところである。

(そういえば)

 お兄さんと呼ばれたことがないな。思ったあと、当たり前だと打ち消した。打ち消してすぐ、

「あ!」

「なにか⁉」

 思いついて叫んだ言葉に、護衛が慌てて聞き返してきた。驚かせてしまったと少々居心地を悪くしながら、ラドヴィスは尋ねる。

「戻る途中に何か店はありますか」

「え、――ええ。市場ほどではありませんが、ほら」

 示された窓の外を見て、彼はうなずいた。

「あの子に……それから侯爵夫妻に。土産を買っていきたいのですが」

 護衛へ視線を戻してお伺いを立てれば、満面の笑顔が返ってきた。


  *

  *

  *


 屋敷へ戻ってみれば、侯爵はいつものように王城へ出向いていて、夫人と娘は予定のあった茶会へと赴いているとのことだった。

 ラドヴィスは護衛と出迎え、出会った屋敷仕えの面々へねぎらいを述べ、ちょうどいいと自室へこもる。彼に与えられた一室は侯爵の身分にふさわしく、子供には少しばかり広すぎるものだ。ついでに言うとベッドも大きすぎる気がする。まあ数年のことであるし、たまにごろごろ転がるのも楽しい。誰に見せられるわけもないが。これでなかなか、ラドヴィスもラドヴィスなりに子供なのだ。

 けれど今、彼の表情に子供らしい色はない。どことも分からない空間に固定された瞳の奥で行なわれているのは、体内の魔力経路にとどめておいた少女の記憶の読み取りだった。

(なんだこれ)

 読み取り始めてすぐ、疑問符がラドヴィスの脳裏に踊った。

 どこかの室内。女性が好みそうな色合いでととのえられたカーテンや家具、雑貨類――ただし彼が育った環境のどこでも見たことがないようなしつらえの――を背景に、年若い少女のものと思われる両手が薄い板状のものを持っている。

 板は左右に押し込むためのボタンが数個ずつ配置され、中央には人物の絵……おそらく絵だろう。これもラドヴィスの見てきた美術系の知識にはないが。それから、これまた見知りもしない文字が表記されている。指がボタンを押すたびに文字列は切り替わり、絵の人物たちも様々な表情や動作を繰り広げていた。聞いたことのない言葉も聞こえる。絵の人物たちが口を開閉する動作に合わせているようなので、彼らの会話なのだと推測できた。

 子供向けに絵の束を重ねて物語を読み聞かせる職が市井にはあるが、そういったたぐいのものに思われた。使われている技術などは、魔法に近いものがあるのかもしれない。内部になんらかの仕掛けがあって、ボタンの押下で命令を出す。画面をなぞる指でも別の作動があるから、相当複雑な仕組みが用いられているようだ。

「……」

 たいへん興味深い代物だが、これはおそらくラドヴィスの知る理で動いているものではないと思えた。異国とか異文化とかそういうレベルではなく――

(異世界か)

 迷い人として残された何人かの記録を、ラドヴィスは王宮で見た。公式なものではない、口伝をまとめた程度のそれこそ物語集に近い書物だったが、そのような記録が残される発端となった出来事はあったのだろうと彼は考える。

 であれば、あの少女は――

『あーあ』

「!」

 記憶の中で発されたこちらの世界の言葉に、思わずラドヴィスは目をみはる。

『もっとしっかり覚えておけばよかったー。あんなに周回したのに』

『死んじゃったからボケたのかな。あーあーあーあ、ここうまく思い出せないよ。大事なイベントだったはずなのに!』

「……」

 ラドヴィスは画面に意識を戻す。嘆く声とは裏腹に、絵の人物たちの姿や会話は鮮明だった。

(読み取りの精度差、かな)

 記憶にアクセスする当人よりも、複製して読み込んでいる自分のほうがよほど正確に把握できてしまっているとは皮肉なことだ。会話は分からないしイベントだとかも意味不明だが、ひとつ分かったことがある。

 市場の少女はおそらく、転生者というものだろう。死んだあとに魂が世界を渡り、こちらで生まれ直したといったところか。

(それはいいけど――どうして僕に接触した?)

 ……市場での出来事を思い返す。

 ずれるけど、と彼女は思考していた。それを承知で、ラドヴィスに手を伸ばした。文脈からすれば、市場を一緒にめぐろうとしていたのだと思って間違いなさそうだ。

(イベントに関係あるのか)

 しかし、画面のこれは物語の遊戯のはずだ。生身のこちらに接触して、何がしたかったのか。

「……?」

 思考に沈むうちに、画面の動きが止まっていたことにラドヴィスは気づく。不具合でも起こったのかと注視すれば、これまでとは違う雰囲気の絵が表示されていた。

 満面の笑顔で並ぶふたりの少女を、数人の男性が囲んで微笑んでいる。

 少女の片方は、市場の彼女が成長すればこのようだろうという姿だった。男性の庇護欲をそそりそうな健気さとやわらかさが現れた佇まい。もうひとりの少女は――

「……リーゼリア?」

 ラドヴィスは思わず、この家での妹の名をつぶやいていた。流れる銀の髪に金の瞳が、幼い彼女の面影を想起させたのだ。画面の彼女は少しばかり気の強そうなまなざしをうれしげに細めている。いまさら気づいたが、少女ふたりは同じ衣服をまとっていた。男性たちも女性のものとは異なる意匠の揃いだ。制服だろうか。

 そういえば分析にばかり気をとられていたけれど、途中途中にもこのような動かない絵が表示されることがあったようだった。巻き戻して確認しようとまでは思わないが、市場の少女が周囲の男性のそれぞれとなにかをしている描写が多かった気がする。

 少女と男性陣はいったいどういう関係だったのやら。改めて並ぶ面々を見たラドヴィスは、うちの一人に目を止めてつぶやいた。

「……父上……、……いや、まさか」

 このカルド家ではなく、王宮で。ほんのわずかな時間だけ相対した壮年の男の面影が、たしかにそこにあったのだ。

 重ねてラドヴィスは思考する。

 まだ幼い姿しか覚えていない第一王子が健やかに育つならば、きっとこの絵の人物のようになっているのだろうと――想像するのは容易だった。

(物語の紡ぎ手は空想の羽根を異世界に飛ばして欠片を集めていると言う者がいるけれど)

 市場の少女がかつて暮らしていた世界でこの遊戯を作り上げた者も、そうしたうちの一人なのだろうか。


「――ラドヴィス、さま」

「!」

「あ……」


 ラドヴィスがバネじかけのように身を跳ねさせたせいで、薄く開けた扉から室内を覗き込んでいたリーゼリアのほうがひどく驚いてしまっていた。

「ご、ごめんなさい。かってに。ええと、ノックしたんですけど、おへんじがなくて。あの、ごはんを――ゆうごはんを、よんできてっておかあさまが」

 小さな体でぎゅぅと扉にすがりついて謝罪するリーゼリアを安心させるためにラドヴィスは笑う。

「大丈夫。考え事をしていて、気が付かなかったんだ。ごめんね」

「ううん、わたし――……」

 かぶりを振ろうとリーゼリアは、何かに気づいたように目をまたたかせた。

「……ありがとうございます」

 申し訳無さを浮かべたまま、それでも告げようとしていた言葉を切り替えた彼女を、聡い子だとラドヴィスは思う。そして、いい機会だと気がついた。座り込んでいた身を起こして机に向かう。

「リーゼリア、これを」

「……? なんですか?」

 置いておいた箱をひとつ取ってリーゼリアの前に掲げてやれば、彼女は素直に両手のひらを揃えて出した。

「今日、市場を見に行ったからね。お土産だよ」

「おみやげ……」

 ほわ、と表情をゆるませたリーゼリアが、そわそわとラドヴィスを見上げる。

「あけてもいいですか?」

「うん。ぜひ」

「……わあ……!」

「似合うと思ったんだ。気に入ってくれるとうれしい」

 箱から転がりでたのは、木細工の髪飾りだ。角のないようすべらかに整えられた月型に、金と銀の小粒が星々を模して散りばめられている。形も装飾もリーゼリアのためにあるようなものだと、ひと目見て購入を決めたものだった。

 どうかなと尋ねればリーゼリアは髪飾りを握りしめ、笑顔で何度もうなずいた。

「はい! とても好きです。今度おでかけのときに、つけてもらいます」

「いつもつけてくれていいんだよ」

「いつもはだめです。とっておき、です!」

「そっか、とっておきか」

 予想以上の大歓迎に心地よくなってラドヴィスは笑う。リーゼリアが、はっと表情を改めた。

「あっ、ごめんなさい、うるさくして」

「うるさいなんて、ぜんぜん」

 比べるのもどうかと思うが、市場の少女のほうがよっぽどいろいろ響いていた。そんな昼間のあれこれを横に放り投げたラドヴィスは、幼い妹に視線を合わせて笑いかける。

「ねえ。リーゼリア。月の髪留めが似合う僕のかわいい妹。食卓まで、手をつないでいってもいいかな?」

「……はい!」

 いつになく輝いている笑顔が返ってくるのは、物で釣ったせいもあるかもしれない。それでも、きっと、それだけではないとラドヴィスは思う。

 一年間ちょっとずつ地道にお互い歩み寄ってきた結果のひとつなのだと――ほわ、と胸をあたためながら期間限定の兄と妹は手をつないで食卓へと向かったのだった。


  *

  *

  *


 ……幼い妹が泣いている。しくしくと、ラドヴィスの寝衣を濡らして泣いている。

 昼間の事件とは打って変わって穏やかな夕べを過ごした、その夜半。

 静まり返った屋敷を自室から兄の部屋へ一人で駆けてきた妹のノックに今度こそラドヴィスは気がついた。眠りが浅くなっていたせいもあるだろうか。とにかくすぐに起き出して扉を開ければ、頬を滂沱と濡らす妹の姿に驚く羽目になった。

 どうしたのと問えば、怖い夢を見たのと彼女は言った。

 ――おにいさまが死んだみたいになっているのを見たの、と。

 この半年ほど呼ぼうとしてはためらっていたそれをここで耳に出来たことによろこぶ間もなく落とされた爆弾は、昼間の類似品より大きかった。

 ――こわくて、こわくて、おにいさまがどうしてるかたしかめたくて、と泣くリーゼリアを抱きしめはしたが、扉を開けたまま立ち尽くすのもまずいと思った。夜の見回りをする使用人に見つかれば、夫妻にも報告が行く。夢の話で屋敷の面々を騒がせるのも難だと判断したラドヴィスは、彼女を室内へ招き入れた。

 その間にも、リーゼリアはずっと兄にしがみついていた。真っ暗は怖がるだろうとカーテンを開ける間にも、少しでも楽な体勢をとるべくベッドに乗り上がった今になっても、ラドヴィスから離れようとしない。兄の無事を見て激しくなった嗚咽が、ようやくおさまろうとしてきたところだ。

 頼りなく揺れる背中を抱いて撫でてやりながら、ラドヴィスはひたすらリーゼリアが落ち着くのを待っていた。

「……おにいさま」

「うん?」

「おにいさまは、生きていますよね」

「生きてるよ」

 顔をラドヴィスの腹に押しつけたリーゼリアの声はくぐもっているが、聞き取るのに支障はない。手のひらを彼女の背中にはずませながら抱きとめる腕に力を入れると、ラドヴィスにしがみつく手にも力がこもった。

「君が見たのは夢だよ、リーゼリア。起きたこっちがいつものところ。僕はちゃんと生きてるからね」

 ……十年後には分からないけど、とひそかに自嘲するラドヴィスの耳をリーゼリアの声が打った。

「はい。……でも、やっぱり、こわくて。大きくてとうめいな石のなかに、おにいさまが寝てて……。ふつうにはないようなことだったから、……きゃっ⁉」

「――――」

「おにいさま?」

 びくりと体をこわばらせた動きに気づいたリーゼリアが、顔を上げた。涙に濡れはしていても平常心を取り戻した瞳が、疑問を湛えて兄を見上げる。そこに映る自分がこの子を怯えさせなければいいけれどと苦心しながら、ラドヴィスは妹と視線を合わせた。

「透明な――石、……って?」

 どんなものだったとの問いかけに、リーゼリアはきょろきょろと視線をベッド周りにさまよわせてから、両腕をいっぱいに広げてみせた。

「ベッドより大きくてその中におにいさまが寝ていたんです。知らないお兄さんとお姉さんが、そんなおにいさまを見ていて……手を伸ばそうとしていたところで、とてもこわくなって、目が覚めて」

 ふるりと震える妹の体を、ラドヴィスは抱きしめる。

「そっか。……こわかったね。僕はここにいるからね」

「……はい」

 素直にうなずくかわいらしさにこっそり頬をゆるめたラドヴィスは、ベッドの端に寄せていた肌掛けをとって妹の背中にかけてやった。あたたかさに安堵したらしいリーゼリアの呼吸が穏やかになっていく。

「おにいさま」

「ん?」

「……いっしょに寝てもいいですか。また、ひとりで寝るのはこわいの」

「いいよ。……ふふ」

「なんですか?」

 ラドヴィスとリーゼリア。幼い子供が二人横たわってもまだ有り余るベッドに沈みながら、ラドヴィスは笑った。

「こわい夢を見たリーゼリアはたいへんだったけど、僕はお兄様って呼んでもらえたりほんとの兄妹みたいに一緒に寝られたり、うれしい夜になっちゃったな」

「…………あっ」

 何かを思い出すように首をかしげたリーゼリアの体が小さく震えた。

「えっと、おにいさまって呼びたくなかったのではなくて、……あの、とおになったらおうちに戻るってお話だから、えっと、……、あんまり甘えたらめいわくかなって……それに、さみしくなるから……」

「うん、うん」

「きらいとかじゃないんです。おにいさまはいつも優しくて」

「リーゼリアはいつもかわいいね」

「……」

 矢継ぎ早に言葉を続けていたリーゼリアのくちが、動きを止めた。驚いたようにまるくなった瞳が、次の瞬間、ふにゃりとほころぶ。

「ありがとうございます。うれしいです」

「僕も。優しいって思ってくれてありがとう」

「うふふ、どういたしまして」

「うん、どういたしまして」

 ゆるゆる笑い合ううちに、リーゼリアのまぶたが落ちてきた。んん、とこすろうとした手を押し留めたラドヴィスは、自分の手のひらで妹の目を覆ってやる。

「おにいさま?」

「おやすみ、リーゼリア。大丈夫。朝までいっしょにいるからね」

「……はぁい……、おやすみなさい……」

「おやすみ」

 きゅっとすがりつく小さな体を、きゅっと抱き返す。みっつ年下の妹はまだ幼児特有の体温の高さを持っていて、布団の中は思った以上の熱にあたたまりそうだった。

「……やっぱり……」

 眠りに落ちるきわに、リーゼリアがつぶやいた。

「変な板の向こう側より……いっしょにいてくれるおにいさまのほうが……」

 すき、と。

 溢れる声を受け止めた耳はたしかに役目を果たしたけれど、とうのラドヴィスに言葉をそのまま受け取るだけの余裕がなかった。

(……変な板)

 午後に確認した、記憶の映像が脳裏をよぎる。

(まさか)

 ラドヴィスは寝入った妹の額に自分の額を押し当てた。流れる前髪はそのままに、魔法を発動させる。

 ――間違いもなく、その光景だった。

 今日初めて見た女性の手が操作する板状の遊具に表示される一場面。それはたしかに、リーゼリアが言っていたそのままの光景で――立ち並ぶ男性と女性はおそらく、王城の父親を彷彿とさせる男と市場の少女が成長したふたり。大きな石ことラドヴィスの目には魔力結晶だと明確に判断できる物体があって、内部には――

(僕、が)

 今の自分よりは、いくらか育った姿だろうか。けれど市場の少女が自分と同い年ほどであったというのに、これでは年齢差がおかしなことになる。

 ああ、と、ラドヴィスは鉛のような吐息をこぼした。

(役目の代償かな)

 最低限の生命維持以外をすべてつぎ込めば、きっとそういうことになるのだ。今日までに培った彼の知識が、疑問に対してそう答えた。であれば、仕方のないことだ。

 これをリーゼリアが見てしまった理由を考える。おそらく魔法を終了しきれていなかったラドヴィスの余波を受けて一部を流し込まれてしまった、といったところか。とくに制御を考えなかったラドヴィスに全面的な責任がある。妹がこのまま夢だと終わらせてくれれば、心配はないのだけれど。

 そうして画面の光景についての考察は終わったが、ラドヴィスには新たな疑問が生じていた。

 午後に見た記憶内部での遊戯は、未だ途中でのものだったのかもしれないということだ。リーゼリアに呼ばれて中断してそのままにしていたのは迂闊だったが、あの絵は雰囲気的に大団円と言って差し支えないものだった。だからもう見ずとも良いかと思ったのだ。けれど、ラドヴィスが見たなかにリーゼリアの夢に浮かぶ光景はない。

(……見てみよう)

 魔力径路を活性化させ、少女の記憶を起動させる。睡魔と時短効果と無意識下における脳の許容量に賭けることにしたラドヴィスは、今夜の夢の内容を己の意思で決定した。

 またリーゼリアに余波が行く懸念に、彼はこのとき思い至らなかった。思考中にじわじわと胸を満たし始めた焦燥感のようなものがラドヴィスに妹への気遣いを失念させていたのだ。それでも、兄が妹を抱きしめた腕は優しい。

 ……瞳を閉じる。

 そうしてふたりは夢を見る。まるで自分が見たかのような、自分がそうであったかのような、いつかどこかの夢を見る。

 遊戯として描かれた人物たちが繰り返す日々を、そのたびに異なる結末を。


 繰り返すそれらに重なるこちらの世界の言語で紡がれた誰かの思惟から文章を学び、名称の一致を知り、立場の相違を不思議に思い、健気な少女が相手を変えて結ぶ恋の過程を追いかけて、つまりはそういう遊戯なのかと納得し。

 ラドヴィスが最初に大団円と思ったものは、かの少女が誰とも恋愛関係にならなかった末のお茶を濁したものなのだと知り。

 そこでともに微笑んでいた銀髪の少女は健気な少女の恋路を単調にさせないためのライバルであり、さじ加減を間違えれば貴族位にある者としての足さえ踏み外す激情に溺れることもある敵役なのだと察し。時折出てくる彼女の父親という人物が今の侯爵でないことに不穏を覚え。

 ……やがて。

 おそらくは対象として設定された全員と恋を成就させた健気な少女は、最後に結ばれた王子とともにとある場所を訪れた。実は、王子と少女が結ばれる流れはこれで2回目だ。1回目にはなかった展開が、ふたりの並ぶ絵が表示されたあとに続編のように始まった。

 ――実は、と切り出した王子が、そこで初めてミラド王国に封じられた魔王のことを口にする。長年かけて魔力を吸い上げてきたこと、その量が減少していること、源たる魔王本体がまこと滅びる日が近いだろうということ。

 王子と少女は、それならばと魔王討伐を決めた。

 そうしてふたりが訪れたそこは、遠くない先にラドヴィスが赴くところ。自身の役割――魔王の魔力を濾過して固定するために存在する彼がただ死なないだけの部屋。

 ……すっかりあちらの言語を解するようになってしまった意識に、遊戯の彼らの声が響く。

『私、知ってるわ。……この子を、知ってる。子供のころ、逢ったのよ。ハンカチを――』

 いたましげな表情で少女が言う。王子もまた、同じように。

『そうなんだね。彼は、私の異母兄だ。名を消された本来の第一王子にして――魔王につながる道となる者。魔力の吸引者。濾過の術者。けれど長い年月をかけて同様の任に就いてきた者たちのおかげもあって、十分に魔王の魔力は吸い上げ尽くしたと聖教会や魔導研究所は見込んでいる。あとは本体を討ち倒せば脅威はなくなるはずなんだ』

『ええ。分かっているわ。行きましょう――世界のために』

『ああ。この世界に恒久の平和を』

 物語のなかで培われた聖なる乙女としての力を少女が解き放つ。悪しき魔力をかき消すというまばゆい光が場に満ちて、数国を数年養えるだけの量を物質化した魔力結晶はいともあっさりかき消えた。

 ――眠る少年の瞳が開く。

 押し上げられた瞼の奥に輝く赤光が覗いた瞬間、ラドヴィスは「ひ」と怯える幼い声を聞いた気がした。


  *

  *

  *


 妹が泣いている。昼を回った太陽光が注ぐラドヴィスの部屋のベッドの上で、しくしくと涙を流している。さきほど目を覚ましたふたりは、起きてずっとその体勢だった。

 ラドヴィスが目を覚ましてすぐ視界に入ったのは、涙に濡れそぼるリーゼリアの顔。何事かと問うより先に妹は語った。夢のつづきを見たのだと。いじめっこの自分や恋に敗れる自分――そして死んだような姿の兄を。兄の姿をしたものが目を開いたあとに起こった戦いと失われたものと得られた平和とやらを。

 ……自分だけならともかくも、また妹まで同じものを見てしまったとは。ラドヴィスはほぞをかんだ。思い返すかぎり、これまでの生で最大の失態だった。リーゼリアはまだ魔力適正検査を受ける年代ではないから分からないけれど、この感応の強さは魔導師として優秀な才があるのかもしれない。

 起きてこない兄妹を起こしに来たメイドたちはふたりの様子を見て、今日はごゆっくりお過ごしくださいと下がっていった。今日も忙しく出仕した侯爵からも同じ内容の言付けをもらった。夫人は兄妹喧嘩でないことを確認して(むしろ兄から離れようとしない妹をうれしそうに見つめて)何かあったら呼ぶようにと自分の日課を過ごすことにしたようだ。

 連鎖的に、本日分のラドヴィスの訓練予定が白紙になった。次回の休暇をその分埋めることにしたから、しばらく過密なスケジュールになりそうだ。

「……リーゼリア。泣き続けると目が疲れていたんでしまうよ」

 冷やした布をまぶたに当てるラドヴィスの手に、リーゼリアの手が重なる。

「だって、だって」

「ごめんね」

「おにいさまが、あやまることなんて、」

「リーゼリアが怖い夢を見てるのに起こしてあげられなかったからさ」

「……、夢はのぞけないもの。むりですよ」

 無理じゃなかったから言っているのだけれど、かの少女の記憶だとか転生だとか前世だとかを語っても、おそらく混乱させるだけだ。だからラドヴィスは、一見意味不明な謝罪を繰り返すしかない。

 そんな間抜けな兄の姿が効果的だったのか、リーゼリアの嗚咽が小さくなった。

「でも……それができたらこわい夢見ても安心ですね」

 ふふふ、と涙声のか細い笑い声に、ふとラドヴィスは思いつく。知らぬ存ぜぬの罪悪感もあったけれど、この子に少しでも兄は頼りがいがあるのだと知ってほしくなった。

「……もしかしたら、だけど。できるかもしれない」

「ほんとうに?」

 驚いた仕草でリーゼリアが顔を上げた。……泣き顔以外の表情を見るのが、なんだか数日ぶりの気がする。夢の遊戯でいじわるの末に身を滅ぼす敵役としての姿ばかり見ていたこともあるのだろう。

「じゃあ、夢も変えられますか? おにいさまがあんなことにならないようにもできますか?」

「どうかな。夢は好きなように見られないものだし。そもそも、一度見たものをまた見るとは限らないし」

 嘘だ。とも言い難いが、本当でもない。

 リーゼリアに写し取らせてしまった分は、彼女の魔力径路に居座った。夢の中身そのものが衝撃的過ぎたこともあってか、リーゼリア自身が強く根付かせてしまっている。

 本来の意味の夢なら多少は魔法で干渉できるかもしれないけれど、ものが他人の記憶である。しかも複製だ。おまけにリーゼリアとの結びつきが強くなってしまったものにさらに手を加えたら、どうなることやら。

 だから中身をどうこうはできない。だが、おそらく確実に――居座ったその代物は『また』見ることにはなるだろう。

 いたたまれなさと一緒に首をかしげれば、リーゼリアは一生懸命にすがってきた。

「でも、できるならやってほしいです。わたしのことだもの。おにいさまがおちからを貸してくださったら、わたし、おにいさまがあんなことにならない夢にできるよう、がんばります」

「――――」

 どうやって、なんて問えなかった。問うても答えはないだろうから。

 ただ、リーゼリアのその思いが、言葉が、ラドヴィスの胸を打った。

 ――しょうがないよね。

 ――がんばります。

 仮初の身内という関係を抜きにしても、昨日と今日受けた気持ちの差異は大きかった。

「……じゃあ……」

 少ない唾を飲み込んで、ラドヴィスはリーゼリアの額に触れるか触れないかのところへ手をかざす。

「僕に見せてくれるかな。どんなものを見たのか、しっかり知っておきたい」

「……」

「嫌か?」

 恥ずかしそうに視線をそらしたリーゼリアは、ちがう、と眉を下げて笑う。

「ちがう世界のわたしは、今のわたしとちがうから。おにいさま、おどろくかもしれないって」

「…………」

 ああ、そうか。ラドヴィスの自省材料がまた増えた。持ち主の視点であるあの光景を見たのなら――そうか、そう考えてしまうのか。

「はしたないって言わないでくださいね。いまのわたしは、おとうさまやおかあさま、おにいさまが自慢にしてくれるようなしゅくじょになるのですから」

「……そっか。がんばりやさんだね」

「はい! じゃあ――どうぞ」

 瞳を閉じるリーゼリアの素直さがありがたく、そして辛い。すっかり自分の夢だと信じ込んでいるこの子に、さてどのように説明しようか。

 ……ひとまず勘違いはそのままにしておこう。大量の夢でいっぱいいっぱいだろうに、新たな情報に溺れさせるのも酷だ。

 それに、たかが遊戯だ。どこかの世界の誰かがこちらの世界に物語を求めて飛ばした羽根が形を成しただけのもの。リーゼリアとラドヴィスの扱いに悪意を感じるのもたしかだが、物語なのだから盛り上げ役や引き立て役がいなければ平坦なばかりである。

 これからのリーゼリアが、この意地悪な姿を反面教師にして育つというのも悪くないのではないだろうか。

 ――ラドヴィスはそのとき、のんきにもそう思っていたのだ。


 夢を共有したことまでは知らねど子供ふたりが仲良くなったことを喜んだ侯爵夫妻が、家族で一緒に出かけないかと誘ってくれるその日までは。

 赴いた先の別荘地で戯れる子供二人を眺めていたふたりに、魔術で強化された毒の矢が突き立つまでは。

 ……前々から郊外にある貴族たちの別荘を主に襲撃していた破落戸集団がカルド家のそれを標的に定めたのだと知らされたのは、夫妻の葬儀のあとだった。子供たちが難を逃れたのは、ふたりが自分の身を犠牲にしてでも兄妹の避難を優先させたからだ。傍流であるが、カルド家はかつて魔王を倒した魔導師の血を受け継いでいる。常人よりも強い魔力のすべてを、彼らは子供たちの未来へ使うことを決めた。

 リーゼリアはいわずもがな無力なのだからいたしかたないとしても、ラドヴィスはそうではない。戦いの経験こそなくても、指揮を受ければ応えることは出来たと思っている。だというのに、第一撃を受けてすぐさま転移魔法で王都の屋敷へ戻されたのだ。すぐに戻りたかったが、転移魔法は未習得のものだった。将来ほぼ拘束状態で過ごすことが頭にあって、身につけようと思っていなかったのだ。かつ、一瞬垣間見た程度で構築できるほど、単純な術式ではなかった。

 それでも、できるかぎりのことはした。結果にはつながらなかったけれど。

 急に出現した子供たちに驚く屋敷の面々へ事情を知らせ、警ら組織への連絡をとり、最大限に急いで駆けつけたときには、物言わぬ躯がラドヴィスを出迎えた。

 リーゼリアは王都の屋敷から出してもらえず、けっして顔以外には触れてはなりませんと厳命された状態で目を開けぬ父母と対面した。……幼い少女がどれだけの間呆然としていたか、どれほど長い間悲嘆に暮れていたか。見届けた誰もが、二度と口にすることはない。

 ……そうして――亡くなった当主の弟であるという人物が侯爵家を受け継ぐとして現れたとき。夢の遊戯に出てきたリーゼリアの父を名乗る男と同じ顔であることに気づいたとき。その男が侯爵家内部に誰も望まぬ強権を奮い始める兆候を見せたとき。

 ラドヴィスのなかに、リーゼリアの未来が遊戯に示されたあのどれかひとつになるのだろうという確信が根付いたのだ。


 それからは怒涛の日々だった。

 リーゼリアと危機感を共有することは易しかった。

 すでに幸福の最大値は失われてしまったこともあって、ふたりとも譲れないものは決まっていた。

 ラドヴィスはリーゼリアの幸いを望んだし、リーゼリアはラドヴィスを失わないことを望んだ。

 だからラドヴィスはまず、己の倫理観を殺した。新たなカルド侯爵を精神面から拘束して傀儡にした。視界だけは許してやった。理不尽に解雇されて入れ替えられるところだった使用人たちにはきちんとした紹介状とともに全員へいとまを出してやった。親しくなっていた人々への寂しさは残ったが、これから自分たちがやることを知られてはならなかったから。外で逢う分には問題ないのが救いだった。必要な人手については、魔法制御の自動人形を配置した。

 あの夫妻が育んだカルド家を将来的に解体する段取りを考えるのは心苦しかったけれど、ラドヴィスにもリーゼリアにも領地経営の手段はない。国家へ返上してまっとうな管理人をつけてもらうほうがマシだ。

 つづいてはラドヴィスの去就である。

 リーゼリアは順当に貴族令嬢として学舎へ行けばいいが、ラドヴィスはそうできない。とおになれば檻の中だ。これは避けられないし、避けるつもりもない。

 けれど、最低限の生命維持以外のすべてを装置として捧げるつもりも、もはやなかった。

 屋敷の中に、いつかリーゼリアが訪う箇所のいくつかに、彼女だけが使うことのできる例の部屋への移動魔法陣を設置した。ラドヴィスから赴くことはできなくても、リーゼリアが兄にいつでも逢えるよう。緻密に隠蔽処置を施したおかげで、最後の最後まで誰にも気づかれなかった完璧な出来栄えだ。

 ラドヴィスがとおになるまでの数年間、脇目も振らず準備を重ねたふたりだったけれど、いざいっときの別れの日にはやっぱり泣いた。すっかり仲良くなった兄妹の別離を惜しむ侯爵の心無い涙だけが、滑稽だった。

 ……いざなわれた部屋での初仕事として魔王の躯に接続したラドヴィスは驚いた。残量が少ないとされている魔力量が、そうではなかったのだと知れたからだ。

 この世界でありながらこの世界に干渉できない場所にただ眠るその躯には、ラドヴィスに推し量れぬ量の魔力が満ちていた。だから――減っていたのは、装置が吸い上げる魔力量だ。血をつなぐ以上はどうしても起こる濃度の減少か魔術式の劣化か――両方、もしくはそれ以外のなにかの理由で、間違った判断が確定事項とされていただけだったのだ。

 別に魔王を倒したいわけではないけれど、扱いに困ったのは本音だ。

 というより、これだけ魔力に満ちた存在がどうしてむざむざ倒されたのか疑問が浮かんだ。かつての英雄たちの実力は知らないが、ここまでの強者に及ぶほどのものを過去の者たちは本当に持っていたのか。

(……いまとなっては、誰も答えなんて持ってないのにな)

 過去の人間にも今の人間にも――妹を除いては――逢えないラドヴィスは、嘆息したものだ。

 役目にあたって生命維持だけを残すのは退屈に心を殺されないためもあるのかもしれない。そんな気づきを得た。ラドヴィスの場合はそれどころでなく忙しいので、退屈どころの騒ぎではなかったのだが。侯爵の操作、自動人形の操作、魔力の吸収と物理魔術式への変換構築。挙げるは易いが行なうは難い。成長するにつれて余裕も出てきたが、最初の数年は脳や魔力径路に常時熱湯を流し込まれているような感覚だった。

 王城からチェックに入られる場合も想定して対策を考えていたが、それはなかった。外部で確認するといっていた規定の魔力量さえ処理できていれば問題ないのだろう。おかげでラドヴィスはリーゼリアとともに、望む未来へ向けてやりたい放題が出来たのだ。悪い意味ではなく。ただ単に、自分たちのために。

 ……牙を磨きながら機を伺い、未来への方針が定まったのはリーゼリアの婚約が決まった日。

 相手は第一王子。ディアッド・ハーラス・ミラド。

 ――リーゼリア・カルド侯爵令嬢が数多の罪を犯して処断され、国を追われる物語。それを覆すことを、この日兄妹は誓った。


  ◆

  ◆

  ◆


 罵られても侮蔑されても、手放しても手放されても、物語には添ってあげる。

 悪の令嬢として自滅して、貴女に王子様を差し出してあげる。


 ――――でも、そのあとは譲らない。


 朝焼けの瞳が紅に濁ることも、英雄の再臨も、聖女の降臨も許さない。

 集められた魔王の魔力を砕けば、未だその躯につながる核となった人を通じて衝撃が向かう。攻撃を受けたと察した躯は反射的に、現状確認のために動かせるものを求めるだろう。赤い瞳はその証。

 魔王の意思がかつてのままに残っているのか、敵意に敵意を反射するだけか――そこまではもう分からない。遊戯の向こうにあった戦いの終わりが真の意味で魔王の終焉となったのかも同様に。


 ――――でも、もうそれは起こらない。


 だって、自分たちはこうして、予測した未来を飛び出した。


 ……のは、いいのだけれど。

 飛び込んできた爆弾発言に、リーゼリアは「え」とか「は?」とか繋がりのない音をこぼしていた。

 驚くよな、ごめんな。いつか説明しようと思ってたんだけどお互い余裕なかったしもう全部終わってからのほうがいいよなって思ってさ、なんて語りだしたラドヴィスの長い回想を聞き終えても、まだちょっと、なんだか、もう、理性と納得が追いつかない。感情と驚愕がパレードだ。

「ええと、ええと」

 まさか今日のこの日までずっと自分の過去だと信じてきたものが他人様の、かつ、最大のキーパーソンとなった彼女のものだったとは。おまけにラドヴィスとの間にそんな出逢いがあったとは。

 ああでもだから、それがあったから、自分たちはここにこうして存在していられるわけで――ならば。

「ごめん」

「それよりも!」

 あたたかな魔力結界で外敵の危険を排除した月の下、申し訳無さそうに笑うラドヴィスの胸めがけてリーゼリアは飛び込んだ。


 ――――ならば、もう。


「明日のことを、考えましょう!」

「……リジィ」

「わたしもラドもあの人たちも誰も知らない、これからのことを!」

「――、うん」

 そっと背中に触れる手のひらは、幼いあの日を思い出す。

 押しつけた顔を上げればずっと変わらないこの人の笑顔があると知っているリーゼリアはふくふくと、置いてきた仮面の名残も残らぬ笑みを浮かべた。


  ◆

  ◆

  ◆


「あの、いまさらですけど。制御者のない魔力水晶はどうなるんでしょうか?」

「別に変わらないはずだ。魔王との接続は切ってるし、ちゃんと手順を知ってる者が祭壇に設置すればいままでと同じように使える」

「……、……殿下と彼女は知っていると思います?」

「王太子教育に含まれてたと思う。あいつが選ばれるかは、まだはっきりしてないんだっけ?」

「ええ。第二王子も第三王子も優秀ですから」

「国王陛下にはうれしい悩みだろうなあ」

「ところで、祭壇への移行はいつの予定でした?」

「来年」

「おふたりが魔王退治に乗り出すのは、わたしを追放してから間もなくだったような……」

「核が消滅してることに気づいて留まってくれたらいいな」

「消滅なんて、そんな……」

「過去に事例はあるんだ。存在を保てなかった装置役が魔力に負けて消化されたやつ。……ごめん、こわい話した」

「……ラドならぜったいにそんなことないと分かってても、ぞっとしました」

「ごめんね」

「許してさしあげます」

「ありがと」


 のちに新たな英雄が生まれたかどうか、結局ふたりは確認しなかった。


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