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ご発見ありがとうございます。ゆるくお目通しと叶うならばお楽しみいただければさいわいです。



 むかしむかしのことです。

 この地に魔王を閉じ込めた封印は、完全なものではありませんでした。

 それは人間の限界でありましたし、魔王の強大さそのものでありました。

 年月が経つほどにほころぶ封印をどうすべきかと議論した人々は、ひとつの方法を見つけ出しました。

 魔王を倒した王家の血筋に封印を行なった魔導師の血筋をかけあわせて生まれる子供を、封印を強化する鍵とされたのです。

 ……子供の存在そのものが在ればよいと伝えられましたので、王家と魔導師の家は、子々孫々にそれをつなげていくことを第一の掟としました。王家の長子に魔導師の家の性別が合う長子を。

 長い長い時が経ち、何がおぼろげになったとしても――このひとつの決まりごとだけは、必ず違えることのないようにと。


 ……その子供が何をもって封印の弱体化に対処するのか、それはどこにも伝わっていません。


  *

  *

  *


「リーゼリア・カルド侯爵令嬢。私、ミラド国第一王子ディアッド・ハーラス・ミラドは今日このときをもって貴女との婚約を破棄とする。また、我が愛しのメアリ・クドラへの多岐に渡る暴挙は未だ許しがたいが、国外追放を持って放免とする。三日以内に国境を越えよ。証はその腕輪を国境管理官へ渡すこととする」

「……ご意向、拝聴いたしました」


 静まり返ったパーティホールに、傲然とした宣言の残滓が散っていく。

 銀の髪を流し慎ましくこうべを垂れるリーゼリアへ追い打ちのひとつふたつはかけられるかと思ったが、宣言を放った当人は、これ以上彼女へ気を回したくないのだろう。傍らに引き寄せていた令嬢をさらに抱き込んだようだ。豪奢な絨毯の上で、華奢な脚がふらつくように宣言者――現第一王子へ寄り添った。

 下がれ、とそっけない言葉を受けたリーゼリアは眼前に放り投げられた腕輪を片手に臣下の礼を保ち、その場を後にした。

 同情、憐憫、嘲り、戸惑い。昨日まで学友として親しんだ卒業生たちからの視線を数多と背に受けながら。


  *

  *

  *


 卒業パーティが行われていたホールから、王城を辞するために歩を進めるリーゼリアに何があったか、知る者はまだいないようだ。顔なじみの女官、侍従、騎士たちといつものように挨拶を交わしていけば、それは知れた。これだけでも、先刻の宣言が第一王子の独断であると分かる。

 現在隣国に滞在している国王夫妻は、このことを知ればどう思うだろう。リーゼリア自身は、おふたりとは良好な関係でいられたと思っている。それこそ、婚約者である……あった、第一王子よりも。

 けれども、そんなことは分かっていた。

 リーゼリアはディアッドが立太子する前に婚約を破棄されるのだと、幼いころから知っていたのだ。

 どうしても心から打ち解ける気になれず、さりとて仮面をかぶりきれるほど大人でもなかったリーゼリアは当然のように、そして敏感な年頃のディアッドもまたリーゼリアと向かい合うときにはいつも不満そうだった。王子妃教育を受けて淑女として認められるようになってからは、そのいかにも澄ました態度が気に入らないのだと言われるようになった。彼女もそうしている自覚はあったので、お互いに歩み寄りなんて出来なかったのだ。

 だがそこで、かのご令嬢の出番である。

 王子殿下と婚約者が通う魔法学園に一学年遅れて入学した彼女は、下級貴族の出ながらも類稀なる魔力量で特待生の座を、そして王子殿下の興味を惹いた。儚さと健気さが同居する、苦労を強気の笑顔で受け入れて日々を邁進する姿が好ましいのだと、側近候補たちと会話しているのも聞いたことがある。むしろあてつけのようにリーゼリアをちらちら見ながら声を張っていたのは、ちょっと大人げないですよとご忠言申し上げたくなった。しなかったけど。

 やったことといえば、ご令嬢の教科書にらくがき(ネコチャン)したり、机に風魔法で肉球を刻んだり、ロッカーに一見実物にも見える首吊猫ぬいぐるみを仕掛けてみたり、気を逸らせたリーゼリアの取り巻き(自称)が令嬢を階段から突き落としたときに大怪我しないよう風魔法でクッションを作ったり(物陰から)、いよいよ卒業が近づけばもういいの真実の愛をふたりに貫いてほしいのわたくしは悪役になるわと周囲を説き伏せて命の危険だけはないようにリーゼリアの指示であるとそれとなく匂わせて些細な嫌がらせは続行させたりと――そんなところだ。

 真実の愛などと口走ったときに嘘くさくならないよう、入学前から暇を見ては恋愛小説を嗜み啓蒙するなど事前工作も欠かさなかった。

(我ながらよくやり遂げたものだと思うわ)

 ……ちなみに、彼らの行動も自分がそれを行なうこともリーゼリアは知っていた。やらない選択肢はなかった。

 これらは予知したわけではない。

 最初から確信していたわけではない。

 ある日突然、頭に記憶が居座ったのだ。リーゼリアが知っている過去、知っている現在、今は知らぬ未来が現された。

 示されるいくつかの事柄をなぞったら、そのとおりになった。変化はあるだろうかと試みたいくつかの事柄は、成ったり成らなかったりとまちまちだった。

 きっと大筋のようなものが存在して、変えられぬもの、変わってもよいもの、そんな感じに区別されているのだろう。

 それとは別にリーゼリア個人にももちろん、変わってもよいもの、変わってほしくないものがあった。そして彼女にとってディアッドとの婚約と付随する未来は、変わってもよいものだった。

 ――それよりも、なによりも。リーゼリアには、変えなければならないものがあったのだ。

(陛下たちは、どう判断されるのかしら……)

 馬車に乗り込みながら、ふと、王城を振り返る。星を湛える夜闇と真珠の蒼銀を背にそびえ立つ白亜の城は、今日も荘厳として美しい佇まいを見せていた。

 今日から先を――婚約破棄されて第一王子の傍らから退場したあとの未来を、リーゼリアは知らない。記憶の現す事象は、どう掘り下げようとしてもその向こうを見せてくれることがなかった。

(……まあ、それもそうなのだけれど)

 意地悪令嬢を退治した王子様と健気なご令嬢は晴れて結ばれ、ハッピーエンドを迎えました――かいつまめばそういう表現である記憶の最終場面。物語の終焉。あちらの世界では遊戯として絵物語で繰り広げられたラブロマンスが、そこで幕を下ろしたからだ。

 暗転した画面を思い出し、ふとリーゼリアはかぶりを振った。

(違ったわ)

 暗転のあと――王子様とご令嬢が並んで佇む場面があった。王宮の客室に一歩劣る程度の装飾に満たされた明るくも寒々しい室内の中央に置かれたベッドの中を、彼らは見ていた。

 正確には、ベッドごと覆う巨大な魔法水晶に包まれ眠る少年を。


 そして正真正銘、そこがリーゼリアに与えられた記憶の限界だ。

 夢という形でもたらされた長い長いその時間にその場面を見た瞬間、リーゼリアが幼い体全部を振り絞って悲鳴を上げながら飛び起きたせいだった。

 夢なのに薄れも忘れられもしない、まるで焼きつけられたように明瞭に居座るそれを記憶として意識に居場所を作れるようになったのは、しばらく後のこと。そのときは、眠る少年の姿に怯えるしかなかった。まるで死者のように血の気のない顔色で呼吸しているかどうかも定かではない、夜色の髪をした少年は――閉ざされた瞳が星の銀色であることをリーゼリアは知っている。

 なぜならその人こそは、彼女の兄。ラドヴィス・カルドなのだから。


  *

  *

  *


 王城から近いカルド邸へ無事到着したリーゼリアは御者に礼を言い、出迎えてくれた門番や執事とも挨拶を交わし、二階へつづく階段を早足に進んだ。

 自室を素通りし、屋敷の主たるカルド家当主が現在業務に勤しんでいるであろう執務室の扉の前に立つ。少しあがった呼吸を整えてから手を持ち上げ、中へ音が届くようにしっかりとノックを響かせた。

 本来であれば許しを得てから入室するのだが、リーゼリアはノックした手をそのままドアノブへかける。キィィ、と響く蝶番の音は古めかしくあるが耳に心地よい。

「失礼いたします」

「…………」

 扉の正面にあたる大窓を背にして設置された執務机に腰掛けていた壮年の男性が、無表情にリーゼリアの立つ位置へ顔を向けていた。

 年齢にふさわしくととのった見目と恰幅を持つ男が何者かと言われれば、もちろんカルド家当主である。彼が何も言わないうちから、リーゼリアは再び動く。扉を閉め、机を挟んで当主と相対する位置へと移動したのち、ス、と礼を披露した。

「ただいま戻りました。……叔父様」

「…………」

「このたび、わたくしと第一王子殿下の婚約が破棄されました。長くカルド家の大黒柱として在ってくださった叔父様にはご失望のことと思いますが――」

「…………」

 当主の表情は動かない。だが、その瞳の奥に僅かな感情が滲んでいることにリーゼリアは気がついた。

 朝焼けの僅かな金色と評される彼女との血縁を示すような当主の瞳は、枯れた麦穂のそれに似ている。そこに在る感情が前向きなものであれば趣と年代を感じられるのだろうが、あいにく、浮かんでいるのは真反対ともいえそうなものだ。

 憎しみ――だとか。嫌悪――だとか。……恐怖、だとか。

 自分よりはるか歳上の、力を行使されればなすすべもないような相手に、だがリーゼリアは微笑みかける。

「……貴方への罰も、今日までです。おめでとうございます。わたくしたちが去ったあとには、どうかお心のままにご自由に、お過ごしくださって構わないのですよ」

 けれど、

「カルド家当主による長年の不正行為の責任を、とってからになるでしょうけれど」

「…………」

 ぐるぐる渦巻く負の感情が、ぎらぎら淀む堆積物が、少しも動かぬ眉の下に蠢きつづける。

 腕一本と動かさず、ただそこに在るだけの当主の姿を一瞥したリーゼリアは身を翻し、執務室の扉を閉ざした。完全に閉まり切る前の隙間からは、入室時と変わらない姿勢の男が、逆光を受けて影となっていた。


  *

  *

  *


 ――ホップ。ステップ。……スキップ。

「おつかれさま」

「ありがとう」

「いままでほんとうに、がんばってくれたわね」

「ゆっくりやすんでちょうだいね」

 一度自室に戻って動きやすい平服に着替えたリーゼリアはこれからに必要な荷物と預かりの腕輪を携えて、屋敷に使えてくれていた面々へと声をかけてまわっていた。

 もう誰一人として動くことはないが、優しく自分を見つめてくれるまなざしは変わらない。感傷からの錯覚だとしても構わなかった。本来の当主夫妻であったリーゼリアの両親が亡くなってからずっと、日々の暮らしを支えてくれたのは彼らだったのだから。

 長く、長く縛り付けてしまったけれど、やっと解放してあげられる。ゆっくりと眠ってほしい。残る抜け殻がどう扱われるかは分からないけれど、意思なきそれはただの物だ。それでも寂しさは否めないが、もしかしたら――とも思う。

「……」

 廊下の突き当たりに差し掛かったところで、リーゼリアは軽やかに進めていた歩みを止めた。いまやこの場で彼女を見る視線などひとつもないと分かってはいたが、念のために周囲を見渡して無人を確認する。

 それから正面の壁に右の手のひらを押しつけた。

「――、――――」

 そっと呟く声に応えて、壁全体が淡く光る。リーゼリアの全身を飲み込んだ月光のようなそれがおさまったころ、彼女の姿は消えていた。


  *

  *

  *


 一切の出入り口が排除されたその部屋は、カルド邸と王宮のほぼ中間にそびえる大教会の地下に存在していた。国一番である王宮の貴賓室と比べれば一歩劣る程度の装飾に満たされた室内は、明るくあたたかな光に満ちている。

 屋敷の壁前から転移魔法で部屋を訪れたリーゼリアは、迷うことなく中央に設えられたベッドへ駆け寄った。

「お兄様!」

「ああ。おかえり、リジィ」

「ただいま戻りました」

 侯爵令嬢であるリーゼリアから兄と呼ばれたのは、彼女より幼い風貌の少年だった。ベッドに上半身を起こし、貴族としては眉を顰められそうな口調で気さくに片手をゆっくりと持ち上げる。

 指をまっすぐ伸ばしきれない手のひらを、リーゼリアはそっと自身の両手で包み込んだ。令嬢としてははしたなくも急ぎ足でベッド傍に侍ってしまったが、少年は咎めずに笑っている。

 闊達さと聡明さが同居する彼の瞳は、紅から金へと移る朝焼けの色。そして十代前半程度の体つきに相応しく、楽しげに細められていた。跳ねて持ち上がったままの眉を覆うのは、リーゼリアの銀髪を夜空で染め抜いたような色の髪だ。ふわふわとゆるくウェーブのかかったそれを梳くのがリーゼリアの趣味でもある。手触りもそうだけれど、彼が気持ちよいと笑ってくれるのがうれしいから。

 今もそう。楽しそうにしてくれているのが、うれしい。

「お兄様――ラドお兄様。聞いてください」

 自分だけに許された名を呼んで、自分だけを見てもらって、そして今日自分が成してきたことを告げられることがうれしい。

 ぐ、と、知らず手に力をこめたリーゼリアは、ほのかだった笑顔を、ぱあぁ、と花開かせた。

「わたくし無事に! ええ、完膚なきまでに! 断罪婚約破棄国外追放受領までを完遂いたしました‼」

 彼女の渾身の勝利宣言を最初から最後まで聞き終えて、ラドと呼ばれた彼も顔全部で笑ってみせた。空いた片手をリーゼリアの頭に伸ばしかけるが、考え直したように頭を動かし、互いの額をくっつける。適当にこすり合わせる動きではさみこまれた前髪がくしゃくしゃになるむずがゆさに、ふたりの笑みが深くなった。

「ああ、本当によくやった! さすが僕の妹だ!」

「ええ、ええ! いじわるがつい控えめになってしまいましたけれど、殿下は規模の大小などお気になさらない大層な器でいらっしゃいました! かのご令嬢も事が物語どおりであるからか、不審も文句も不満もなく腕におさまっていらっしゃって! ――ただ」

「……うん?」

「いじわるをするわたくしの姿は、殿下たち以外にも不快でありましたでしょうね。せっかく知り合えた皆様に見苦しい日々を置き土産にした、それが少々心残りです」

 しょんぼり。伏せられた瞼に焦点を合わせた少年が、表情を消して待つことしばし。おずおずとながら、再度視線を合わせてきた妹へ、彼は再び破顔した。

「なあに、最後にはこうして恋人たちの盛大な逆転劇だ! 彼らもさぞや、痛快な気持ちだろうさ!」

「……ラドヴィスお兄様」

「なんだ、改まって。いつものようにでいいじゃないか」

「感謝の気持ちを表したのです」

 こころなしふくらんだリーゼリアの頬を、ラドヴィスが撫でる。きめこまやかな肌を数度堪能した手のひらと指先は名残惜しく役目を終えたかと思えば、雨を受け止めるように掲げられた。

「ほら」

「……まあ」

 手のひらの直上、ふたりが見つめる空間に厚みのない板状の映像が浮かぶ。映っているのは、さきほどリーゼリアが背を向けた未来の高貴なパートナーだ。音声までは拾ってこないが、見える表情と読唇を行なえば何を話しているかはだいたい分かる。かいつまめば、今日の成果を語り合っているといったところか。実に誇らしげで嬉しそうだ。

 明るい未来をうたがわない婚約者たちを眺めて、リーゼリアは微笑んだ。

「しあわせになってくださいますかしら」

「なるんじゃないか? あれだけ希望に満ち溢れてるんだから、多少の困難は愛で乗り越えられるだろ」

「そう、そうですわね!」

 ラドヴィスの言葉にうなずいたリーゼリアは、つないでいた手を解いて身を起こす。

「せっかくですから、破棄の場面もご覧になりますか?」

「見てたけど?」

 すでに映像の消え失せた虚空を示してラドヴィスが言うが、リーゼリアはかぶりを振った。

「わたくし視点ですわよ。臨場感が段違いだと思うのです」

「そこまで野次馬根性はないよ」

「そうですか……」

「それに、かわいいリジィへのあんな視線を正面から見たら、今すぐ殴り込みに行きたくなる」

「あらあら」

 リーゼリアは、ころころと笑って立ち上がった。

「では、そろそろわたくしは王都を出ようと思いますが――、ずるをしたいです」

「うん?」

 言ってみろ。いたずらっぽい笑顔で、ラドヴィスが先をうながした。

「こんな夜に馬車も徒歩も何があるか分かりませんから、門まで送ってくださいな」

「兄使いの荒いやつだな」

「だって、お兄様へお願いできるのもこれが最後じゃありませんか」

「…………」

 朗らかな要請から一転、郷愁をにじませたリーゼリアの言葉に、そうだなとラドヴィスもうなずく。

「北の門でいいか?」

「はい。お願いします」

 ラドヴィスの腕が空を動き、リーゼリアの周囲に光が踊る。

 紅と金の瞳は穏やかに見つめ合い、同じタイミングで細められた。

「さようなら、わたくしのお兄様」

「さようなら、僕の妹」

 それを最後に、出入り口のない室内から、人の気配は消え去った。


 ややあって。

 失われた質量を埋めるかのように、否、埋めても有り余る荷重がそこに出現する。

 ベッドを中心に部屋いっぱいを占めるそれは、幼いリーゼリアが夢に見て記憶にもたらされた魔法水晶によく似ていた。中身に眠る少年はいないし、見る者が見ればその密度も構築式も桁違いの代物であると驚くことになっただろう。

 そうしてもしも、見る者が知っているならば。はるか昔に封じられた魔王の力を彷彿とさせることに、戦慄のひとつもしただろう。


  *

  *

  *


 王城を遠くに臨むここは、王都に出入りするための門のひとつ。その外縁。

 整備された街道を進むリーゼリアを、夜風がふわふわと撫でていく。背中に注がれる視線は、彼女が先程出てきた門の番兵のものだ。

 王家の紋入りの腕輪を見た彼は、とても驚いた表情をしていた。腕輪そのものにか、以前行なった婚約発表のお披露目で王都の人たちとともにお祝いした令嬢がこんな時間にこんなところから王都を出ようとしていることにか。分からないが、言葉もなく腕輪とリーゼリアに視線を往復させて硬直したままだったので、彼女はしかたなく、無理矢理に腕輪を握らせて門をくぐったのだ。

「第一王子殿下のご意向です」

 事情を知らなければ今夜一晩、王城からの通達があれば数時間、それくらいは混乱するだろうが大目に見てもらえればと思う。

 とりあえず、今は急ぎ、彼の目が届かないところまで行かなければ。そのために、リーゼリアは歩みを進めていた。

 けっして早くない令嬢の足だが、動かしていればその分距離は進む。目的は達成できたかと振り返った彼女の耳に、待ち合わせた覚えのない声が響いた。

「なんだよこれ、罠かよ」

「上物も上物じゃねえか――」

「護衛っぽいのもいねえだろ、やっぱ怪しいだろ」

「いやでもやっぱさぁ」

「……」

 リーゼリアの右手方向、道なき道からやってきた強面の面々がいぶかしげに彼女を見定めていた。リーゼリアは気配を読むことに長けているわけでもないから、声がしたところでようやく彼らに気づいたわけだが、あちらはしばらく前から彼女の存在を把握していたらしい。

 夜に街道を使うにはあまりにも考えなしのリーゼリアは、彼らのような者たちを捕らえるための囮ではないかと思われているようだ。それはそれでおもしろい。けれどこうして姿を見せたのならば、きっと――

「探ったが、それらしい気配はねえぞ」

「つーことは、ただのバカか」

 軽口を叩き合う彼らはいまや、リーゼリアの四方を塞ぐように広がっている。周囲を警戒する者もいるが、ほとんどの視線は獲物を見定めるようにぎらついていた。近づいたことでようやくリーゼリアにも見ることが出来た彼らの姿は、いかにもでございな出で立ちだ。

「……」

 立ち止まったリーゼリアはというと、果たして語りかけるべきか怯えを見せるべきか迷う。これまでの暮らしで遭遇したことのない粗野さに沸き起こる感情はあるけれど、貴族令嬢として培ったものがそれらを隠すことに力を発揮した。

 彼らからすれば、そんなリーゼリアはどう見えるだろう。ふと浮かんだ疑問には、ちょうど答えがよこされた。

「なんだぁ、怖すぎて凍りついちまったかぁ?」

 怯えて表情も失ってもはや震えることもできないか、と判断されたようだ。ならばそれでいこう、とリーゼリアも決めた。それから心のなかでちょっとだけ、王城でぬくぬくしている元婚約者の株を上げる。

 もしかしたら王都を出たリーゼリアに刺客を差し向けたりするのではないか、なんて考えていたので。ごめんなさい。

 などと思ううちに、野盗だろう彼らが動き出していた。口々に何かを――おそらくリーゼリアを萎縮させようという意図の言葉を吐き出しながら包囲を縮めてくる。触れればリーゼリアの皮膚なんてすりきれさせてしまいそうな手のひらがいくつも、彼女を囚えようと伸ばされた。

 そして、


「……」


 リーゼリアの耳から、音が消えた。目は景色を失った。

 だから彼女は聞こえなかったし見なかった。自分に向かってきてたすべての手が、一瞬にしてこまぎれのお肉になってしまったところを。飛び散る飛沫が手の持ち主たちを、地面を濡らすところを。なのにリーゼリア自身へは、一滴たりとも届かないところを。

「……」

 一瞬のあとの、もう一瞬。

 リーゼリアが呼吸をみっつ数える間にお肉が地面を埋め尽くした。

「おまたせ、リジィ」

 耳が音を取り戻したのだと分かったのは、静寂を揺らして彼女の名を呼ぶ声のおかげだ。視界はまだだけれど体にまわされた腕が、声の持ち主が違いなく想像したとおりの人であることを教えてくれる。

「お兄様」

「お兄様はおしまいだよ」

「ラド?」

「そう」

 満足げな背中からの声に、そういえば待ってませんよと付け加えようとしたリーゼリアの体が、浮遊感に包まれた。

「場所変えよう」

 その声とともに、ふたりの周囲の風景が一変した。天上に輝く月こそそのままだけれど、星の配置が違う。視線をめぐらせ確認してみれば、周囲は街道としてととのえられた平原ではなく、森に囲まれた高台の岩場だった。木々の向こうにかろうじて建造物と分かる白亜のそれはもしかして、かの王城だろうか。

 それから、リーゼリアは体ごと振り返る。未だ腕は彼女を包んでいるとはいえ、力が入っていないからできたことだ。肩より少し低い位置にある頭が視界に入ったところで、くちもとをゆるめる。

「ラド」

 もう一度その名を呼ばわる声に、自分でも分かるほどの喜色が乗っていた。朝焼けの瞳が彼女を見上げて、ん、と細められる。――が、すぐにラドヴィスは顔をしかめた。

「どうしました?」

「終わったら一気に成長できるかと思ってたのに」

「……、ふふふっ」

 長らく続いた部屋での日々に終止符を打ったあとを期待していた分、落胆があるのだろう。思わず笑ったリーゼリアだが、見慣れた姿のままでいてくれる安心感が大きいこともあった。

 ……相応の年齢まできちんと育ったラドヴィスは、きっと格好いい。けれど、経過を飛ばしてそんな姿を見せられたら、慣れるのに大変だと思うのだ。

「ゆっくり、育っていきましょう。ラドはもう、ぜんぶ、自分のために生きていいんですから」

「全部は嫌だな」

「え?」

 下から伸びてきたラドヴィスの手が、リーゼリアの頬に触れた。軽くうながす力に従って顔をかたむければ、ほぼ同じ高さになった朝焼けが黄金を映して――

「……」

 幼さを感じさせるくちびるの触れ合いのあと、疑問への解がつむがれた。

「僕は、リーゼリアのために生きるって決めてる。カルド家は失われるしもともと養子でもなかったから兄としては終わったし、あっちには名前も残ってないからただの僕としてになるけど」

 自分の分がゼロになるわけではないからそこは安心してほしい。

「おまえが僕に、なんとかするって言った日から、ずっと。……リジィ?」

 頬をおさえてうつむいたリーゼリアを、ラドヴィスが覗き込む。ぽぽぽ、と響いたかわいらしい音は、果たして空耳に留まるのか。

 なぜキスよりも言葉の方で照れるのかはさておき、まあどっちでもいいやかわいいしとラドヴィスが眺めることしばし。万感を込めた声が、彼のかわいい彼女のくちからこぼれ落ちた。

「……がんばって、よかった」

「うん、おまえはほんとうにがんばっ――……、あ」

「なに?」

「今を逃したらずるずる伸ばしそうだから言っておくけど」

「?」

 今思い出しました感丸出しのラドヴィスの発言に、しんみりとしていた空気が霧散した。

「おまえの記憶ね、あの女の分の複製」

「……え?」

「本物の転生者はあいつだけ。おまえは――おまえの魂は正真正銘、この世界でだけめぐる箱入り娘だよ」

「え」

 ラドヴィスの言葉が進むにつれて、まんまるく。まんまーるく。今夜の月も負けそうなほどまあるく目を見開いたリーゼリアがその直後上げた悲鳴は幸い、令嬢である彼女を知る王都の民の誰の耳にも、届くことはなかった。

 ……傍らに響く、ご機嫌な少年の笑い声も。

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