06
あのお告げの日より数日が経ち、王太子クルスペーラから正式に婚約破棄の了承と修道院への移動許可証をもらうことになった。ヒメリアが自室の窓から確認すると、邸宅の玄関前に立派な馬車。
(あの馬車は、間違いなく王宮のものだわ。本当にクルスペーラ王太子が、私のお見舞いにやってくるの? 大丈夫かしら)
「お嬢様、久しぶりの王太子様とのご面会。さぞ、緊張されていると思いますが……療養中ですし、無理してたくさんお喋りしなくても平気ですよ。お二人の会話がスムーズに行くように、心がリラックスするハーブティーを準備しましょう」
不安げな表情で窓の向こうをチラチラと見つめるヒメリアを勇気付けるように、メイドのアーシャが気分が良くなるハーブティーをセット。
「いろいろと、気を使わせてしまってすまないわね、アーシャ……。突然婚約破棄する上に出ていくなんて、無謀かも知れないけれど。でもあまりにもリアルな予知の映像を見せられると、やはり神様は本当にいるとしか思えないの」
「ご主人様や奥方様は、もし本当に他の女性の影があるのなら、婚約破棄は検討されても良いのでは……と。けれど、出て行かれるのはやはり反対のようですね。もちろん、私も心配しております」
当初は夢見の悪い日にマリッジブルーのあまり奇行に走ったという見解を持たれると思ったが、外部の人間は知らないはずの聖女フィオナの存在を完全に読み当てたヒメリアを疑う者は誰もいなかった。けれど、家を出ていくという計画には、未だに両親も使用人も反対の様子。
コンコンコン! 会話を遮るように、自室のドアをノックする音が響く。
「……ヒメリア様、王太子クルスペーラ様がお越しです!」
「ええ、どうぞ通して頂戴」
何度タイムリープを行なっても自分を裏切る王太子を部屋に招き入れること自体、恐怖心が拭いされないが致し方あるまい。ヒメリアはロザリオを手に握りしめて、クルスペーラと対峙する覚悟を決めた。
(……! 以前よりやつれた感じはあるけど、随分とスッキリした表情ね。それにあのピンクの薔薇は……?)
王太子はヒメリアと交際し始めた頃を思い出したのか、ヒメリアが好きなピンクの薔薇の花束を手渡してきた。最初は拒否しようとしたが、半ば無理やり押し付けられてしまい、大人しく受け取ることに。
「久しぶりだね、ヒメリア。思ったよりも回復が早そうで、何よりだ。今更、僕から花束なんてもらっても嬉しくないだろうが、最後のよしみで受け取って欲しい」
「身に余る光栄ですわ、クルスペーラ様。そして修道院への許可、ありがとうございます」
仕方なく受け取った花束は、すぐにメイドが花瓶にいけてくれた。別れを決断した女性に贈るには豪華すぎるピンクの薔薇は、ヒメリアの心を取り戻そうとしている王太子の心の表れだ。お見舞いの時間は探り合うようなやり取りを交えつつ、ゆっくりと流れる。
「どうだろう? 体調も優れないようだし、修道院入りは保留にしてこの国で療養に専念しては」
「この回復効果の高い薬草クッキー、大陸の修道院で作られているんですよ。向こうで暮らした方が、きっと健康に近づくと思うんです」
ハーブティーを飲みながらたわいもない会話、お茶菓子の薬草クッキーはヒメリアが希望する大陸の修道院で作られているものだ。とても密やかに、二人の間に別れの空気が漂う。
夕刻が近づき、そろそろ立ち去るだろう……といったところで、クルスペーラ王太子から意外なセリフが飛び出す。
「もしも……僕の方からもう一度、復縁したいと申し上げたら……」
「例え王太子様のお願いであっても、神のご意思には逆らうことは出来ません。あなた様に相応しいのは聖女フィオナ様であると、お告げを頂いたのです。私は身を引くようにと」
まさか、例え話とはいえ復縁を持ちかけてくるとは思わなかったが、ヒメリアはロザリオを手に神に祈る仕草で自らの決意を語り復縁話を断った。
「……そうか、とても残念だけど神のご意思は正しいのかも知れないね。実は最近、自分で自分がコントロール出来ないんだ。聖女フィオナという存在に全てを支配されていくような……だが、復縁したかった気持ちは最後の本音だ。サヨナラ、ヒメリア……愛していたよ」
「さようなら……クルスペーラ王太子様」
ついに破局という結果を迎えた二人、クルスペーラ王太子は最後にヒメリアの手の甲に口付けて部屋から出て行った。
(今更、優しくされても……何もかも遅いのに。もう私には、彼を信じる心の余裕はないのに。どうしてなの……神様!)
こうなることが分かっていたはずなのに、気がつくとポロポロと涙を零していてヒメリアは思わずハッとする。その涙は、かつてのタイムリープで何度断罪されても、決して流れることのなかった憂いから溢れる涙だった。