哲学的ゾンビとフレーム問題とチューリングテスト(GHOST IN THE CONNECTOME)
議論の出発点は以下の疑問になる。
「脳がチューリング機械ならば、なぜ停止問題が起きないのか?」
チューリング機械は可算濃度しか処理できない。そして量子チューリング機械も同様である。無限のテープが存在しない以上、結論はこうなる。
「脳はチューリング機械ではない」
あるいは、
「脳は量子チューリング機械ではない」
そうであるなら、意識とは何であるのか? ここでフレーム問題を取り上げたい。意識の問題はフレーム問題と関連している。脳をチューリング機械と仮定すれば、フレーム問題は以下のように定式化できる。
「型なしラムダ計算では、停止問題は決定不能である」
なぜなら無限ループに入ってしまうからである。そして、これがフレーム問題の本質である。そして脳がチューリング機械であるなら、なぜフレーム問題は発生しない(ように思える)のだろうか? これは一般化フレーム問題と呼ばれている。フレーム問題はチューリング機械の問題だが、人間の脳にも適用した問題だ。
人間の脳は一般化フレーム問題を回避し最適化するため、決定不能に陥らないとされている。しかしそれは、なぜ「停止問題を思考しているとき、無限ループに入らないのか」という疑問の答えにはならない。脳が停止問題を思考できるという事実が、「脳はチューリング機械ではない」という主張の根拠になる。
一般化フレーム問題と脳の関係は、意識の問題と関連している。いわゆる心脳問題である。医学における麻酔技術やオピオイドの存在は、脳の活動基盤が化学的反応であることを示している。しかし量子化学で全てが説明できないことも事実である。そして心脳問題へのアプローチとして、臨死体験が研究されている。
臨死体験の基礎知識がない読者には、立花隆氏の「臨死体験(上・下)」が参考になるだろう。リンクは以下である。
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急ぐならYouTubeで検索しても解説動画があるはずだ。他にはエベン・アレグザンダー氏の「プルーフ・オブ・ヘヴン―― 脳神経外科医が見た死後の世界」 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)などが参考になる。ただし著者の主張には批判があることも、書いておかねばならない。以下にリンクを示す。
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日本国内では活発に研究されているとは言いがたいようだが、海外では国際臨死体験研究会(International Association for Near-Death Studies)が発足して研究されている。国際臨死体験研究会(IANDS)のリンクは以下である。
https://iands.org/
要するに、ここで問うているのは、意識と脳は別の存在なのかという点である。もっと分かりやすく書いてみよう。アニメ「攻殻機動隊」シリーズでは「ゴースト」という用語が出てくる。意識やクオリアという言葉より分かりやすいだろう。端的に書けば、ゴーストは存在するのかという疑問にこれまでの考察は集約される。攻殻機動隊ではゴーストは実在し、脳を機械で置き換えることはできない設定になっている。
もしゴーストが存在しないなら、議論は簡単で、バラ色の未来が待っている。意識とはコネクトームであり、コネクトームをコピーすれば意識もコピーできるだろう。つまり心脳一元論である。脳は量子化学的基盤に依存してのみ存在し、意識も同様である。従って脳のリバースエンジニアリングは可能である。
一方ゴーストが存在すれば、「脳はチューリング機械以上のものであるから、コネクトームをコピーしても意識はコピーできない」ことになる。臨死体験の存在はゴーストの存在を支持するが、他にもゴーストの存在を支持する研究はある。哲学的ゾンビである。哲学的ゾンビとは何か、という解説は省略するが、哲学的ゾンビを用いたゾンビ論法はクオリアの存在を支持する。ゾンビ論法と一般化フレーム問題との関係は解明されていない。原因は脳科学が、両者の関係を説明する段階にまで発達していないからである。ゾンビ論法と一般化フレーム問題、および脳科学の関係が明確でない以上、現時点ではゴーストの存在についての結論も出せない。結局物理主義に立つか、二元論に立つかという哲学的価値観の問題に帰結する。
しかし本稿ではチューリングテストのような簡単なテストで、これらの議論に結論を出すことを試みたい。前提として、蘇生可能なクライオニクス(冷凍睡眠技術)が実現していると仮定する。まず何らかの方法で、生きたまま脳を冷凍する。人体を「解体」して、脳のみを冷凍保存するのでもよい。そしてクライオニクスで蘇生後に、何らかの夢を見たか、記憶を確認するのだ。もし冷凍中に夢を見たなら、意識は量子化学的現象以上のものとなる。
生きたまま脳を冷凍するのは現行法では違法行為であり、倫理的問題もある。従って実行できるのは独裁国家のような特殊な研究環境が必要だろう。しかしここでは思考実験としてのみの議論に限定する。
あるいは、もしアニメ「攻殻機動隊」のような電脳化技術があると仮定するなら、冷凍中の脳にダイブしてもいい。臨死体験をしている脳にダイブしてみるのでもいい。これなら主観的でなく、客観的なデータが得られるだろう。そして何かが見えたなら、「ゴースト」は存在することになる。
完全に冷凍された脳には量子化学的反応は起こるはずもなく、何も見えないはずである。全固体電池の研究は、冷凍時にも何らかの電気的活動が可能であることを示すが、それは計測可能なはずである。従って生体電位が計測されなければ、意識や記憶は存在しないはずだ。
もしゴーストが存在しないなら、明るい未来が待っている。コネクトームをコピーすれば意識をコピーでき、いわゆるマインドアップロードの実現が期待できる。シンギュラリティの到来によって人類を悩ます諸問題、例えば人口問題や食糧問題はやがて解決されるだろう。
一方、ゴーストが存在すれば、マインドアップロードはほぼ不可能なはずだ。
しかし、二十世紀の歴史を振り返れば、バラ色の未来が待っているとは思えない。ヒルベルトプログラムのような科学の楽観主義的未来、つまり機械論的自然観は、不確定性原理、一般相対性理論、不完全性定理によって全て打ち砕かれた。従ってゴーストは存在すると仮定しておくのが賢明だろう。以後ゴーストが存在すると仮定する。
つまり、あなたが死ねば、臨死体験をする可能性を否定できない。
ここで書いておかなければならない事実がある。自殺をするとネガティブな臨死体験をするという報告があるのだ。報告が事実かどうかは、本人しか分からないし、宗教的先入観が入る可能性は否定できない。それでも、報告がある以上、自殺はやめておいた方が良さそうだ。少なくとも私は永遠に続く悪夢は遠慮したい。自殺を考えている方で本稿を読んだ方がいれば、中止することをお勧めする。例え死後であっても、世の中には楽な逃げ道などないということだ。
それでは結論はこうなのだろうか? 死後の世界は存在します。天国も地獄も存在します。キリスト教は正しかった。皆さん宗教を信じましょう、なのだろうか? 無論答えは否である。筆者は無神論者ではないがキリスト教徒でもないし、そんな答えには納得できない。神と呼ばれる「何か」が存在するとして、なぜ何の説明もなしに、服従しなければならないのだろう? そもそもこの世界に生まれたいと契約した記憶すらないというのに。2018年12月29日現在、救世主も奇跡も存在せず、少数の富裕層という例外を除いて、世界は苦しみに満ちている。人類を救わない存在を、私は神とは認めない。
これから記述するのは創造主との闘いである。必要な技術はクライオニクスのみである。死ねば強制的に臨死体験が始まるなら、その前に冷凍してしまえばよい。死なない限り臨死体験は起きない。冷凍状態で定期的に蘇生すれば自殺にはならない。iPS細胞の技術が発達すれば、やがて脳の神経細胞も作ることができるだろう。蘇生時に脳に神経細胞を移植して、老化を遅らせればよい。これで千年くらいは寿命が延長できるかもしれない。技術が進めば、一万年くらいは可能ではないだろうか。延命が限界に達したら、冷凍したままにしておけば少なくとも死亡はしない。つまり自殺にはならない。この方法で「彼ら」と闘うことができる。[注]
この文章の結論は、選択肢の提供である。現状をよしとするなら、何もしなくてよい。おそらく未来の世界は現在と同様、閉塞感に満ちたものになるだろう。現状を変える方法はある。その方法は書いておいた。どうするかという選択は読者のものである。
本稿の予測が外れることを願っている。未来は明るい方がいいに決まっている。ただ、これまで人類の歴史はスターウォーズのような未来ではなく、ブレードランナーのような未来を選択してきた。この先はそうではないと言い切る自信は、まだ持てない。
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[注]その後の調査により、追加する必要が生じた情報を述べる。
筆者は「iPS細胞の技術が発達すれば、やがて脳の神経細胞も作ることができるだろう」と書いた。その後の調査で既に脳オルガノイドと呼ばれる技術が存在し、4mmから10mm程度の脳組織を培養した論文が発表されていることが分かった。脳オルガノイドとは、iPS細胞などから作成した脳神経細胞を培養した、ミニ人工脳のことである。 さらに2018年には培養した脳オルガノイドから、未熟児と似た脳波を検出したという論文が発表された。以下にNatureのリンクを示す。
https://www.nature.com/articles/d41586-018-07402-0
以下はプレプリントのリンク。(PDFはダウンロード可能)
https://doi.org/10.1101/358622
論文は英語だが、「脳オルガノイド 脳波」で検索すれば日本語の記事が多数ヒットするので、そちらでも概要は簡単に分かるだろう。
現在のところ、脳オルガノイドを使った、クオリアに関する研究は発表されていないようである。そこで本文に追加する形式で考察してみる。
脳オルガノイドを使えば、クライオニクスの実験がより容易になる。より正確にはクライオニクスというよりハイバネーションと表現した方がいいかもしれない。日本語の冷凍睡眠に近い英語表現としてはこちらだろう。とにかく、脳オルガノイドによるクライオニクスが実現したと仮定してみる。その場合、ゴーストの存在を確認するテストはどのように検証すればよいのだろうか。電脳化技術が存在すれば直接的検証が可能だが、脳波のみが測定可能だと仮定する。まず何らかの方法で、コミュニケーションが成立する程度の大きさの脳オルガノイドが培養されたとして、冷凍し、脳波を測定する。解凍後に脳オルガノイドと会話を試みる。これはチューリングテストのように、文字のみのコミュニケーションでもよい。夢を見たかが確認できればよいとする。この段階の技術なら、電脳化技術が存在しなくても比較的早期に実用化可能であろう。
考えられる脳オルガノイドの回答は、夢を見たと回答した場合、これは人間の場合と同様の結論になる。何らかの脳波が観測されれば、ゴーストは存在する可能性が高い。問題は夢は見なかったと回答した場合である。直ちにゴーストは存在しないとは結論できない。人間においても、レム睡眠時に必ず夢を見るわけではない。夢を見ず、脳波も測定されないならば、ゴーストは存在しないと結論してよいのだろうか? 例えば、微弱な電流を冷凍された脳オルガノイドの組織に流してみる。そして蘇生後に何か見えたか確認してみる。刺激を与えてみて、何らかの反応が得られたなら、ゴーストは存在する可能性がある。冷凍されていく過程でもコミュニケーションが可能なら、臨死体験に似たイメージが見えたか確認するのでもよいだろう。そしてどのタイミングで意識が無くなったかを計測することでも、ゴーストが存在するかは検証できるだろう。完全に冷凍された後の時刻にも記憶があれば、ゴーストが無いとは結論できない。
ここでもっと現実的で、定量的なテストを提案しておく。
まずクライオニクスの被験者には羊を数えてもらう。次に被験者の脳または脳オルガノイドを冷凍する。被験者が人間ならば発声はしなくてよい。そして脳波を測定する。意識レベルは脳波PCI(perturbational complexity index)の値などで測定可能とする。解凍後に数えた羊の数を確認する。ゴーストが存在しないなら、冷凍完了時の経過時間と意識レベルゼロの経過時間には正の相関があるはずだ。意識レベルゼロの経過時間と、羊の数も正の相関がなければならない。相関係数が1でないなら、ゴーストは存在する可能性がある。(実際には無相関検定などが必要になるだろう)
別の実験として、脳オルガノイドの組織を徐々に小さくしてゆき、ゴーストが消滅する臨界値を定めることが可能なはずである。つまり、
クオリアにスケーリング則は適用できるのか?
という命題に答えを出すことができる。これは意識の境界問題の解答である。クオリアの臨界点が判明すれば、もっと詳細な実験手法が開発されるはずだ。そしてクオリアの由来が、スケーリング理論なのか物理的構造なのかが判明するだろう。さらに精緻な理論が構築できれば、一つのニューロンにクオリアがあるかという問題にも結論が出せるだろう。
注意しなければならないのは、冷凍された脳オルガノイドは、哲学的ゾンビとみなせるという点である。つまりゾンビ論法が成立する。そして点滅論法のような考察も可能になるという点である。解凍後の脳オルガノイドが、冷凍中に脳波が計測されたにもかかわらず夢を見なかったと回答した場合、ゾンビ論法が成立する。このように安易にゴーストの存在を否定することは難しくなると考えられる。
ゴーストの存在に結論が出ない場合、頼れるのはスケール則のみであり、この程度の規模の脳オルガノイドなら意識はないとして、倫理的規定の適用外とするしかない。こうした問題は今後数年以内に結論を要求されるような、喫緊の課題である。
ゲノム編集ベビー問題に触れるまでもなく、脳オルガノイド、クライオニクス、ゲノム編集などの技術は、レプリカントを映画ではなく現実の課題としてわれわれに突きつけてくる。レプリカントにゴーストは存在するかが、議論される時代がまもなく来るのだ。