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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

童貞なので樹海行く、ゴスロリと一緒に行く。

作者: 山鼠

些細な不快な事件だった。学校の誰かが彼を馬鹿にして、気持ち悪い、うざい、くさい、そんなことを彼に向かっていった。


彼には言い返す元気がなかった。いつか、おまえを町から追放してやる。北極支社に左遷してやる。彼はやるせなかった。茶色の瞳と、うすく脱色した髪と、細く長く伸びた首筋を持っていた。顔は瓜実形で、見ようによっては美男子に見えないこともなかった。


けれど顔色は青色を帯びて、すぐれなかった。


彼の名をミツハルという。18歳で、よく学校を休んだが、辛うじて卒業ができそうな具合であった。


高校3年、大学に行くのか働くのか、そろそろはっきりせねばならん、と担任がよく言ったが、彼はそのたびに机の陰に隠したショーペンハウエルの「自殺について」を広げていた。


自殺?そうだ、と彼は思った。おれの望みは一つ。


いや、望みというか、まずやらねばならんことがある。就職も進学もそれからだ。


青木ヶ原へ行くことだ。


ただ、心配なのは、青木ヶ原に行って、そのまま死んじまわないかどうかだ。

心配だ。実に心配だ。死ぬのは構わん。


ショーペンハウエルも大して苦しくないとか言っているから。


ただ、深い森で道に迷って、食うものがなくて死ぬのはいやだ。

あまり良い死に方ではない。


彼は青木ヶ原(それはもちろん富士の樹海のことを指している)にとらわれていた。何かの写真でみた、異空間の樹海に憧れていた。そこには全国から死にたいやつがあつまってくる。人生に希望を失い、生きるのを諦めた人が集まってくる。最高じゃないか。何かおかしいところがあるか?


とはいえ、問題があった。つまり、樹海への行き方というか、道が分からなかった。

どうやったら青木ヶ原に入れるのか。

樹海への道が、いまいち判然としなかったのである。


ああ、おれは、青木ヶ原にいきたい。でも道が分からない。こうして、凡庸な男子高校生として年を食い、ただのニートになるのか。その前に死ぬ……のは怖いからちょっと青木ヶ原を見学してから今後のことを決めたい。


道だ。道を知っているやつはどこだ?

彼はインターネットで「自殺」について調べた。


そこには、なんともいえないような、見ただけで気分がふさぐような記事がたくさんあった。彼らは、おのれの心中、自殺願望や妄想をインターネットに書いた。今は「ネット心中」が問題になって下火になってしまったが、「自殺チャット」と呼ばれるものも存在した。


ミツハルは、「自殺志願者の憩いの場」をIEのブックマークに保存した。学校は3日くらい休むとして、いつだ、どこだ。それからどうすれば行ける。


青木ヶ原だ。行かねばならぬ。ミツハルは焦っていた。思春期の終わりに、なにかしないといかん。別に恋愛とセックスでも良かったが、どちらも自分には不似合いだ。


樹海に、青木ヶ原に行きたい。それから、実に、期末テストが近かった。


ミツハルには4つ年上の姉がいた。長い髪で、赤い眼鏡をかけた美人だった。


髪はストレートで肩まで伸ばしていた。彼女は夜の仕事と「とっぱらい」の内職ををしていたが、昼間は家にいた。ミツハルと同じ目の色をしていた。昔、ミツハルが小学校のころは、ミツハルとキョウコはよく連れ立って散歩をした。近所の川のそばだった。川はいつも、下水道の水をたたえながら、鈍く光っていた。ひどい時は悪臭がしたが、とくにどちらも気にしたことはなかった。


「あなたはまだ死ぬときじゃないわ。仕事は慣れ、よ。男なんかかわいいものよ」と、姉はどこを見ているのか分からないような顔をしていった。

姉はとくに弟の進路に興味はないようだった。キョウコは白と肌色の半ばほどの肌をしていた。たまに手のひらを裏返したり表を向けたりするのを見ながら、まだ肌の色は大丈夫なのかを確かめていた。

「また自殺サイト見てるの?いいかげんにしないとミツハルまでうつになっちゃうわよ」


「うーん。おれには目的があるのだ。ほっといてよ」実に、青木ヶ原に行く道はまだよくわからないのだった。姉としては、弟が青木ヶ原に興味を持っていても構わないようだった。


自殺のことまで考えているのはちょっと心配だが、なにもすべて見張っていなくても、弟はそのうち目が覚めて学校に行くだろうと思っていた。両親はそうでなかった。両親は、高校を出られるのかを真剣に心配していた。それで、しばしば学校に行かない時はろこつにいやそうな顔をした。


ミツハルはそれを知っていたが、見ないふりをしていた。「学校行かないと、新平さんみたくなっちゃうわよ」姉が思い出したように言った。

「それも一つの手かもしれない。あの人みたいになれば、生きてても楽そうだ」ミツハルはそう返した。


ミツハルには、現職がヒモであり、かつ現役のプー太郎である先達がいたのである。先達というのは、要するに姉の恋人だった。新平さんは、褐色に焼けた肌をしていた。昔、工事現場で仕事をしていたらしい。精悍な顔つきをしていたが、目は二重で、横目で女性の方を向くと誘惑するような視線になった。


ミツハルはかつて新平さんにじかに質問をしたことがある。あって間もない時だった。


「新平さんは、どうやってヒモになったんですか?」

「うーん、最初だけはお金を出してあげることかな」と、新平さんは少し考えてから言った。

「お前もヒモになるの?」

「できれば」

「やめときなさい。意外と大変だよ」

「おれ、それ以前に恋人探さないと。チェリーのまま死んでも死にきれない」

「うーん、たいへんだよ。お前の場合、ネットだね。ネットで探しなさい。その、自殺チャットでもなんでもいいから、チャットでも使わないと。高校生なんて売れるんじゃない?お姉さん、一緒に死んでください、っていって甘えれば、童貞もらってくれる年上がすこしはいるんじゃないか」

「姉さんを大事にしてくださいね」

「わかったよ。でも青木ヶ原ってのもよくわかんねえぞ。何でそんなとこ行きたいの」

「日本を取り巻く絶望と欝の、まさに中心が樹海なんですよ」

「はあ、お大事にね」



その日は月のきれいな晩だった。新平さんはウイスキーを片手に、窓を開けて夜風に当たっていた。


新平さんは、気分がいいときはなぜかミツハルの姉との間で何があったかを話した。

セックスのある日はセックスの話をした。

ウイスキーや他の濃い酒を飲む時はとくにそうだった。男同士でキョウコを肴に話をするのは、新平さんにとっては気分がいいようだった。

「そこで腰をぐっとかがめるだろう、そこでいってはいけない。それで力を入れてこらえるわけさ」

「それはそうと、姉さんてけっこう胸でかいですよね」

「あっはっは、分かってるじゃん。あの胸に顔をうずめて、片方の手でしながらさあ」

「感じる時の声が何でおれの部屋にまで聞こえないのかが不思議なんすよね」

「コントロールできるのさ」キョウコはひそかに耳をすませて、二人が何を話しているかを聞いていた。


そうして、片手にホップ酒を持って、二人の間にどん、と焼きうどんの皿を置いた。

「さあ食いなさい、お姉さんがとびきりうまい肴を作ってあげた。だから人の話を勝手に肴にするな」新平さんとミツハルははっと驚いて、キョウコの胸が揺れるのを見た。


その日もミツハルは、「自殺系サイト」を渉猟していた。青木ヶ原の写真を手に入れた。はたして、樹海は深い闇に包まれていて、入ったら出て来れないとされていた。でもその写真を撮ったものは無事に生還したようだ。樹海に入るには、白い荷物テープをもっていくといいということだ。


つまり、片方を道のそばの木に結んでおくのだ。樹海の中にも遊歩道があるということが、今日の発見だった。つまり、青木ヶ原は、「富士国立公園」とよばれる大きな自然公園の一部で、遊歩道や休憩所が整備されている土地なのだ。


ただ、自殺の名所としても知られている。深い森にはいれば帰ってこれない。太古に流れ出した溶岩が起伏に富んだ地形を作り出しているから、20メートルも道を外れるとわからなくなるのだ。本当に、磁石が効かなくなるのか?筆者に聞かれても困る。というか、実際に効かなくなってもわたしのせいではない。別にそんなことはないはずなのだが、一部ではきかないという伝説もある。


実にミツハルは「樹海探検記」という本をいつか出すつもりだった。そのためにノートを一冊おろし、ネットで集めたうわさ話を丹念に記録していた。そうして、いつも巡回するサイトを一巡りして、面妖な日記を見つけた。


日記は、白いバックに青くて小さな文字で書かれていた。何が書いてあるのかはミツハルにも今ひとつ読解できなかった、つまりわけがわからなかったが、どうやら女性らしい。


――死ぬ前にいっぱつやらせます。人生どうでも良くなった!小


さな文字だった。画面をこちらに引き寄せて見なければわからなかった。でもどうやら書き方からして、この女性が本当に自殺を望んでいるのは確かなようだった。


めんどくせー。ミツハルはそう思った。しかるに、ミツハルは童貞であった。手が勝手に動いて、メールアドレスをチェックしていた。ホットメールのアドレスには「リタ」というスペルが混ざっており、日記の作者の名前と一致していた。


「なにやってんの」その時、姉が声をかけた。


コンピューターは高価だったので、家に一台しかないのを両親ともども共用で使っていたのだ。


「姉ちゃん、このゴスロリの女の子がいっぱつやらせてくれる。マジだ!」

「そりゃー水商売よ」

「いや違う、自殺したいらしい。それで、俺も青木ヶ原に行きたい。友達になってくれるかも」

「顔写真までついてる。ホントに大丈夫?……でもたしかにこれは商売じゃない、商売でも本当に自殺したがっているわね」

「だろ?」

「そうねえ、でも何でわざわざネットに書くの?」

「自殺サイトっていって、いろいろあるよ、こういうページ」

「うーん、世の中は広いわね。好きにしなさいよ。友達が増えるんなら」

「これでメール出すだろ、僕はミツハルといいます、日記いつも見てます。音楽の趣味が一緒で、ラヴェルのジムノペディなんかが好きです」

「ほんとにそう簡単にやらせるのかなあ」


そのようにして、ミツハルはリタにメールを出した。リタに届くメールは日に日に増えていった。ある日、風俗業からのスカウトが来た。そのころ、リタは家で何もしないまま、欝々たる日々を送っていた。しかし、うーむ、どうやらまだ女として価値があるようだ、と思い直した。サイトには携帯電話で撮った自分のゴシックロリータの装いを載せていた。


いったい、死ぬ前にいっぱつやらせます、がこんな騒ぎになるとは思っていなかった。世の中の男達が急にばかにみえた。でもまあ、そんな広告を出す自分もだいぶ抜けている。さあ、どうやってこの騒ぎを収拾するか。たぶん、これらのレスをくれた人々は、本当にセックスがしたいのではなく、何かの娯楽を求めているんじゃないか。


つまり、日記の続きだ。このうちの一人と仲良くなって、「××くんとメール交換を始めました」とか書けばヒット数が上がるんじゃないか。ついては誰にするか。同い年くらいで、冗談が通じて、話のわかるやつがいい。


ええい、こいつだ。自称ミツハル、高校生。チェリーボーイ。


ミツハルも決して本気ではなかった。ネットで女性と知り合うなんてことが想像できなかった。でも、それは本当だった。


ミツハルのメールボックスに、「re リタより」というメールが追加された。


「ゲッティング・ベター」は、白のバックグラウンドに、小さな青のゴシック体で日々の思いをつづるページだった。作者のハンドルネームをリタといった。自分の写真をアップするのは勇気がいったが、目線を腕で隠したゴスロリの写真がうまく撮れたのと、人生どうでも良くなっていたので、勢いのせいにした。


「死ぬ前にいっぱつやらせます」はどうも水商売と誤解されそうだ。ウェーブのかかった髪にも自信があったのだが、うまく写真に収まらなかった。


色々問題はあったが、リタはこうしてミツハルと知遇を得た。


男達のあまりの勢いにしばらくページを更新しなかったら、メッセージが「生きてて良かったね」に変わった。


リタは少しだけ世の中と社会と男達を見直した。


いつしか、ミツハルはリタとチャットをするようになった。リタにしてもミツハルのことを良く知らなかった。そして、友達が他にいなかった。


ミツハルはキーボードを叩く。


――まあ、そういうわけで、青木ヶ原に行きたいんだよ。

――なんかよくわかんない。その哲学とかが。

――もっぺん繰り返すと、ショーペンハウエルは人生とは裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもうおそすぎる過ちの連続に他ならないと書いていて、えっと、樹海を一度見ることで絶望自体、ここ傍点ね、に瀕する自分を見てみたいから行きたい。


――なんか思春期ねえ

――18だよ

――うーん、あたしも19だしなあ。10代最後の思い出に、行ってもいいかもしれない。

――じゃあ一緒に行こうよ。――初デートが青木ヶ原というのは理解に苦しむけど、いっぺん会ってみたいかも。わたしを青木ヶ原にさそう男に。


ミツハルはその日学校をさぼっていた。姉とミツハルの共有スペースのパソコンに向かって、思いのたけを打ち込んでいた。どうやら、リタと会えるらしい。ミツハルは有頂天になりかけたが、自分の使命、つまり青木ヶ原に行き、自分の思春期の妄想と決着することを思い出した。



――ねえ、ミツハルは、自殺系だったの?

――うん、死にたいと思う。たまに。今日も学校行っていない。でも自殺系ってなに?

――ネットで、自殺願望かいてる人のこと。

――うん。でも死ぬ前にやらせてくれるんでしょ?

――あれは、あたし、このまえは一緒に死んでくれる人さがしてた。でも今は普通のお友達が欲しい。信じてくれる?もっかい言う。今は普通の友達の方が欲しい。

――急に変わったね。どうしたのさ。

――予想以上に返事がろくでもなかったのよ。何よ、人が死のうとしているのに、男達ときたらやることばっかり。死にたいってその前の日に書いたのにみんな忘れてる。あたし、自分はひどい人間だと思ったけど、集まったメール見てるとそんなこと無い気がしてきた。あと、どうやら自分には価値があるらしいということも分かった。値段ついたもん。それで、悪いことしてもいいから、とりあえず生きてみようと思った。

――おれも価値ないよ

――いやいやいや、こうしてお話してくれるだけの友達でいいの。まあ、青木ヶ原も行ってあげよう。あたしが住んでるの調布だし。

――調布って、田園調布?

――インターチェンジがあるところよ。富士山に行く高速バスが出てるわ。

――高速バス?

――あんた、もしかして行き方わかんないの?かなりの馬鹿よ、それって

――ほっといてよ

――なんなんだ、あたしが樹海を案内するのか。わけわかんないけど、オフ会だ。オフ会。


そのようにして、ミツハルは樹海への行き方を知った。青木ヶ原のあたりは、国立公園で、まわりは整備された自然公園だ。というか、すぐそばに富士急ハイランドがある。


国道は車のとおりも多く、かつては関西と関東を結ぶ東海道の基点だった。ただ、富士の風穴という名所があって、そこに有名な「親から貰ったたったひとつの命、大事にしましょう」の看板がある。つまり、遊歩道が、富士山のふもとの大森林を縦断している。なんでそんな道があるのか良く分からないのだが、その道を横にそれたら最後、出て来れない。リタとミツハルは調布で会うことにした。その月の最後の週の、日曜日にした。


北風が頬をなでる冬が終わり、春を迎えようとしていた。梅や桜の花が咲き、もしや人生に希望があるのではないかとリタもミツハルも思った。その日の行き先は青木ヶ原だった。自殺の名所、樹海。


ミツハルは青木ヶ原についての独特の主張を展開したが、客観的にはハイキングをかねたデートだ。

二人は、初めて会えたのでお互いのことを話した。


ミツハルは灰色のパーカーと、無印良品の茶色のセーターを着ていた。リタはゴスロリの姿で来るのかと思ったが、黒と赤のチェックのシャツと、薄いピンク色のスプリングコートを着ていた。


「つうかさ、道わかんない」

「そんなことだと思った。富士まではバス一本でいけるのよ。知らなかった?」

「へえ」

「へえじゃないわよ。迷って死ぬわよ」

「おれは初めから死のうとしてないもん。ただ青木ヶ原、行かなきゃって思うだけ。思春期の複雑な心境で」

「思春期って自分で言うな。もう終わるころだろう、18歳」

「まじ?思春期ってもう終わるの?」

「まあ、富士で迷ったら今日でどのみち終わりだわね」

「つうかさ、今日中に帰れるの?予定通りいったとしてさ」

「そんときは民宿に泊まればいいじゃない」

「お泊りかあ」ミツハルは黙りこくって、感慨のようなものを感じた。


「予定通りだったら帰るからね」リタは付け加えたが、ミツハルは有頂天になっていた。複雑な経緯と思春期の心によって、ミツハルはここまで来た。つまり、リタを伴って調布から富士山に行く長距離バスに乗り、国道139号線を通って、天然記念物富岳風穴のバス停の前で降りたのだ。


すでに巨大な富士の山景が、目の前いっぱいに広がっていた。まだ高いところには、雪が残っていた。ふたりも驚いたのだが、風穴はごく普通の観光地で、そばに民宿と食堂があった。


「おれ、実は死ぬの怖い」

「あたしもそうかも」


国道139号線は、富士のふもとを貫く道だった。東に行けば東名高速にぶつかる。かつては日本列島の東西を結んでいたが、東名高速がつながって、土地の人の使う道になった。富士のふもとは比較的開けていて、「樹海」というほど森が茂っているわけではない。ただ、森の中に20メートルも入ると左右が分からなくなる。起伏の多い溶岩が、道を分からなくするからだ。


「あのさあ」

「なによ」

「もう、青木ヶ原についてるんじゃない?」

「わかってるじゃない。お弁当でも広げる?」

「お腹すいたらね」

「怖くなったの?」

「いんにゃ。この地を夢見て、今日まで頑張ってきたのだ。頑張って、ほら、こんなノートも作った」ミツハルは背負ったリュックサックから、「樹海研究」とマジックでかかれたノートを取り出した。そして、「1時半、樹海着」とメモを取った。


「本気みたいね」

「いずれにせよ、来ちゃったものはしょうがない。樹海に入ってみようよ。荷造りひもも持ってきたしさ」

「そうねえ」二人の目の前に、深い森があった。


何かのページに、「まだ1200年ほどしか経っていない、若い森だ」と書かれていた。ミツハルは、大自然が森を育たせる、悠久の時間を思った。二人は、背が高くて空を覆ってしまうような木々の間を通り抜けて、森に入っていった。


「見て」

「うわさのやつか」道は森を貫いていた。そして、道の真ん中に看板が立っていた。看板には「親から貰った大事な命」と書かれていた。

「ここはもう迷うのかな」

「もっと入ったら迷うんじゃない?死体とか見つけたらどうしよう」リタはなんだか嬉しそうになってきた。ミツハルは、そのまま道を歩いた。森はひたすら静かだった。そうして、道が雪道になった。富士の近くなので、雪が降るのだ。


「これさあ、オフ会なんだよね」

「そうねえ。家族に言ってきた?オフ会いってきますって。富士の樹海だって」

「姉には昨晩言った。死ぬの怖いから友達と行くって言った。女の子だと思われなかった」「まあ、樹海に一緒に行ったら、ふつういっしょに死ぬわよね」

「リタが自殺志願者なだけだよ」

「てか、ここにもひもがのこってる。あたしらみたいなのいっぱいいるんだよ、きっと」二人は、もっと静かな死の土地を期待したのだが、道の各所に、前に来た観光客が結んだビニールひもが残っていた。


「行ってみようよ」「

そうねえ、折角きたんだものねえ」ミツハルは、リュックサックからビニールひもを取り出した。そうして、手近な木のえだをみつくろって、解けないようにしばった。

「じゃ、行ってみるか」

「ミツハルが最初よ」ミツハルは、雪を踏みしめながら、遊歩道の道を外れて森の中に踏み込んだ。深い森に、きいちごを取りに行って、狼に食べられてしまう昔話を頭のどこかで思い出していた。


樹海は、若いひのきと杉で出来ていた。深くにいけばもっと古い木が見られただろう。たまに雁かつばめが鳴いた。それ以外はまったくの静寂だった。


ミツハルは、ふと不安になって、ひもを引っ張ってみた。ひもはぴんと張って、帰り道を示していた。それでも、ミツハルはまだ不安で、リタのほうを見た。リタもミツハルのほうを見ていた。二人はいつの間にか、黙りこくって見つめ合っていた。

「ねえ」リタが口を開いた。

「何」

「キスしない?」リタがミツハルの目を見て言った。目がぬれて、彼女の双眸を二重まぶたに見せていた。ミツハルが黙ってうなずいた。森の中で二人は抱き合い、キスを交わした。


ミツハルは、なんとなく唇を通じてリタと気持ちが通じ合っているような気がしていた。自分と相手の考えていることが、まばたきや呼吸から、わかりあっているような感覚だ。


「えっとさ、帰ったら続きをさあ」ミツハルが言った。

「うん」

「もっとわかりあうためにさ」

「泊まるの?」

「そうしよう」

「べつにいいけど」

「死ぬのはやっぱり怖いや」

「そうよね。あたしもそう思う」そうして、雁が木々の間を通り抜けて、狭い空を二つに切った。二人はひもを引っ張りながら遊歩道をみつけた。というか、携帯電話も通じる。二人は徒歩だった。しかし、そのまま国道に出ると、なぜか都合よく旅館があった。とくに本栖湖や精進湖のまわりは、深い森がとうとつにひらけて、観光客向けの食堂や旅館が当然のように建っているのだ。


しかるべき作業を終えた二人は、手をつないで帰りのバスに乗った。律儀に日曜日が終わらない間に帰る予定だった。まだ日は傾いたばかりで、リタはミツハルの出席日数を心配していた。


「高校出れるの?」

「出れる。たぶん」

「たぶんが余計よ」

「もう卒業かと思うと、いろいろなつかしくなる」

「したあとだからよ」

「そうかな」ミツハルは、バスに乗りながら、リタの髪をなでた。

「明日は学校に行くよ」

「ホントね。約束よ」

「だからリタも死なないでね。また会おうね」

「わかったわ。そうする。」


いつの間にかバスは調布のバス・ターミナルに着いていた。時計は8時を回っていた。都会の明かりが光春の目を射た。樹海のようなところから帰ってくると、妙になつかしい気がする。「


おーい、ミツハル」どういうわけか、調布のバス・ターミナルには新平さんが迎えに来ていた。


このあと、新平さんとミツハルは、そろいの布団の上でのリタの話をして盛り上がる。二人は電車の中で酔っ払いと間違われそうだった。


翌日の朝、ミツハルは早くに起きた。学校に行く決意は、ベッドと布団の間にいるとゆらいでくる。さっさと起きて顔を洗った。そして、一番上のボタンをはずして学生服を着た。学校にはすぐに着いた。電車もどういうわけか、今日に限ってすぐにやってきた。


クラスメイトがやってきて、ミツハルに口を出した。うざいとかくさいとか、ねくらだとか、そういうことを言った。ミツハルは椅子をけった。クラスメイトを突き飛ばして、言った。こういうのが果たして正しいのか良く分からないが、ためしに言ってみた。「てめー童貞だろ。」


クラスメイトは、「おいおい、おめー日曜日の間にヤッたのか」とはやし立てた。というか、クラス全体がミツハルのほうを向いていた。ミツハルは、うむ、といってリタの話を15分ばかりした。「童貞学生諸君、いっぺん樹海行ってみろ。自殺の名所、樹海でやったんだぜ」学校で拍手されるとは思ってもいなかった。


やがて担任が入ってくる。そうして授業が始まる。


テストが近い。卒業するのも近い。

ミツハルには、大学へ行くのか、働くのか、分からなかった。それでも、とミツハルは思った。意外と簡単に樹海にいけるように、仕事に着く日も、大学へ行く日もすぐにやってくるだろう。


クラスメイトがこちらをむいて言う。「あのさあ、さっきは悪かった。おれ、物理のノートないんだよね。お前得意だろ?見せてくんないかな」


良く見ると悪いやつではなさそうだ。ミツハルは少し赤面して、ノートを貸した。このあとミツハルと彼は、一緒に学食のラーメンを食べに行くのだが、それはまた別の話である。


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