ちょっとした復讐
婚約が白紙になると聞いた瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
予想して覚悟していたはずなのに、心は裏切られたように震えていた。
「あと、わたしたち、婚約の話し合いをします」
妹のルーシーは、まるで当然の権利を得たかのように微笑んだ。その笑顔が、毒のように胸に刺さる。
わたしは席を立ち、静かに部屋を出た。怒りも悲しみも、今のわたしには表に出す価値などない。わたしの感情など、この人たちは、誰も気に留めないのだから。
城門を出たとき、ようやく息ができた気がした。
「市場へ行くわ」
護衛と侍女のナタリーがついてくる。彼らの視線が痛い。捨てられた哀れな令嬢を見る目だ。
わたしはただ歩いた。胸の奥のざらつきが、どうしようもなく苦しかった。
そのとき、露店の隅にある一つの箱が目に入った。美しい彫刻が施されているのに、どこか禍々しい。
――この不気味さなら、今のわたしの心に相応しい。
そう思った瞬間、わたしはその箱を買っていた。
部屋に戻り、布で丁寧に拭き上げる。磨くほどに不気味さは薄れ、ただの古く美しい箱に戻っていった。
細部まで調べると、底が二重になっていることに気づいた。こじ開けてみると、中には古びた書きつけと、見慣れない種が入っていた。
「お嬢様、箱が綺麗になりましたね」
侍女のナタリーが声をかけてきた。彼女はわたしの世話をしているが、その実は母とルーシーの息がかかった監視役だ。
「ええ。箱も素敵だけど、中にこんな古い書きつけが入っていたの。多分、古代ディーザ語か古代アスター語だわ。辞書は城の図書館にしかないでしょうし、明日からあちらへ通うことにするわ。もう、お城の公務もしなくていい身分ですものね」
わたしは自嘲気味に笑い、翌日から図書館にこもった。
書きつけの言葉は古代ディーザ語だった。わたしは根気よく、一文字ずつ紐解いていった。
そこには、一緒に入っていた種――『向陽草』について記されていた。
この種から採れる油は、発明されたばかりの「自動車」の燃料になるという。今、燃料といえば高価なバターや家畜の脂しかない。もしこれが実用化されれば、世界が変わる。
翻訳を進めるうちに、一人の男性と知り合った。彼はわたしの作業を興味深げに見守ってくれた。
「お茶でも飲んで休憩しませんか? 根を詰めすぎですよ」
図書館の中庭で彼と過ごす時間は、唯一の救いだった。
「趣味で古代ディーザ語を? それは素晴らしい才能だ」
誰かに才能だなんて言われたのは、生まれて初めてだった。わたしが恐る恐る書きつけの内容を明かすと、彼は真剣な表情でこう言った。
「これは、あなたが思っている以上に価値がある。うかつに広めてはいけない、秘密にすべきものですよ。……でも、読み物としては最高に面白い」
わたしの努力を、わたしの「好き」を、こんな風に肯定してくれる人がいるなんて。
胸の奥が、久しぶりに温かくなった。
翻訳も終盤に差し掛かった頃、彼は言った。
「このままでは、あなたは便利に使い潰されてしまう。もしよければ、わたしの国へ来て文官になりませんか? 研究を続けられる環境を約束します」
わたしは迷わず頷いた。この冷え切った家を出るチャンスだと思った。
だが、出発を目前にしたある朝、新聞を見て血の気が引いた。
【王太子の婚約者のお手柄! 古文書から新種の植物を発見】
そこには、ルーシーの名前が大々的に載っていた。
「古代語に造詣の深い公爵令嬢が、書庫で眠っていた文書を解読した」と。
「ルーシー、これはどういうこと?」
「お姉様、何をおっしゃっているの? わたしが頑張って見つけたのよ」
無邪気を装った妹の顔。それを微笑ましく見守る両親。
わたしの原稿をナタリーが盗み、ルーシーに渡したのだ。無防備に机に置いていたわたしが愚かだった。
「……わかりました。公爵家は、そういうお考えなのですね」
わたしは一切の抗議を辞め、翌週、籍を抜いて国を去った。
一つだけ、彼らに伝えていないことがあった。
わたしはナタリーが原稿を盗み見ていることに、途中で気づいていた。
だから、最後の重要な部分は、わざと訳文に残さなかったのだ。
◇◆◇◆◇
七年後。
隣国で文官として、そして実は第三王子だった彼の妻として穏やかに暮らしていたわたしの元へ、二人の客が訪れた。
王太子と、王太子妃となったルーシーだ。
「お姉様……こうなることを知っていたんですか?」
震える声でルーシーが問う。
「こうなることって?」
わたしは静かに問い返した。
『向陽草』は莫大な富をもたらした。欲に駆られた彼らは小麦畑をすべて潰し、国中で連作を繰り返した。
そして七年目、土地は完全に痩せ細り、向陽草はおろか小麦一粒さえ育たない死の地と化した。蓄えた富も、食料の輸入ですべて底を突いたという。
「小麦を分けてほしい。……」
王太子の言葉を、わたしは遮った。
「それは商人に仰ってください。わたしに言われても困りますわ」
「彼らは法外な値段を」
「商売ですものね」
「そうだな……」
「国と国の取引をして欲しい」
「それは外交ルートで」
「お姉様、お願いします」
「お姉様ねぇ」
「……」
二人は青ざめた顔で帰っていった。
横でその様子を眺めていた夫が、可笑しそうにわたしを見た。
「君はあの日、『目処がついた、面白かった』と言って笑っていたね」
「ええ。本当に、面白い読み物でしたもの」
これほど悲惨な結果になったのは、わたしの恨みのせいかしら。
それとも、あの禍々しい箱が、わたしの願いを叶えてくれたのかしら。
枯れ果てた故郷の土を想像して、わたしは静かに紅茶を啜った。
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