第一話 言えないのは気持ちだけ
「言えないのは気持ちだけ」
それは、言葉にしない優しさであり、踏み出せない弱さでもあった。
これは、不器用な二人が一歩前に進むまでの、ほんの短い物語。
春セメスター最後の講義が終わった瞬間、教室に漂った空気が一気に軽くなった気がした。
周りでは「夏休みなにする?」なんて声が飛び交っている。
「小泉、帰る?」
隣の席から聞こえた声に、僕はびくっと肩を揺らした。
「あ、うん。帰ろう、山下」
立ち上がる彼女の横顔を、つい目で追ってしまう。
特別美人、ってわけじゃない。少なくとも世間一般で言うような派手さはない。
でも、なぜか目が離せない。
(……また見てる)
無意識だ。
笑うときの口元とか、考え事してるときに少し眉が寄るところとか。
付き合って二年経つのに、いまだに「恋人」って実感がふわふわしている。
構内を抜け、夕暮れの道を並んで歩く。
自然な流れで、手を繋いだ。
(手、繋げてるだけでドキドキするの、いい加減卒業したい……)
周りから見たら、どう見ても普通のカップルだろう。
でも、僕たちは未だに苗字呼びで、経験もほとんどない。
「……なに考えてるの」
「えっ?」
不意に山下がこちらを見る。
「さっきから黙ってる」
「あ、えっと……期末終わったなあ、って」
「それだけ?」
疑うような目。
胸がぎゅっとなる。
(言いたい、言いたいけど……)
もっと触れたいとか、距離を縮めたいとか。
そんなこと言ったら、引かれるんじゃないか。
気持ち悪いって思われたらどうしよう。
ふと見ると、山下の頬がほんのり赤い。
「……暑い?」
「な、なに急に」
「いや、顔赤いから」
「なんでもないわ」
そっぽを向かれる。
(なんでもなくない気がするけど……)
それ以上踏み込めず、僕は黙って手を握り直した。
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(……やば)
手、繋いでる。
当たり前みたいに。
透の手は少し冷たくて、でも力は優しい。
中学の頃から知ってる手なのに、今でもこうして触れると心臓がうるさい。
(二年も付き合ってるのに、なんでこんなに緊張するのよ……)
私は昔から、思ったことをすぐ口にするタイプだった。
なのに、透のことだけは別。
だって…
(好きになったの、私の方が先だし)
中学の頃。
クラスの隅で静かに笑ってる透を、いつの間にか目で追っていた。
でも言えなかった。
幼馴染の関係が壊れるのが怖くて。
だから、高校三年のときに告白されたときは、心臓が止まるかと思った。
(今さら、そんなこと言えるわけないでしょ……)
横を見ると、透はまた難しい顔をしている。
(また考えすぎてる)
この人、顔に出ないくせに、内心めちゃくちゃ忙しいタイプだ。
たぶん今も、なにか言いたいのに言えなくてぐるぐるしてる。
(……私だって、したいのに)
キス、とか。
名前で呼び合うとか。
もっと恋人らしいこと。
自分で思って、自分で赤くなる。
「……なに考えてるの」
つい聞いてしまった。
「期末終わったなあ、って」
嘘…
すぐ分かる。
でも、突っ込めない自分がいる。
「……暑い?」
「な、なに急に」
顔、見られた。
やばい。
「なんでもないわ」
クールを装って前を向く。
ぎゅっと握られた手に、胸がいっぱいになる。
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二人は同じことを考えていた。
進みたい。
でも、怖い。
言えないのは、気持ちだけ。
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某ファミレス。
昼と夜の間の、いちばん中途半端な時間帯。
「で、結局どうしたいんすか?」
鈴木はメロンソーダを飲みながら、真正面の小泉を見た。
小泉はストローに口をつけたまま、しばらく黙っている。
「……もっと、近づきたい」
「ほう」
「恋人っぽいこと、したい」
「ほうほう」
「キモイぐらい、好き好きしたい…!」
「ちょっと待って」
鈴木はストローを外した。
「先輩、それ自覚あるならもう半分クリアしてるっすよ」
「え?」
「その気持ち、ちゃんと“好き”って言葉で出てるじゃないっすか」
小泉は目を泳がせる。
「いや……言葉に出すのは、怖くて……」
「嫌われるのが?」
「……うん」
鈴木は少しだけ真面目な顔になった。
「二年っすよ、二年」
「……」
「二年付き合って、喧嘩ほぼなし。
手も繋ぐし、ハグもする。
それで“嫌われるかも”って思えるの、逆に才能っす」
「褒めてる?」
「半分」
ポテトを一本口に放り込む。
「山下先輩、クールっすけど、先輩の前だと割と分かりやすいっすよ」
「そう、かな…」
「めちゃくちゃ」
鈴木は即答した。
「先輩の話するとき、声ちょっと柔らかくなるし、
先輩がいないときも“今日小泉どうだった?”って聞いてくるし」
「……え」
「それ、好きじゃなかったらやらないっす」
小泉は一気に顔が熱くなった。
「そ、そんな……」
「あと」
鈴木は身を乗り出す。
「女の子側から“もっと進みたい”って言うの、相当ハードル高いっすからね?」
「……」
「特に、先輩みたいに優しそうで、
『嫌だったらどうしよう』って思わせるタイプ相手だと」
胸に刺さった。
「つまり、待ってたら何も起きないっす」
「……っ」
「ここで逃げたら、記念日も普通にご飯食べて終わりっすよ」
想像して、心臓がぎゅっと縮む。
「……でも……」
まだ言いかけた小泉の言葉を、鈴木は遮った。
「あ、やば。バイト」
「は?」
「週5カラオケ、舐めないでください」
席を立ちながら、鈴木は振り返る。
「先輩」
「な、なに」
「山下先輩は、“言われたい側”だと思うっすよ」
それだけ言って、店を出ていった。
残された小泉は、しばらく動けなかった。
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八月一日。
夜の街は、記念日を祝うように少しだけきらきらして見えた。
「……緊張してる?」
店の前で立ち止まった小泉を、山下が横目で見る。
「そ、そんなことないよ」
嘘だ。
手のひらは汗ばんでいるし、心臓はさっきからうるさい。
(鈴木の言葉、まだ頭から離れない……)
“待ってたら何も起きない”
「予約、してくれてありがとう」
「うん……二年だし」
「そうね」
そう言って微笑む山下の表情が、いつもより柔らかい気がした。
店内は落ち着いた雰囲気で、カップルらしい客が多い。
二人は向かい合って座り、料理を待つ。
「夏休み、どうする?」
「特に予定は…あ、山下は?」
「私も、暑いの苦手だし」
「だよね」
他愛もない会話。
でも、小泉の胸の内は落ち着かない。
(言うって決めたんだろ、僕)
料理が運ばれ、少し間を置いてから、小泉はナイフを置いた。
「……山下」
「なに?」
鈴木の顔が一瞬よぎる。
「もう、自分の気持ちを隠すの、やめようと思って」
声が震えた。
「僕…山下のこと、好きだから。
もっと、色々なことしたいって思ってる」
山下は黙って聞いている。
「口にしてないだけで…
歩いてるときも、授業中も、無意識に目で追っちゃうし」
恥ずかしくて、目を逸らした。
「ごめん、いきなりこんなこと…」
「透」
名前で呼ばれ、顔を上げる。
「私は、小泉のこと中学生の頃から好きよ」
「……え?」
言葉が理解できない。
「高校で告白されたとき、
“やっと来た”って思った」
「それなら言ってくれれば…」
「無理」
即答だった。
「そんなの、恥ずかしすぎるでしょ…」
頬を赤らめ、視線を逸らす山下。
(…なにこれ)
可愛すぎる。
「……山下」
「なによ」
「可愛い」
「ば、ばか…」
小泉は耐えきれず、机にコツンと頭を打ちつけた。
「ちょ、なにしてるの」
「幸せで…」
「意味わからない」
そう言いながら、山下は少し笑った。
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店を出ると、夜風が二人を包んだ。
自然と手を繋ぐ。
歩きながら、小泉は意を決する。
「……山下。キス、する?」
山下は足を止めた。
「ま、待って」
そして、小さな声で言う。
「……下の名前で、呼んでほしい」
喉が鳴る。
「…麗奈」
彼女の肩がびくっと揺れた。
「麗奈…大好き」
数秒の沈黙。
それから、山下は小泉の服を掴む。
「…やっと言った」
唇が触れ合う。
ぎこちなくて、でも確かで、二年分の想いが詰まったキス。
離れたあと、山下は小さく呟いた。
「……次は、私からも言うわ」
「え?」
「覚悟しときなさい」
小泉は、また少しだけ赤くなった。
言えないのは気持ちだけ。
でも、言葉にした瞬間、二人はちゃんと進み始めた。




