【瞳の中の君】①
“瞳の中に映してはいけない君”がいる。
見てしまったら、戻れなくなる。
それでも――惹かれてしまった。
〈プロローグ〉
雷鳴が、薄暗い闇の中を引き裂いた。
ゴロゴロ……ドッカーン。
一瞬の閃光とともに、りんの身体に白い光が落ちる。
「いや……来ないで……やめて……!」
声は震え、喉の奥で掠れていた。
次の瞬間、黒いフード付きのマントをまとった影たちが、地面から滲み出るように現れた。
顔は見えない。
ただ、無数の手がうごめき、りんへと伸びてくる。
逃げようとした。
だが、足が動かない。
影は一斉に彼女に覆いかぶさった。
ぐちゃり、と生々しい音が闇に響く。
――まるで、何かを貪り食うように。
りんの視界は、完全な黒に塗りつぶされた。
〈第一章 冬の朝〉
その日、空は雲一つない晴天だった。
なのに、りんの胸の奥はなぜかずっと曇っていた。
家でも、学校でも、「いい子」でいることには慣れている。
けれど、誰かに本当の自分を見てもらえている気がしない。
そんな感覚だけが、静かに残っていた。
窓の隙間から入り込む風は、刃物のように冷たい。
「りん、起きなさーい!」
母の声に、りんは布団の中でもぞもぞと身をよじった。
「……はーい……」
半分眠ったまま返事をして、ようやく体を起こす。
「寒っ……」
床に足をつけた瞬間、ぞくりと背中を冷気が走った。
肩をすくめながら、のそのそとリビングへ向かう。
「早く朝ごはん食べちゃって。お母さんもう仕事行くからね。ちゃんと支度して学校行くんだよ」
「はーい」
母は慌ただしくコートを羽織り、玄関のドアを閉めた。
りんも急いで制服に着替え、マフラーを巻いて外へ出る。
「寒っ……今日、なんかいつもより寒くない?」
白い息を吐きながら、駅へ続くいつもの道を歩く。
その時だった。
なぜか、胸の奥がざわついた。
足が自然と止まり、りんは顔を上げる。
「……え?」
道の脇に、見覚えのない店があった。
真っ赤な屋根。
妙に鮮やかで、周囲の冬景色から浮き上がるような色だった。
「ここに……こんなお店、あったっけ……?」
じっと見つめていると視線を吸い込まれるような言葉にできない違和感が胸に広がる。
――なんだか、見ちゃいけない気がする。
りんは小さく首を振り、足早に駅へ向かった。
〈第二章 赤い屋根の向こう側〉
放課後。
冬の空は薄く茜色に染まり、冷たい風が制服の隙間をすり抜けていく。
「ねー、今日の地理の授業、全然わかんなかったんだけど」
ゆかが頬を膨らませながら言う。
「難しかったよね。私も帰ったら復習しないと……」
りんはそう答えながら、朝に見た赤い屋根のことが頭から離れずにいた。
「そういえばさ、朝言ってた気になるお店ってどの辺?」
「この辺だったはずなんだけど……」
二人はきょろきょろと辺りを見回す。
だが、そこには見慣れた家並みとコンビニしかない。
「おかしいな……」
その時。
「何か探してるの?」
背後から、澄んだ声がした。
振り向くと、同い年くらいの少女が立っていた。
黒髪が風に揺れ、どこか人形のように整った顔立ちをしている。
「赤い屋根のお店、探してるんでしょ?」
なぜか、こちらが何を探しているか知っているような口ぶりだった。
「え……知ってるの?」
「うん。ちょうど行くところだから、一緒に来ればいいよ」
にこりと微笑む少女。
その笑顔は優しいはずなのに、なぜか胸の奥がひやりと冷えた。
ゆかと目を合わせる。
一瞬の迷いのあと、りんは小さくうなずいた。
「……お願いします」
少女の後をついて歩き始める。
だが、数分歩くうちに、景色が少しずつ変わっていくことに気づいた。
住宅街だったはずの道が、いつの間にか人通りのない細道に変わり、街灯の光も遠ざかっていく。
「ねぇ……りん」
ゆかが不安そうに声を落とす。
「こんなに遠かった?駅の近くだって言ってたよね……」
「……そのはずなんだけど」
胸騒ぎが、確信に変わり始める。
りんは勇気を出して声をかけた。
「あの……私たち、駅の近くのお店を探してて……。案内してもらってる場所、違う気がするんですけど……」
少女の足が止まった。
ゆっくりと、振り返る。
さっきまでの柔らかい表情は消え、ガラスのように冷たい目が二人を映していた。
「……うるさいな」
声が冷たく落ちた。
「黙って、ついてくればいいのに」
ぞわり、と背中に悪寒が走る。
本能的に危険だと理解した。
りんはゆかの手を強く握った。
「走って!」
二人は一斉に駆け出した。
背後で、少女の笑い声が風に混じる。
「逃げても無駄なのに。あんたの瞳、こっちに渡してもらうだけなんだから」
息が切れ、足が重くなる。
気づけば、周囲は見知らぬ竹林に変わっていた。
「ここ……どこ……?」
立ち止まった瞬間。
「困るんだよね。勝手に逃げられると」
声が、すぐ後ろから聞こえた。
振り返ると、少女の周囲に、いつの間にか異形の影が集まっている。
人の形をしているのに、人ではない。
歪んだ笑み、異様な気配。
ゆかが悲鳴を上げる。
「……りん……」
足がすくみ、体が動かない。
その時。
ふわり、と白い霧のような煙が地面から立ち上った。
「こっち!」
小さな手が、りんの腕を掴む。
「僕たちは味方だよ」
霧の中から現れたのは、どこか懐かしい雰囲気を持つ不思議な子どもたちだった。
「早く!追いつかれる!」
半ば引きずられるようにして走り、竹林の奥に佇む古い屋敷へ飛び込む。
戸を閉めた瞬間、外の気配がすっと遠ざかった。
「……ここなら、もう大丈夫」
息を整えながら、助けてくれた子が微笑んだ。
「危なかったね、お姉ちゃんたち」
りんはまだ震える手を胸元で握りしめた。
「……ありがとう。あなたたちは……?」
「僕は豆狸」
「おいらは河童!」
「あたしは座敷わらしだよ」
人ではないはずなのに、どこか温かい空気をまとった存在たち。
りんは、ここがもう“元の世界”ではないことを、はっきりと理解した。
〈第三章 九尾の導き〉
屋敷の奥から、静かな足音が響いた。
トン、と床を踏む音は軽いのに、なぜか空気が一瞬で張りつめる。
りんは、思わず背筋を伸ばした。
障子が、すうっと音もなく開く。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
腰まで届く白銀の髪。
月の光を溶かしたような淡い色の瞳。
人の姿をしているのに、どこか“人ではない”気配をまとっている。
その背後で、ふわりと揺れる九本の尾が、淡く光っていた。
――綺麗。
そう思った瞬間、胸が締めつけられる。
美しさの中に、言葉にできない畏れが混じっている。
「……あなたは」
りんが息を飲むと、青年はやさしく微笑んだ。
「君には、僕が見えるんだね」
その声は、不思議と心の奥まで染み込んでくる。
「この子たちを助けてくれてありがとう」
九尾狐は豆狸たちに視線を向け、軽く頭を下げた。
「君の名前は?」
「りん……です」
名前を告げた瞬間、空気が微かに震えた。
九尾狐は、りんをじっと見つめる。
まるで魂の奥を見透かすような視線だった。
「りん。君は、こちらの世界に長くいてはいけない」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……どうしてですか」
「人の世界と、妖の世界は、本来交わらない場所だからだよ」
九尾狐は静かに歩み寄る。
一歩近づくたび、空気が澄み渡り、屋敷の中に淡い光が満ちていく。
「夜明けまでに戻らなければ、境界が閉じる」
「……戻れなくなるんですか」
声が、かすれる。
九尾狐は小さくうなずいた。
「そう。君は、こちら側の存在になってしまう」
りんは倒れたままのゆかの側へ座りギュッと抱き締めた。
「……ゆかは…大丈夫なんですか?」
「安心して。彼女の魂は、すでに元の世界へ戻してある」
その言葉に張りつめていた心が少しだけ緩んだ。
「りん、こちらへ」
九尾狐はそっと手を差し出す。
りんはゆかを静かに床へ寝かせ震える足で前に進んだ。
二人は屋敷の中央に立つ。
外の月明かりが二人を照らす。
九尾狐はりんの背後に回った。
そして、優しく、だがはっきりと、片手で彼女の目を覆う。
「いいかい、りん」
耳元で、低く、静かな声が響く。
「私の本当の姿を、決して見てはいけないよ」
りんの心臓が、大きく跳ねる。
「なぜ……?」
「僕の姿は、“境界”そのものだ。見てしまえば、君は元の世界へ帰れなくなる」
りんは、唇を強く噛みしめた。
怖い。
それでも――。
「……わかりました」
九尾狐は、満足そうに微笑った。
「いい子だ」
次の瞬間。
風が渦を巻き、光があふれ、世界がゆっくりと歪み始めた。
〈第四章 境界の向こうへ〉
風が渦を巻く。
九尾狐の尾が淡く光り、夜の空気が水面のように揺らぎ始めた。
りんは目を閉じたまま必死に立っていた。
足元の感覚が薄れていく。
まるで地面から切り離され、宙に浮かんでいるようだった。
「……怖い?」
九尾狐の声が、すぐ後ろから聞こえる。
りんは小さく首を振った。
「……少し…怖いです。でも……それでも、帰りたい。
ここが綺麗でも ……私は、あの場所で生きたい」
家に、母のいる場所へ。
何気ない朝と当たり前の日常へ。
「それでいい」
九尾狐の声は、どこか優しかった。
「君が守るべき場所は、君の心の中にある」
次の瞬間、強い光が視界を包み込んだ。
風の音も、屋敷の気配も、すべてが遠ざかる。
――ありがとう。
誰に向けた言葉なのか、りん自身にもわからなかった。
ただ、胸の奥が、あたたかくなった。
第五章 いつもの朝
ジリリリリ――。
目覚まし時計の音で、りんは跳ね起きた。
「……え?」
見慣れた天井。
自分の部屋。
制服のまま、ベッドの上に横になっていた。
胸に手を当てる。
心臓は、ちゃんとここにある。
「……夢?」
けれど、あまりにも鮮明だった。
怖さも、光も、九尾狐の声も。
「りん、早く起きてー!ごはんできてるわよ!」
母の声が、廊下から聞こえる。
「……はーい」
返事をしながら、なぜか目の奥が少し熱くなった。
当たり前の日常が、昨日より少しだけ愛おしく感じる。
駅へ向かう途中。
「りん、おはよー!」
ゆかがいつもと同じ笑顔で手を振った。
「……ゆか、大丈夫だった?」
思わず、口からこぼれる。
「え?何それ。りん寝ぼけてる?数分待ってただけだよ?」
くすくす笑うゆか。
――覚えていない。
りんは少しだけ寂しくなり、それでもほっとした。
「……元気なら、いいんだ」
「なんか今日のりん変だよー?」
二人は笑いながら、並んで歩き出す。
その時、ふわり、と冬なのに、やけにあたたかい風が、りんの頬をなでた。
足が自然と止まる、道の角で振り返る。
一瞬だけ――。
朝日に照らされて、赤い屋根がそこにあった。
まるで最初から存在していたかのように。
「……」
瞬きをした、その瞬間。
屋根は静かに消えた。
代わりに、澄んだ青空だけが広がっている。
りんはそっと胸に手を当て、微笑んだ。
あの出来事は、夢じゃない。
でも、戻る必要もない。
朝日が、街を照らしていた。
りんは一度だけ空を見上げてから、前を向き、また歩き出した。
いつもの日常へ。
あの夜、瞳に映してはいけなかった存在は、今も心の奥で静かに光っている。
――少しだけ、世界が輝いて見える朝の中へ。




