ep5: 1LDKの領分
引っ越し当日、運び込まれた段ボールの数は、同居を始める男女にしては驚くほど少なかった。 二人の荷物は、すでに数年前から混ざり合っていたからだ。澪の一人暮らしの部屋にあったものの半分は陽翔の私物で、陽翔が実家に残していたわずかな衣類を運び込めば、それで「移転」は完了した。
東京都下、築七年の1LDK。 ダイニングテーブルの隣には、陽翔が仕事で使う大きなモニターとデジタイザが鎮座し、そのすぐ後ろの棚には、澪が会社から持ち帰った人事関連の専門書が並んでいる。
「……ねえ、澪。寝室、分ける?」
荷解きの手を止めて、陽翔が訊いた。 この部屋には独立した寝室が一つある。リビングにソファベッドを置けば、個人の空間を作ることは可能だ。
「別に、いいんじゃない? 一緒で」 「……だよね。僕もそう思ってた」
澪の即答に、陽翔は満足そうに目を細めた。 普通のカップルには、ここに「夜の生活」への期待や緊張が混じるのだろう。しかし、彼らの間にあるのは、もっと根源的な「生存のための密着」だった。
澪はIT企業の正社員として働き始め、家賃の大半を負担する。 陽翔は美大を卒業し、不安定なフリーランスのデザイナーとしてキャリアを始めた。 世間の目から見れば、それは「献身的な彼女と、それに甘える年下の彼氏」という、どこか危ういバランスに見えるだろう。あるいは、美奈子がかつて危惧した「娘の人生を食い潰す依存」に見えるかもしれない。
けれど、澪にとって、この1LDKは極めて合理的なシェルターだった。
「陽翔、そこに座ってると邪魔。どいて」 「ん……ごめん。こっちならいい?」
陽翔は澪の足元に移動し、彼女の膝に背中を預けるようにして座り直した。 澪は、陽翔の頭越しにテレビのニュースを眺め、無意識に彼の肩に手を置く。 陽翔がそこにいることが、澪にとっては「生活のノイズを打ち消す静寂」として機能していた。会社での神経を磨り減らす人間関係や、終わりなき調整業務。それらすべてを、陽翔という存在が吸い取ってくれる。
「澪、今日のご飯なに?」 「適当に炒め物でいい? 疲れたから」 「いいよ。僕が野菜切る。澪は座ってて」
役割分担さえ、明文化されたことはない。 気がついた方がやり、できない方は素直に頼る。 二人の間には、感謝の言葉さえ省略されることが増えていた。それは無遠慮になったからではなく、「自分の一部に礼を言う必要がない」という感覚に近い。
夜、一つのベッドに並んで横たわる。 陽翔の体温が布団の中に広がり、澪の意識をゆっくりと眠りへ誘う。 ふと、陽翔が暗闇の中で澪の手を探し、指を絡めた。
「……僕たち、本当にずっとこうだね」 「そうだね」 「……籍、いつ入れる?」
陽翔の声には、緊張も覚悟もなかった。明日の天気を確認するような、あまりに「なあなあ」なプロポーズ。 澪は彼の指を握り返し、少しだけ目を閉じた。
「……いつでもいいよ。陽翔の仕事が、もう少し落ち着いたらでも」 「……うん。おやすみ、澪」 「おやすみ」
確固たる情熱も、劇的な変化もない。 けれど、この1LDKという箱の中で、二人の境界線は完全に消失し、代わりのきかない一つの「生命体」のようになりつつあった。 外側の世界がどれほど騒がしくても、この扉を閉めれば、そこには世界で一番安全な、名前のない平穏だけが満ちている。




