ep4.9: 内見の嘘
六畳一間の限界は、唐突に訪れた。 陽翔が美大の課題で制作した巨大なキャンバスが、澪の仕事用デスクの椅子に干渉し、二人は物理的に「背中合わせ」でしか過ごせなくなったのだ。 寝る時も、陽翔の画材のオイルの匂いが枕元に漂い、澪のスーツには油絵具の微かな汚れがつく。それは親密さの証というより、二人の聖域が外側に向かって破裂しようとしている予兆のように思えた。
「……もう、ここじゃ狭いね」 「うん。……ごめん、僕の荷物が多くて」 「謝らなくていいよ。……もっと広いところ、探そう。陽翔の部屋も作れるような場所を」
週末、二人は駅前の不動産屋を訪れた。 カウンターの向こう側で、いかにも仕事の早そうな中年の男性社員が、二人の身分証を交互に眺める。
「藤原さまと、藤田さま。……失礼ですが、ご関係は? ルームシェアということになりますと、この物件は少し審査が厳しくなるのですが」
男性の視線には、悪意はない。ただ、二十代半ばの会社員女性と、二十歳そこそこの美大生男子という組み合わせが、賃貸市場において「不安定なルームシェア」と見なされることを熟知しているだけだった。
陽翔が隣で、気まずそうに視線を落とす。苗字が違う。ただそれだけのことが、二人の間に厳然たる壁として立ちはだかる。
「婚約者です。来年には、籍を入れる予定ですので」澪は、迷いなく答えた。
陽翔の肩が、微かに揺れた。 驚いたように澪を見たが、彼女は不動産屋の目を真っ直ぐに見つめたまま、微塵も揺るがない。
「左様でございますか。失礼いたしました。……それでしたら、こちらの1LDKの物件、審査に通りやすくなりますよ。最近は事実婚の状態から入居される方も多いですから」
担当者の表情が、一気に事務的な「歓迎」へと変わった。 「ルームシェア」という不安定なラベルが、「婚約者」という公的な予約票に差し替えられた瞬間、社会は二人を「守るべき一つの単位」として受け入れたのだ。
内見に向かう車の中、二人の間には奇妙な沈黙が流れた。 郊外の静かな住宅街。築浅の、日当たりの良い1LDK。 がらんとしたリビングの真ん中で、陽翔がポツリと言った。
「……さっきの、びっくりした」 「何が?」 「婚約者です、って。……嘘、だよね?」
澪は、まだ何もないキッチンのカウンターを指先でなぞりながら、振り返った。 「手続き上の嘘だよ。そう言わないと、ここ借りられないし。……嫌だった?」 「ううん。……嬉しかった」
陽翔は、澪に歩み寄り、その肩に額を預けた。 「……なんか、本当にそうなったみたいだった。僕たちが、ちゃんとした『ふたり』として認められたみたいで」
澪は、陽翔の細い腰を抱き寄せる。 社会を騙すためについた嘘。けれど、その嘘のおかげで、彼らはこの広い「要塞」を手に入れることができる。 自分たちを拒絶する外の世界に対抗するために、自分たちの関係に名前をつける。
「嘘じゃないよ。……いつか、本当にそうするんだから。今は、名前が先に来ただけ」
窓から差し込む西日が、空っぽの部屋に二人の長い影を一つにして落としていた。 一週間後、二人の手元には、それぞれの署名と、不動産屋の認印が押された賃貸契約書が届いた。 そこには、公的な書体で「藤原澪・藤田陽翔(婚約者)」と併記されている。 それは、二人が誰にも邪魔されない、深く重厚な「同居」へと漕ぎ出す証明書だった。




