ep4.6: 初任給と赤い鍋
社会人になって一ヶ月。澪が持ち帰る空気は、大学時代とは明らかに異なっていた。 都心のオフィスビル、鳴り止まない電話、複雑な人間関係。外の世界で神経を磨り減らして帰宅する澪にとって、六畳一間のワンルームは、もはや単なる部屋ではなく、潜水艦のハッチのように外圧を遮断する唯一の場所だった。
最初の給料日に、澪はデパートの家庭用品売り場で、ひどく重厚な鋳物の鍋を買った。 鮮やかな、けれど深みのある赤。指先で叩くと、堅牢な音が返ってくる。
「……ただいま」 「おかえり、澪。……うわ、重そう。何それ」
美大の課題に追われ、床に座り込んでデッサンを描いていた陽翔が顔を上げた。彼の指先は鉛筆の芯で黒く汚れ、部屋には定着液の少し酸っぱい匂いが充満している。
「これ。……今日、初任給だったから」
澪が箱から赤い鍋を取り出すと、陽翔は「綺麗だね」と、壊れ物を触るようにその縁をなぞった。
「高かったでしょ。……僕、まだ何も返せないのに」 「いいよ。陽翔に返してほしくて買ったんじゃないから」
澪はジャケットを脱ぎ、キッチンに立った。 これまでは仕送りや、細々と続けていたアルバイト代で、二人分の安い食材をやりくりしてきた。けれど、今日からは違う。自分の労働の対価として得た金で、陽翔を養う。その事実は、疲弊した澪の心に、傲慢なまでの充足感を与えた。
「陽翔、そこに座ってて。今、何か作るから」 「手伝うよ」 「いいから。……陽翔は、絵を描いてなさい」
その言葉は、優しさというよりは命令に近かった。 陽翔は一瞬、戸惑ったように澪を見たが、すぐに「……わかった」と力なく笑い、再びスケッチブックに向き合った。
赤い鍋の中で、野菜がじっくりと時間をかけて煮えていく。 澪は、陽翔の背中を眺めながら、自分の中に歪な支配欲が芽生えているのを自覚していた。 彼が経済的に自立せず、この狭い部屋で絵を描き続け、自分がいなければ食事さえままならない状態であること。それが、今の澪にとっては、何よりも確かな「安全保障」だった。
(私がこの子を食わせている。私が、この子の居場所を買っている)
母がかつて言った「あんたの人生を、あの子の寂しさを埋めるためだけに使い切っちゃ駄目」という警告が、遠くで鳴り響く。 けれど、澪は赤い蓋を閉じ、その音を黙らせた。 使い切ってもいい。その代わりに、この子は一生、私の手の中から逃げられない。
「陽翔。できたよ」 「……うん。美味しそう」
テーブルに並べられた温かいスープを、陽翔は「熱いね」と言いながら、幸せそうに啜る。
陽翔もまた、自分が澪の庇護下に入り、依存の深度を深めていくことに、抗いようのない安らぎを感じていた。外の世界で戦う力のない自分にとって、澪の提供する「食事」と「経済」は、檻であると同時に、世界で一番温かい揺りかごだった。
「……ねえ、澪。僕、いつかちゃんと稼げるようになるかな」 「いいよ、ゆっくりで。……私がいるんだから、焦らなくていい」
澪の言葉に、陽翔は小さく頷き、彼女の空いている方の手をそっと握った。 赤い鍋は、その後何年も二人の食卓の中心にあり続けることになる。 それは、二人が「パトロンとミューズ」あるいは「飼い主と飼い猫」のような、抜き差しならない共生関係に踏み出したことを象徴する、重すぎるほどの重石だった。




