表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
名前のない家  作者: ねけば
memories ~生存~
6/19

ep4.3: 春を待つ花束

陽翔の高校の卒業式に、父親は来なかった。  三年前の中学校の時と同じだ。仕事が忙しいという短いメールと、祝い金という名目の無機質な振込。陽翔にとって、それは落胆ですらなく、ただの予定調和だった。


 式が終わった後の教室は、別れを惜しむ声と、記念写真のシャッター音で騒がしかった。陽翔はその喧騒をすり抜け、誰とも約束を交わさず、校門を出た。  手には、後輩の女子から押し付けられた、パステルカラーの包み紙に包まれたスィートピーの花束がある。


「……やっと、終わった」


 陽翔が向かったのは、電車を二つ乗り継いだ先にある、澪のワンルームだった。  「実家」へ帰るという選択肢は、彼の頭には微塵もなかった。


 合鍵でドアを開けると、部屋の中には春の陽だまりのような、澪の匂いが満ちていた。  大学の講義を終えて先に帰っていた澪が、エプロン姿で振り返る。


「おかえり。……卒業、おめでとう」 「ただいま。……これ、あげる」


 陽翔は、少し萎びかけた花束を澪に差し出した。  澪は驚いたようにそれを受け取り、キッチンにある唯一のガラスコップに生ける。


「綺麗な色。...陽翔、寂しくなかった?」 「ううん。全然」


 陽翔はリビングの床に座り込み、ネクタイを乱暴に緩めた。  この三年間の高校生活で、彼が覚えているのは教科書の内容でも、部活の記憶でもない。放課後、真っ先にこの部屋へ来るための、電車の車窓の景色だけだ。


「ねえ、澪。……僕、これでやっと澪と同じ世界に行ける?」


 陽翔は澪の膝に縋り付き、見上げるようにして問うた。  四月から、彼は美大生になる。学生という肩書きは変わらないが、もう「保護者」のハンコを必要とする子供ではない、と思い込もうとしていた。


「どうかな。大人っていうのは、もっと孤独に耐える人のことを言うんじゃない?」 「……じゃあ、僕は一生子供でいい。澪に守ってもらえるなら、それでいいよ」


 陽翔は立ち上がり、澪の目の前でゆっくりと制服のブレザーを脱いだ。  ボタンを外すごとに、「外の世界」の記号が床に落ちていく。シャツを脱ぎ、澪が以前買ってくれた、少しサイズの大きいスウェットに着替える。


 その瞬間、陽翔の輪郭が、澪の部屋の景色に完全に溶け込んだ。  制服という仮面を脱いだ彼は、ただの「澪の陽翔」という、名前のない存在に戻る。


「……陽翔、そのスウェット、似合ってるよ」 「うん。……これ、澪の匂いがするから好き」


 澪は、陽翔の細い首筋に手を回し、自分の方へと引き寄せた。  卒業という門出。本来なら未来へ向かって羽ばたくべき季節に、陽翔はこの六畳一間の聖域へと、より深く潜り込むことを選んだ。


 コップに生けられたスィートピーが、西日に照らされて影を伸ばす。  二人は、窓の外に広がる「正しい未来」には目もくれず、薄暗くなり始めた部屋の中で、ただお互いの体温を確かめ合っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ