ep4.3: 春を待つ花束
陽翔の高校の卒業式に、父親は来なかった。 三年前の中学校の時と同じだ。仕事が忙しいという短いメールと、祝い金という名目の無機質な振込。陽翔にとって、それは落胆ですらなく、ただの予定調和だった。
式が終わった後の教室は、別れを惜しむ声と、記念写真のシャッター音で騒がしかった。陽翔はその喧騒をすり抜け、誰とも約束を交わさず、校門を出た。 手には、後輩の女子から押し付けられた、パステルカラーの包み紙に包まれたスィートピーの花束がある。
「……やっと、終わった」
陽翔が向かったのは、電車を二つ乗り継いだ先にある、澪のワンルームだった。 「実家」へ帰るという選択肢は、彼の頭には微塵もなかった。
合鍵でドアを開けると、部屋の中には春の陽だまりのような、澪の匂いが満ちていた。 大学の講義を終えて先に帰っていた澪が、エプロン姿で振り返る。
「おかえり。……卒業、おめでとう」 「ただいま。……これ、あげる」
陽翔は、少し萎びかけた花束を澪に差し出した。 澪は驚いたようにそれを受け取り、キッチンにある唯一のガラスコップに生ける。
「綺麗な色。...陽翔、寂しくなかった?」 「ううん。全然」
陽翔はリビングの床に座り込み、ネクタイを乱暴に緩めた。 この三年間の高校生活で、彼が覚えているのは教科書の内容でも、部活の記憶でもない。放課後、真っ先にこの部屋へ来るための、電車の車窓の景色だけだ。
「ねえ、澪。……僕、これでやっと澪と同じ世界に行ける?」
陽翔は澪の膝に縋り付き、見上げるようにして問うた。 四月から、彼は美大生になる。学生という肩書きは変わらないが、もう「保護者」のハンコを必要とする子供ではない、と思い込もうとしていた。
「どうかな。大人っていうのは、もっと孤独に耐える人のことを言うんじゃない?」 「……じゃあ、僕は一生子供でいい。澪に守ってもらえるなら、それでいいよ」
陽翔は立ち上がり、澪の目の前でゆっくりと制服のブレザーを脱いだ。 ボタンを外すごとに、「外の世界」の記号が床に落ちていく。シャツを脱ぎ、澪が以前買ってくれた、少しサイズの大きいスウェットに着替える。
その瞬間、陽翔の輪郭が、澪の部屋の景色に完全に溶け込んだ。 制服という仮面を脱いだ彼は、ただの「澪の陽翔」という、名前のない存在に戻る。
「……陽翔、そのスウェット、似合ってるよ」 「うん。……これ、澪の匂いがするから好き」
澪は、陽翔の細い首筋に手を回し、自分の方へと引き寄せた。 卒業という門出。本来なら未来へ向かって羽ばたくべき季節に、陽翔はこの六畳一間の聖域へと、より深く潜り込むことを選んだ。
コップに生けられたスィートピーが、西日に照らされて影を伸ばす。 二人は、窓の外に広がる「正しい未来」には目もくれず、薄暗くなり始めた部屋の中で、ただお互いの体温を確かめ合っていた。




