ep4: 婚姻届の落書き
澪が大学進学を機に始めた一人暮らしの部屋は、お世辞にも広いとは言えなかった。調布の静かな住宅街にある、築二十年のワンルーム。 けれど、その六畳一間は、陽翔にとってこの世で最も安全な聖域だった。
「……何これ。ゼクシィ?」
週末、当然のように合鍵で入ってきた陽翔が、ローテーブルの上に置かれた雑誌を指差した。 十九歳になった澪は、レポートの資料に埋もれながら、あくび混じりに答える。
「友達がね、付録の婚姻届が可愛いからって押し付けてきたの。いらないって言ったんだけど」 「婚姻届。……ピンクなんだね」
陽翔は床に座り込み、その付録の紙を手に取った。高校二年生になった彼は、まだ少しだけ背が伸びていたが、澪を見上げる時の湿ったような瞳は変わらない。
「ねえ、書いてみていい?」 「え、何を?」 「名前」
陽翔は筆箱から、いつもデッサンに使っている鉛筆を取り出した。
「いいよ、どうせ捨てるし」と、澪は視線をパソコンの画面に戻した。キーボードを叩く規則正しい音が、狭い部屋に響く。
「……藤原、陽翔」
陽翔が小さく呟いた。 鉛筆が紙を擦る、さらさらとした音。
「……藤田、澪」
今度は、澪の名字に自分の苗字を重ねて書いたらしい。 澪は打鍵を止め、ふいに出た溜息を飲み込んだ。以前、母に言われた「あんたの人生を、あの子の寂しさを埋めるためだけに使い切っちゃ駄目よ」という言葉が、胸の奥で小さな棘のように疼く。
けれど、目の前で真剣に「落書き」をしている陽翔の背中を見ていると、その棘さえも愛おしく感じてしまう。
「どっちがいいかな」 「何が?」 「苗字。澪の家を継ぐなら、僕が藤原になるでしょ。僕の家……は、別にどうでもいいけど。藤田のままでもいいし」
陽翔は冗談めかして言ったが、その指先はわずかに震えていた。 彼は知っている。自分には帰るべき「まともな家」がなく、澪という錨を失えば、そのままどこかへ流されて消えてしまうことを。
「……気が早いって。まだ私、十九だよ」 「でも、するんでしょ。いつか」 「……そうだね。たぶんね」
澪は椅子を回転させ、陽翔の隣に座り直した。 陽翔が書いた婚姻届を覗き込む。そこには、筆跡の違う二人の名前が、公的な書類の枠の中で不格好に並んでいた。
「じゃあ、これは私が預かっておく。本当に書く時が来たら、また陽翔に渡すから」
澪は、その「落書き」を半分に折り、大事にしていた本の中に挟んだ。 それはプロポーズと呼ぶにはあまりに幼く、事務的で、熱情に欠けていた。けれど、二人にとっては、どんな指輪よりも確かな、未来への予約票だった。
「……約束だよ。澪」
陽翔が澪の裾を、小さな子供のように掴む。 澪はその手を払いもせず、ただ静かに、彼の頭を撫でた。
道なりに、逃げ道を塞いでいく。 その心地よい閉塞感に、二人は自覚的に身を沈めていた。




