ep3: 境界線のない部屋
梅雨特有の、湿り気を帯びた午後のことだった。高校三年生の澪は、進学に向けた赤本を広げ、一年生の陽翔は、その足元でスケッチブックにペンを走らせていた。
澪の部屋には、二人の境界線がない。勉強机の半分は、いつの間にか陽翔の画材や消しゴムのカスに占領されている。クローゼットの片隅には、陽翔が着替えとして置いていったTシャツが何枚も重なり、澪の柔軟剤の匂いを吸い込んでいた。
「……ねえ、澪。三鷹の方の大学にするんでしょ?」
陽翔が床に寝そべったまま、不意に声を上げた。 澪はシャープペンシルを動かす手を止めずに、短く「そうだよ」と答える。
「じゃあ、僕もそっちの近くの高校にすればよかったかな。中学の時、そこまで考えてなかった」 「いいじゃない、電車ですぐなんだし。それに、陽翔が高校を卒業する頃には、私、もう二十歳だよ」 「二十歳。……大人だ」
陽翔はスケッチブックを放り出し、這いずるようにして澪の膝に頭を乗せた。 澪の友人が聞けば「ありえない」と悲鳴を上げるような光景だが、二人にとっては、雨の日に傘を差すのと同じくらい当たり前の所作だった。
澪は、陽翔の少し硬い髪に指を差し入れ、ゆっくりと梳く。 美容室に行くのを面倒くさがる彼の襟足は、いつも澪が家庭用のハサミで整えていた。
「二十歳になったら、お酒飲めるね。……結婚も、できるんだよね」 「……そうだね」
陽翔の言葉は、熱烈な求婚ではない。 将来の予報を確認するような、淡々とした響き。 二人の間に、「告白」という儀式は存在しなかった。幼い頃から、お互いの親がいない空白を埋め合い、同じ食卓を囲み、同じ体温を分け合ってきた。その延長線上に「結婚」という言葉が、実体のない付箋のように、ぺたりと貼られているだけだ。
「僕、澪とずっと一緒にいると思う。というか、他の人と一緒にいる自分が想像できない」
「私もだよ。陽翔がいない生活なんて、もう思い出せないし」
澪は、膝の上の陽翔の顔を覗き込んだ。 陽翔は安心しきった顔で目を閉じ、澪の指の感触に身を委ねている。 彼にとって、澪は「姉」であり「母」の代わりであり、そしていつの間にか、それらすべてを内包した「たった一人の伴侶候補」になっていた。
「……大学に入ったら、一人暮らしするの?」 「うん。お母さんが、ここを出て隣の市に引っ越すかもって言ってる。病院の近くに。だから……」 「じゃあ、僕もそこに住めばいい?」
陽翔が目を開け、悪戯っぽく、けれど切実な光景を瞳に宿して澪を見た。 澪は少しだけ困ったように笑い、彼の額を指で弾いた。
「気が早いよ。陽翔が大学生になるまで、あと二年もあるんだから」 「二年なんて、すぐだよ」
外では雨音が激しさを増していた。 窓を叩く雨は、外の世界を遮断するカーテンのようで、二人はその内側で、名前のない親密さをいっそう深めていく。 「なあなあ」のまま進んでいく未来。 それが危ういものだとは、今の二人には微塵も思えなかった。




