ep2: 真夜中のキッチン
深夜一時。玄関の鍵が開く音がして、澪は参考書から目を上げた。この時間に帰ってくるのは、夜勤明けの母、美奈子だ。
澪は音を立てないように椅子を引き、リビングへ向かった。ソファでは、陽翔が丸まって眠っている。高校の制服のまま、澪のブランケットにくるまり、幼い子供のような寝息を立てていた。
「……ただいま」 美奈子は疲れた顔で笑い、陽翔を一瞥した。驚く様子も、咎める様子もない。彼がこの時間にここにいることは、藤原家にとって「いつものこと」だった。
「お帰り。お茶、淹れるね」 澪が手際よくポットを準備するのを、美奈子は食卓に座って眺めていた。看護師特有の、鋭くも温かい視線。
「陽翔くん、今日もずっといたの?」 「うん。おじさん、また帰ってこないんだって」 「そう。……」
美奈子は出された湯呑みを両手で包み、ふう、と息をついた。 「澪。あんたたちが仲が良いのは、お母さん、いいと思ってる。陽翔くんは優しい子だし、あんたを支えてくれてるのも分かってる」
そこで一度言葉を切り、美奈子は澪の目を真っ直ぐに見た。
「でも、これだけは言っておくわ。……あんたの人生を、あの子の寂しさを埋めるためだけに使い切っちゃ駄目よ」
澪の手が、わずかに止まる。 「……分かってるよ」
「いいえ。私はね、あんたと同じくらいの頃に、勢いだけであんたを産んだ。後悔はしてないけど、選べる選択肢は全部捨てたの。……もし、あの子との関係で何かが起きたとき、あんたが『この子のために諦めた』って思う日が来るのが、お母さんは一番怖いの」
美奈子の言葉は、重かった。それは陽翔への拒絶ではなく、娘への、切実なまでの生存戦略の教えだった。
「陽翔くんを愛するのはいい。でも、逃げ道だけは作っておきなさい。二人の形は、あんたが決めなさい。あの子に決めさせるんじゃなくてね」
リビングのソファで、陽翔が小さく寝返りを打った。 彼はまだ知らない。自分たちが享受しているこの「温かい居場所」が、澪の強い意志と、母親の静かな覚悟の上に成り立っていることを。
「……大丈夫。ちゃんと、考えてるから」
澪はそう答えて、空になった美奈子の湯呑みを受け取った。 陽翔を「守る」ということは、同時に自分の足で立ち続けることだと、澪は深夜のキッチンで深く心に刻んだ。




