ep9/side B: 礎を築く夜
1LDKのローテーブルの上には、二人の過去と未来が混濁するように並んでいた。 使い古された10代の頃のスケッチブック。最新の住宅ローンの契約書。そして、白黒の不鮮明なエコー写真。
二人は並んで座り、新しい婚姻届にペンを走らせる。
「……『藤原』になるの、変な感じ?」 澪が訊ねると、陽翔は少しだけ筆を止めて、柔らかく微笑んだ。 「全然。むしろ、やっと本当の自分の名前を見つけた気がする。……僕を置いていった父親の名字なんて、もういらないしね」
陽翔は迷いなく、新本籍地の欄にこれから建てる新しい家の住所を書き込んだ。 彼らにとっての結婚は、家系を継ぐことでも、親戚を繋ぐことでもない。自分たちを縛り付けていた過去の「不完全な家族」という呪縛を断ち切り、自分たちが王となる「新しい国」を建国する宣言だった。
陽翔の手が、澪のまだ平坦なお腹にそっと触れる。 「この子が生まれるまでに、ちゃんと部屋を完成させなきゃ。……澪の仕事用のスペースも、日当たりがいい場所に作ったからね」 「ありがとう。……私たち、本当に『親』になるんだね」
かつて、深夜のキッチンでカップ麺を啜り、親の不在に怯えていた二人の子供は、もうどこにもいない。 彼らは今、自分たちが欲しくてたまらなかった「揺るぎない安全地帯」を、自分たちの稼ぎと、自分たちの意志で、一から設計していた。
「……ねえ、陽翔。この子には、鍵を持たせなくていいようにしようね」 「うん。……いつでも、誰かが家で待ってる。そんな当たり前のことを、この子の当たり前にしよう」
それは、自分たちの幼少期に対する、静かで力強いリベンジだった。




