ep8/side B: 巣のための契約
1LDKの部屋が、狭く感じられるようになったのはいつからだっただろう。 陽翔のデザイン用モニターが増え、資料が床を侵食し、二人の生活が部屋の容量をわずかに超え始めた頃。 それは、予感のようにやってきた。
「……陽翔。これ」
日曜日の朝、澪は洗面所から戻り、プラスチックの細い棒をテーブルに置いた。 陽翔はトーストを口に運ぶ手を止め、無言でそれを見つめる。二本の赤い線。それは驚きというより、ずっと前からそこに書かれることが決まっていた、新しい「予定表」のように見えた。
「そっか。……そっか」 「どうする、なんて聞かないよ。産むし、育てるでしょ。私たち」
澪の言葉は、相談ではなく宣言だった。 陽翔はゆっくりと頷き、自分の手を澪の手の上に重ねた。 二人の親たちは、無責任に自分たちを「放置」した。その欠落を埋め合うように生きてきた自分たちが、今度は「絶対に放置されない側」を創り出そうとしている。その事実は、静かな高揚感を伴って二人の間に満ちた。
「この部屋じゃ、足りないね」 「うん。……家、買おうか。陽翔」
そこからの動きは、驚くほど事務的で、迅速だった。 二人は週末ごとに不動産屋を巡り、将来の子供部屋がある静かな一戸建てを探した。そして、気に入った物件を見つけた時、銀行の担当者が「ペアローン」という言葉を口にした。
「共同名義で組むなら、入籍されていることが前提になります。住宅ローン控除も、その方がずっと有利ですから」
担当者の説明を聞きながら、二人は顔を見合わせた。 愛を誓うためでも、ロマンチックな約束のためでもない。 「三十五年の住宅ローン」という、途方もなく重く、強固な鎖。 それこそが、不安定な子供時代を過ごした二人にとって、何よりも欲しかった「絶対的な繋がり」の証明だった。
「籍、入れなきゃね。銀行に言われたし」 「そうだね。ローンの審査、通らなくなったら困るし」
帰りの電車の中で、二人はまるで家電の買い替えを相談するようなトーンでそう言った。 けれど、陽翔が握る澪の手には、今までになかった力がこもっていた。
「……澪。僕、藤原になってもいいよ。」 「どっちでもいいよ。……でも、子供にはちゃんとした苗字をあげたいね。私たちが、自分たちで選んだ苗字を」
かつて本に挟んだ、色褪せた婚姻届の落書き。 あれはただの予行演習だった。 今、二人の手元にあるのは、最新の不動産チラシと、母子手帳と、銀行の審査書類。 それらすべてを束ねるための「ホチキス」として、彼らは入籍という手続きを選ぶ。
「……これで、本当の『家』になるんだね」 「ええ。もう誰にも、追い出されないし、独りにされない」
二人は、自分たちがかつて欲しくてたまらなかった「完璧な家族の肖像」を、極めて現実的な計算と、事務的な手続きによって、一つずつ形にしていった。 それは、情熱的な恋の結末というより、二人の孤独な生存競争の、一つの「勝利宣言」に近いものだった。




